9、対峙
とん、と。
己の足が頂上へ辿り着く。
背後の灯りは全て掻き消え、唯一の光源は自分の持つ提灯だけとなった。掲げれば、目の前に剥げかけた朱色の鳥居がある。
——ここを潜れば、きっともう戻れない。
そんな予感が確かにした。
鳥居の下を通り抜け、振り返る。向こうは階段が下まで続いているはずだが、今はもう暗闇に飲み込まれ、提灯程度の僅かな灯りでは分からない。
智史は神社の敷地内へ向き直った。提灯は相変わらずゆらゆら揺れて足下を照らすばかりで、辺りは暗がりと静けさに包まれていた。
石畳の上を草履で歩くと、砂利道とはまた違う音がする。は、は、は、と気が付けば呼吸が浅くなっていた。
ふと、奥の方から明かりが漏れているのに気が付いた。暫くぶりの自分以外の光に、自ずと足が早くなる。
明かりは拝殿の更に奥からだった。近寄っていくと、それが本殿から出ているのだと分かる。ここへ来て二日目の昼に安倍が反応していた場所だ。血の匂いがすると、そう言って開けようとした、朱色の木製の扉。固く閉ざされていて、中を見ることは出来なかったその場所。
その扉が、開いていた。
漏れる光に誘われるようにして、中を覗く。ぶわりと香ったのは、あの甘い香り。
女が、背を向けて座っていた。艶やかな黒い髪を一つにまとめ、ただじっと、そこにいる。
その美しい造形が、ゆっくりとこちらを振り向く。
「先生」
痺れるほど甘い匂いが充満していた。指一本すら満足に動かせずに、ただ目を開いて、その場に突っ立っているしかない。
本能的な恐怖だった。目の前の女は相も変わらず美しく穏やかであるというのに、何故かその姿が背筋に冷たい感覚を齎す。
「待ってたのよ、先生」
そう言って立ち上がると、緋織は音もなくこちらへ近付いた。白く細い二本の腕が伸ばされる。
「さあ。さあ」
腕が近づく。扉の外に立つ智史へ、美しい指先が触れようとする。
紅い唇が吊り上がる。
絡め捕られる、寸前。
緋織の手が止まった。
それは緋織が己の意思で止めたのでは無いようだった。物理的に何かに阻まれるようにして、腕が外へ出る直前で止まる。
緋織はその手をどうにか外——智史の方へ伸ばそうとしているが、どうにもならないようだった。こちらへ手を伸ばしきることは叶わず、けれどその逆、腕を引っ込めることは出来ている。またこちらへ腕を伸ばそうとして、智史に触れる直前でまた止まる。
「な、何故……!」
緋織の驚きと焦りの滲む声が響いた。
「先生……!」
焦った声でそう呼ばれる。再びこちらへ腕が伸ばされ、智史は漸くそこから一歩後ずさった。
二歩、三歩と続けて後ずさり、そうしてすぐ、とん、と背中が何かに触れる。
冷ややかで、それでいて清廉な香り。
思わず振り返る。
黒い髪がさらりと揺れていた。提灯の灯りのせいだろうか。黒い筈の瞳が、金色に光って見える。
「そこから出ては来られないよ。そういう結界を張ったからね」
安倍は至極冷静に、穏やかにそう言った。
「安倍さん……!」
思わずその名を呼んだ智史に片眉を上げて一瞬だけ視線を寄越した後、安倍はまた緋織を見つめた。静謐なその眼差しが立ち竦む女を射抜くが、女はこちらへ焦った様子を見せず、どれだけ手を伸ばしても阻まれるその結界へ手を添えると優しげに微笑んだ。
「結界なんて、嫌だわ。どうしてそんなことなさるのかしら」
首を傾げてそう言う女が相も変わらず美しい笑みを浮かべていることに、言いようのない気味悪さを感じて半歩ほど後ずさる。ざり、と草履が地面をこするのを、後ろに立つ安倍が受け止めた。肩にその両手が置かれる。手のひらから伝わる熱に、自分の身体が随分と冷えていたことに今更ながら気が付いた。
後ろに立つ安倍は相変わらず緋織を見つめたまま、口を開くことはない。緋織は焦れたように結界にくっつくと、智史に向かって言う。
「せんせ、どうぞお入りなすって。温かいお茶もあるのよ」
しかしながら、智史にそちらへ行く気はなかった。あれほど立ち込めていた甘い香りはいつの間にか消えており、感じるのは土と木の匂いと、先程も届いた、後ろからの清らかな香り。
「残念ながら、先生はお気に召さないようだ。代わりと言っちゃあなんだが、僕が相手をしよう」
清貴は智史を下がらせると前に出た。懐からぺらりと紙を取り出して、そこへふっと息を吹きかける。紙に筆跡のような模様が浮かび、縮こまるようにぶるりと震える。
そして——
蝶だ。金色の、蝶。
輝く鱗粉を散らして飛ぶ一羽の蝶。清貴の手のひらから緋織の元へ、ひらひらと飛んで行く。
「まずは、きみの化けの皮を剥がなくてはね」
ひらひら、ひらひら。
美しい蝶だ。触れたら何かご利益がありそうな、けれど本当に触れるのは躊躇してしまうような、そんな神聖で、荘厳な雰囲気の、蝶。
ひらひら、ひらひら。
智史はその蝶が飛ぶのを静かに眺めていた。それの行く末が知りたくて、それが何をするのか知りたくて、ただじっとそれを見つめる。そうして見つめていたその先に、真っ赤な唇を開いた舌が見えた。
ばくん。
残った鱗粉がきらきら舞って、やがて幾ばくもしないうちに消えていく。
「……陰陽師風情が」
蝶をひと飲みした真っ赤な唇がそう動く。
「数年程度しか生きておらぬ小童の分際で」
爛々と輝く瞳が、安倍を捉えていた。
「あまり妾をこけにするなよ」
低く冷たい、ぞっとする声だった。結界から出られないだろうことは分かっているのに、それでも逃げたくなるような、ひれ伏したくなるような声。その重力に負けて、智史は思わずどさりと尻餅をついた。
「こけになんてしていないさ」
つい息を止めてしまいそうになる威圧感の中で響いた安倍の声は、場違いなほど軽やかだった。熱を持たないその声は、智史と会話している時と変わらない。
「敬い、尊重し——その上で、祓おうとしている」
飄々とした様子で告げるその男に、正面からはよっぽど見れぬほどの恐ろしい形相で、緋織が静かに呟いた。
「嗚呼……いつの世も。なんと目障りなことか、陰陽師」
緋織は両手を振って叫んだ。
「キシャアアアア!」
到底人とは思えぬ声が響くと、神社を囲っていた木々の陰から、成人男性ほどはあろうかという大きさの毛むくじゃらの何かが現れた。
それらには八本の脚がついていた。節くれだったその脚は不気味にぎしぎしと軋み、毛に覆われた関節が異様に膨らんでいる。腹と思しき中央部もまた不自然に膨れ上がり、表面を走る細い管のような脈がじくじく蠢いていた。
真っ赤に爛れた八つの目がぬらりと光り、牙の間からは糸と涎が混ざり合って垂れている。湿った口器がかちかち鳴って、それが空気を切り裂く度に、酸っぱいような、血と腐肉が混じる臭気が漂う。
——蜘蛛だ。
そう思ったのと同時、八つの目と目が合った。
智史はその場を動くことも、声を出すことも出来なかった。だがその巨大な生き物に、生理的な嫌悪感がきて喉を引き攣らせる。一瞬のことで、けれどその黒々とした八足の化け物が、涎の滴る牙をかちかちと鳴らして眼前へ迫ったのを、はっきりと認識していた。
「あ」とも「う」ともつかぬ何某かを、勝手に喉が絞り出したのが己の耳へ届く。目を閉じてしまえばこの光景から抜け出せるのではとも思ったが、目蓋が固まってどうにもならない。
瞬間、目の前の悍ましい塊が掻き消える。その代わりに視界に入ったのは、人間の足。「は……」と思わず腑抜けた声が出ると、それを聞きつけたのか目の前に立つ安倍が片眉を上げた。
「呆けた顔をしていないで、こちらへ。あとこれを」
墨で何やら書きつけられた一枚の札を渡されたので、大人しく懐へしまう。その間、安倍は向かってくる大蜘蛛の化け物に的確に蹴りを入れながら、智史を囲うように地面へ杭を打っていた。
「簡易結界とは違って、物理のものを媒体にするから面倒なぶん効力は強い。百体の大蜘蛛が襲ってきても耐えられるだろう」
向かってきた一体を安倍が避けると、それが真っ直ぐこちらへ向かってくる。思わず後ずさりして逃げかけるが、安倍に「そこから動くな!」と鋭い声で言われたので反射的に身体が止まった。それと同時、巨大な蜘蛛が智史の元へ辿り着き、ぐわっと脚を上げて襲い掛かってきたかと思えば、その体が途中で弾かれるように後ろへ倒れた。つんざくような鳴き声が上がり、よくよく見れば結界に触れたのであろう脚が二本ほど、じゅうと音を立てて爛れている。
「な、何が……」
起こったのか。
恐らく痛みを感じているのだろう。脚を縮めて悶える蜘蛛を声も出せずに驚いて眺める智史のすぐ脇で、安倍は満足げに口角を上げた。
「我ながら良い出来だ。きみ、そこから動くなよ」
安倍は智史に念押しすると、襲い掛かる蜘蛛たちに向き直る。
一匹がその巨大な脚を振り上げたが、安倍はそれをひらりと躱した。去り際、その脚にぺたりと札を貼り付けて、右の人差指と中指を立てる。薄い唇が何事か呟き、するとがちりと蜘蛛が固まった。続けて背中から襲ってきた蜘蛛を後ろ向きに蹴り上げ、よろめいた腹に一枚。右から来た蜘蛛にはその顔へそのまま一枚。左の蜘蛛には振り向きざまに裏拳を叩きつけ、吹っ飛んだところを一枚。
危なげなく処理していくので、智史はぽかんとそれを眺めた。それに気づいてか、安倍が大蜘蛛から吐き出された粘膜状の何かを避けながら言う。
「陰陽師は意外と体力仕事なんだ」
言いながら、顔には笑みすら浮かんでいる。
右へ左へ避けながら順調に蜘蛛たちを止めていき、最後の一匹が固まると、安倍はふうとひと息ついて立ち止まった。
「だが、これは少し陰陽師っぽいかもしれないな」
安倍は顔の前で再び右手の人差指と中指を揃えた。
「オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ」
そして両の掌を勢いよく打ち付ける。
——ぱんっ。
一瞬の静寂。
嵐の前の静けさであった。
智史が一つ瞬きをした瞬間、蜘蛛の化け物たちに貼り付けられた札が燃え上がった。それらは短い毛にまみれた巨体を一つ残らず包み込む。暗い空に紅蓮の明るい波が揺らめき、それが智史らを囲んで一斉に発火するので、眩しいくらいだった。耳障りな濁った高い叫び声がそこかしこで上がり、しかしそれも数秒すれば聞こえなくなる。
大きな揺らめきはすぐに小さくなり、後に残ったのは燃えて殆ど無くなってしまった札と、それを僅かな火種に最後のひと時まで燻る紅蓮の炎だった。
安倍はそれを見届けるとくるりと本殿へ振り返る。緋織はその美しい相貌に苛立ちや剣呑、侮蔑など様々な負の感情を凝縮させ、安倍を睨んでいた。
「眷属とはいえども所詮一介の蜘蛛。喰らうには至らなんだか。忌々しい……忌々しいことよ、陰陽師」
絞り出すように怨念を吐く女に、対象となった男はしかし涼しげに答える。
「随分嫌われたものだね。余程過去痛い目に遭ったと見える」
「嗚呼ほんに……お前を家へ招くべきではなかった」
「そこまで思ってもらえるなんて光栄だな」
安倍の減らず口に、緋織の米神に血管が浮く。けれどそれはすぐに智史へと視線が移ったことで掻き消え、代わりにあの美しい笑みが広がった。
こちらへ手を差し伸べ言う。
「さあ、こちらへ。怖いことは何もない」
智史は何も言わず結界から動かない。安倍はそれに満足そうな笑みを浮かべると、その身体で智史の視界を遮った。
「きみはふられてしまったのさ。追い縋るのはみっともないよ」
「ほざけ小童が! あれは妾の贄じゃ。喰ろうて養分となる」
安倍が身じろぎして、彼の濡羽色の髪が揺れた。同時に俄かに空気が冷え、それは智史にも届いたが、それにどことなく安倍の面影を感じ取り、不思議と寒くない。
安倍が薄い唇を開く。
「僕は何も、妖怪と見たら全てを退治しなくてはと考えるような過激派じゃあない。中には人間と仲良くしているのもいるし、人と妖との理をしっかり弁えているものもいる」
近所で井戸端会議でもしているような声音だった。先程の大蜘蛛との闘いで埃でもついたのか、着物の肩にふっと息を吹きかけて手で払う。
「けれど中には、そういう理を飛び越えて、こちら側へ害を加えようとするのがいる。こちらが境界線を越えていなくてもね」
安倍は緋織を見た。「きみのことだよ」と、その目が雄弁に語っている。
「そういうのは、退治する必要がある。こちら側の安寧を守るのが我々陰陽師の仕事だからね」
言い終えると安倍は両腕を左右へ広げた。
「煌蝶、行け」
低く静かな声が響くと、神社を囲う木々から一斉に何かが飛び立った。よく見ると、それは先ほども見た金色に光る蝶だった。
何十、何百の黄金色の羽根が、美しい鱗粉を撒き散らしながら怒涛のスピードで緋織の元へ飛んで行く。一匹、また一匹と緋織の身体へ留まり始め、それが少しずつ人の形をした集まりになっていく。緋織が留まる蝶を手で払いのけようとするが、それよりも蝶の集まる方が早かった。
身体がゆっくり後ろへ倒れ込む。暫くはぴくぴく動いていたが、やがて全てが蝶に覆われると、後はもう、金色の羽根がゆっくり動くばかりとなった。
床に倒れ伏したその身体に、智史は終わったかと気づかぬうちに息を漏らした。緋織の身体を覆う黄金色はゆっくりと羽根を広げたり閉じたりして、その度にきらきらと僅かに鱗粉が舞う。辺りは静寂に沈み、全てを呑み込んでしまいそうな暗闇への恐怖も少しばかり和らぐ。今度こそ意識的にほうと息をついて、未だ本殿を向いて立つ安倍へ歩み寄ろうと身じろぎした瞬間、鋭い声で縫い留められた。
「まだ動くな」
「え……でも」
「いいかい、きみ」
安倍が視線だけこちらへ寄越すのと、その奥、緋織の身体に留まっていた蝶たちが一斉に飛び立つのは同時だった。
「僕がいいと言うまで、動くな」
前動作もなく飛び立った蝶たちに驚き、反射的にそちらへ目を遣る。蝶がいなくなったので緋織の身体が見えるようになり、同時に、その上半身がぐわりと弓なりに曲がりながら起き上がるのが見えた。
「忌々しい……忌々しい小童め……」
伸びたままだった緋織の下半身がぶくぶく膨れ上がったように見えた。衣の下で何かが詰まって蠢いているのか、布地が内側から押し広げられ、みしりと音を立てる。そして——、
瞬きの間に、女の様相が変わっていた。
その巨大な影に合わせて、智史の首が上を向く。さほど大きくない本殿が盛り上がる身体に押し上げられ、めきめきと悲鳴を上げる。息もつかぬ間にそれが限界を迎え、木で出来た小さな本殿は緋織の大きな身体を抑え込めずに崩れていく。
呆気なく崩壊した木片の中、智史が見たのは蜘蛛のような細い脚だった。
白い首から上は尚も人の女でありながら、その下は闇の塊のように膨れ上がり、八本の脚が広がっている。光を殆ど吸い込んでしまう程に黒く艶めいた脚は、どれがどこから生えているのか判然とせず、ただじりじりと這う音だけが確かに耳へ届く。
飛び立ったはずの蝶の群れが周囲で粉雪のように舞っていた。けれどよく見ればそれは、千切れて散ってしまった羽根やその残骸が舞い落ちているのに過ぎなかった。
喉の奥が引き攣る。寒くもないのに身体が震え、心臓が破裂しそうなほど早く脈打つ。咄嗟に胸元を抑え息を整えようと深く呼吸をするが、その度に心臓が痛いほど震えてどうにもならなかった。全てを投げうって逃げ出したい衝動に駆られるが、安倍に動くなと言われているのだということを思い出し、何とか踏み止まる。しかしどうにも立っていられそうになく、守られた結界の中、固い地面にへたり込んだ。
「なるほど、正体は女郎蜘蛛か」
安倍の声が空間を裂く。相変わらず涼やかなその声は、智史を僅かばかり現実へ引き戻してくれた。
「女郎蜘蛛……」
言葉を繰り返したのを聞き留めてか、安倍がこちらへ聞こえるように言う。
「女郎蜘蛛と呼ばれ出したのは江戸時代頃からだが、古くは平安時代から、美しい女に化ける蜘蛛の妖怪は存在していた。源頼光と土蜘蛛伝説——病に伏した頼光の元へ夜な夜な美女が訪れ、それが実は蜘蛛の妖怪だった——男を喰らう女蜘蛛の妖怪は、それが起源だと言われている」
智史はこれでも民俗学者の端くれだ。土蜘蛛の名前ぐらいは知っていた。けれどそれはヤマト王権に従わなかった土着民への蔑称としてで、それが後に妖怪や怪異と結び付けられるようになったのだろうというのが通説だ。王権に従わない民を妖怪視していたのが、時代を経て、文字通り妖怪として人々の創作物に出てくるようになったのだと。
けれど、まさか——。
「実在、していたのか……」
安倍が口角を吊り上げて言う。
「ようこそ、先生。こちら側へ」
聞く者の嫌悪感を煽るような、甲高い奇声が発せられた。女郎蜘蛛は崩れ落ちた本殿の木片を踏みつけてこちらを見ている。獲物を狩る前の、狙いを定めるようなびりびりとした感覚。
ぎち……ぎち……と、どこから鳴っているのか分からないような妙な音がして、瞬間、緋織の姿が視界から消える。その拍子に「は、」と吸ったのか吐いたのか、よく分からない呼吸が己の口から洩れた。
次に女郎蜘蛛の姿を認識できたのは、自分の数メートル先にいる安倍に襲い掛からんとするその直前だった。
女郎蜘蛛と安倍の間を裂くように、黄金色の蝶たちが駆け抜ける。その勢いに圧されたように緋織がよろめき、安倍は両手を組んで人差指と中指を合せた。
「オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ」
女郎蜘蛛の巨躯を、先ほども見た紅蓮の炎が覆い尽くす。激しく美しい揺らめきは、けれど緋織の下半身から伸びる八本の脚が振り上げられると、瞬く間に消えてしまう。
「やはり簡単にはいかないか」
そう言って、安倍は緋織から距離を取る。
「何故……本殿から出られないはずじゃ……」
恐怖と困惑の混じったまま思ったことをただ口に出せば、着流しの裾をはためかせて安倍が答えた。
「結界はあくまでもあの本殿自体にかけていたからね。その本殿がああも粉々になってしまえば、効力はなくなるさ」
ゆらりと巨体が揺れ、安倍に襲い掛かる。ひらりと躱したが、体制を立て直す前にそのぼってりと膨れた腹の先から白い糸が吐き出された。
「煌蝶ッ!」
安倍が鋭く名前を呼ぶと、何匹かが庇うように前へ飛び出た。糸に包まれると、そのままどろりと融けるように地に落ちる。黄金色の羽根はただの白い紙に姿を変え、羽根を欠損したその姿を見た安倍がやや不愉快そうに言った。
「ここへ来るのに用意した式神がこうも消されていくとは。癪に障るね」
緋織がその口元から覗く牙をかちかち鳴らして愉快そうに笑った。
「蜘蛛が蝶を喰らうのは自然の摂理。道理の分からぬ小童にはちと難しかったかのう」
「自然の摂理ね。……言ってくれる」
安倍の薄い唇が弧を描く。どこか好戦的な色を帯びた黒い瞳が金色に輝き、それが伝染するように彼の周りを包んだ。溶けだした金色はきらきら輝きながら安倍の姿を隠したが、しかしそれも数秒のこと。やがて形作られたそれがゆっくり羽根を広げると、一羽の大きな蝶となって空へ飛び立つ。
かちかちかち……歯の合わさる音がする。
「この期に及んでまた蝶か。いい加減学べばよいものを……」
巨大な蜘蛛がまた空を舞う蝶へ、その白い糸を伸ばした。
一匹の大きな蝶は、よく見れば小さな黄金の蝶の集まりだった。女郎蜘蛛が吐き出した糸が羽根へ届くと、わっと周囲の蝶たちが広がってそれを避ける。何匹かは躱しきれず糸に包まれ地上へ堕ちていき、それ以外がまた一匹の蝶を形作った。蝶はきらきら舞う鱗粉を落としながら、蜘蛛の頭上を飛ぶ。
きらきら、きらきら。美しい光の粒がぱらぱら舞い落ちて、緋織の身体まで到達する。
瞬間、緋織の悶絶する声が響いた。喉の奥から出る咆哮のような、聞く者全てが震えて動けなくなってしまうような、苦痛に満ちた恐ろしい叫喚。よくよく見れば舞い落ちた粉のその先から、じわじわと焼け爛れているのだった。
「その鱗粉には呪を施してある。ただの蝶では勝てないと、きみから学ばせてもらったからね」
相変わらず軽やかな声でそう言う安倍に、緋織が美しい顔を歪めた。醜い言葉を浴びせ、その脚を振り上げる。
「おのれおのれおのれぇッ! 陰陽師などとて虚ろなる名ばかり! 天に疎まれ、地に嫌われ、妖にすら憎まれる穢れの眷属めぇぇぇッ!」
脚を振り上げ、糸を吐き出し、牙から滴る毒を飛ばす。髪を振り乱し侮蔑を叫ぶ巨大な蜘蛛女の姿は、まさに妖怪であった。
頭上の蝶が、またきらきら鱗粉を落としていく。憎々しげな声を上げながら、それの元凶となる男へ毒を吐く。
ひらり、ひらり、蝶が舞うようにそれを避ける安倍が、両手を組み指を立てて唱える。
「オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ」
鱗粉がきらきら落ち、そこを起点にぼう、と炎が燃え上がった。それは空気を吸い込みどんどん膨れ上がると、巨大な女郎蜘蛛の身体を包み込む。炎の中から女の叫び声が轟いたが、炎はそれさえも飲み込み膨らんでいく。
安倍は同じ呪文を三度繰り返した。その度に炎が強まり、紅蓮から橙、橙から白縹へと色を変えていく。
ぼうぼうと燃え盛る炎は女を完全に飲み込み、やがてその声すら聞こえなくなる。漸く終わるのだと、傍から見ているだけだった智史すら安堵の息を吐いた。まだ力の入らない足でゆっくり立ち上がり、そろそろ結界を出ても良いかと安倍に尋ねようと息を吸い込んだ、瞬間。
「——新藤ッ!」
安倍のこれほど焦った声を聞くのは出会ってから初めてだなあ、と思った。
目の前が暗くなり、すぐにそれが暗いのではなく、何かが視認できないほど近くにあるのだと理解する。
焦げた匂い、煤けた布、ぢりぢりと焼け付く黒い髪。目を覆う、黒い手のひら。
「え、」
そう小さく声が出たのと、その手が智史の米神を包み込むのは同時だった。美しさの面影もない、爛れたその顔。その奥の瞳と、目が合う。
耳を震わす音は確かになかったはずなのに、何故か名前を呼ばれたような気がした。
結界はどうしたのだろう。死んだのではなかったのか。なぜ今この両手に顔が包まれているのか。
そんなことが頭を過り、けれどそんなことを思えたのも一瞬だった。
深く、深く、泥濘の中へ沈んでいく。




