6、蜜香
川沿いの丘は恰好のデェトスポットだった。少し奥まった所にあるので、訪れる者も少ない。智史も緋織も、心置きなくお互いを見つめ合えた。
結婚の約束は、やっぱり親から反対を喰らった。名主の家の娘だ。一体何を考えているのだと両親共にカンカンで、純粋に応援してくれるのは妹だけだった。
分かっていたことだ。だから二人はこうして誰も来ない二人だけの場所で落ち合って、どうしたら二人一緒にいられるか、考えることにした。
「心を込めて説得したら、きっと頷いて貰えるわ」
希望を捨てないで、と緋織が言う。ひたむきな瞳は星空を閉じ込めたように美しく、決して未来が明るいとは言えないのに、つい智史はその瞳に見惚れてしまうのだった。
「綺麗だ。本当に、綺麗だなア」
そう言うと、緋織を頬を染めて俯いた。照れたその様子に愛おしさが募り、胸を打つ。
「ずっと一緒にいると、約束して下さる?」
緋織はそっと、下から伺うようにこちらを見た。智史は地面に無造作に置かれていた白魚の手を取って、そっと小指を絡ませる。
「ああ。約束だ」
直ぐに壊れそうで、でも決して壊したくない、心と心の結びなのだと、二人を照らす太陽だけが見ていた。
カーテンの隙間から差し込んだ光が顔に当たり、眩しくなって目を開けた。上半身を起こして、暫くぼうっとする。
——また、夢を見ていた。
胸が温かくなるような、それでいて締め付けられるような、そんな夢を。
布団の側に置いていた眼鏡を掛けた。天井の木目が目に入る。
現実を確かめるように二、三度瞬きして、智史は布団から出た。
客間に行くと、既に安倍が座っていた。緋織が襖を開け、朝食を運んでくる。昨日から世話になりっぱなしで、智史はそう感じる度に謝るのだが、緋織はずっと「お気になさらないで」と笑って答えていた。今もまた「スミマセン……」と謝る智史に、「私も楽しいから、いいンです」と緋織が笑う。
「きみは今日も外へ?」
安倍が尋ねた。幼い頃から躾けられているのか、この男は食事をする時ですら居住まいが美しい。ぴんと伸びた背筋に釣られて姿勢を正しながら、智史は答えた。
「いえ。昨日聞いた話を纏めようかと」
「そうか」
安倍はそれ以降何も言わなかった。背筋を伸ばしたまま食事をし、智史より少し先に食べ終えて席を立つ。五分程遅れて智史も食べ終わり客間を出ると、丁度玄関へ向かう安倍と鉢合わせた。
「何処かへ行くんですか?」
そう尋ねる智史に、何でも無いように答える。
「ああ。ちょっと出てくるよ」
安倍はそれだけ言って草履を履き、板戸を開く。智史は何となくそれを最後まで見送った後、自室へと引っ込んだ。
文机に座るとメモ帳を開き、録音を聞きながら手に入れた内容を纏めていく。
小さな村なので仕方無いが、女嶺村に纏わる資料は殆ど無い。歴史を知るにはこの村の老人や、ここを代々治めているという女嶺家——緋織に聞くのが一番なのだが、緋織は多くを語らないし、昨日の様子から、老人達から詳しく話を聞けるとは思えない。歓迎されていないことは無いのだろうが、もう一歩そちら側へ踏み込むことまでは許してくれない……そんな小さな警戒心が感じられる。
そちら側。その言葉を胸中で呟いて、この村に辿り着き、安倍と出会ってから、幾度となく耳にしてきた言葉を思い返す。
『こちら側』。安倍はよくその言葉を使う。はっきりした境は分からずとも、明確に境界線を引かれているのが分かる、その言葉。
——内と外。日本は特にこの境が顕著だ。
現代日本に於いても、無意識の内に我々は他人を<内>と<外>で分けている。昔の風習の残るこの村のような場所には、それがかなり色濃く表れている。普段の生活では分かり辛いが、こういった所へ来れば、嫌でも肌で感じてしまう。
家の中で靴を脱ぐという文化が、内と外という考え方の根っこにある。いつかどこかの論文で読んだ内容だが、智史はこれを読んだ時、「なるほどなァ」と思ったものだ。
海外との交流も増え、多様性を受け入れるべきだという風潮のある昨今。そういった考えの元、内と外といった分け方は、表面上は無くなってしまったかのように思える。けれど長い日本の歴史の中で培われてきたこの無意識の境界線は、決して無くなりはしない。そしてそれは、このような場所に来るとはっきり分かる。
女嶺村の人間からすれば、智史も安倍も等しく<外>の人間だ。
だが安倍からしてみれば、智史もまた<外>側の人間なのだ。
「智史さん」
部屋の外からしっとりした声が聞こえ、智史は我に返った。随分と深く思考していたようだ。ペンを握る手も、ボイスレコーダーも止まっていることに気づかなかった。
智史は慌てて襖を開いた。声の主は、智史より頭一つ分低い位置で、嫋やかな笑みを浮かべて立っていた。手に持った盆には、氷の入ったお茶が二つ乗っている。
「お茶を淹れました。よければご一緒にいかが?」
「あ、ええ……」
別に断るつもりは無かったが、緋織の笑みを見ると何故か頷く以外の選択肢が用意されていないように思える。
緋織は智史の答えを聞いて笑みを深めると、当たり前のように脇を通り、部屋の中へ入り込んだ。
文机に置いてあるメモ帳をしげしげと眺め、緋織が言う。
「マア。随分と調べなすったのね」
「いえ、調べたという程では……」
智史は人差指でぽりぽりと頭を掻きながらそう否定した。実際、人から聞いた話を纏めただけだ。調べたという程でも無い。
緋織は文机にお茶を並べると、智史の座っていた横へ座布団を置き、そこへ座った。そこから襖の前に突っ立っている智史を見上げ、文机をとんとん、と軽く叩いて「サ、どうぞ」と言う。態々座布団を移動させるのも角が立つかと思い遠慮気味に横へ腰を下ろすと、緋織は美しい笑みを浮かべて尋ねた。
「村の者とは話せたかしら」
ふと、あの甘い香りが漂っているのに気が付く。神社でも何となく感じた、この香り。
そうか。
この香りは、横に座るこの女から漂っているのだ。
——この女は、甘い匂いがする。
「……縁迎えの儀と、緋縁様の伝承について、聞けました」
甘ったるい匂いに、何処か思考がぼんやりしてくるような心地になりながら答える。
この匂いは変だ。
離れたくなるような、近づいてみたくなるような、そんな気分になる。
隣の女はそんな智史の様子には気づかないようで、ゆっくりと目を伏せる。
「そう……それで、智史さんはどう思われたの?」
智史は隣の女から無理矢理目を離した。立ち上がると手を伸ばして窓を開け、外の空気を入れ込む。
風でカーテンが揺れた。
「悪しき神……いわゆる禍つ神を生贄で鎮めようというのは、他のよくある伝承とそう変わりはありません。生贄として若い娘が選ばれることも。でも、それが生贄ではなく花嫁であり、実際に嫁いだどころか自分もまた禍つ神になる、というのは珍しいですね。興味深いです」
それを聞いた緋織は、どこか悲しさの滲む顔で笑った。
「さすが学者先生だわ。私は……どうしても、女の方に同情してしまうの。たったひとりの男を求めていたのに騙され、失意の底に沈んだ緋縁様に」
そう言って、また目を伏せる。妙に艶めかしく映るその姿に、智史は慌てて言葉を繋げた。
「悲恋の物語として捉えているというわけですね。僕はどうにもソッチの情緒に疎いので、新鮮です。学者なんかをやってると——」
「私ね」
智史に被せて、女が言う。今日も紅を差しているのだろうか。紅い唇が艶々しい。
「私、この家にずっと一人だったンです。夫は随分前に亡くなって、両親もその後すぐ病で亡くなりました。親類なんて他にいなくッて。これでも女嶺家の当主ですから、村から出る訳にも参りません。だから私、きっとこの家で、ずっと一人で暮らしていくのだって、そう思ってたンです」
緋織の白く細い指が、そっと畳の上を滑る。
爪紅を塗った人差指が、とん、と智史の膝を突っついた。
——まただ。
また、あの香りがする。
「このまま一人で死を待つしかないのだわ、ッて。それで良いとも思ってました。けどきっと、心のどっかで諦められなかったのだわ。この村のことも、この家のことも、そして私自身のことも、理解して、心を砕いてくれる。そんな誰かが現れるンじゃあないか、ッて」
「そ、れは——」
その後に続く言葉を、智史は見つけられなかった。緋織が用意したグラスの中に入った氷が、融けてからんと鳴る。その音が聞こえた瞬間、智史の胸元へ、緋織が飛び込んだ。
「寒いンです」
そう言う女の肩は、惨めにも震えていた。
「寒いの。身体も、心も——」
智史は咄嗟に息を詰まらせた。鼻腔を擽る香りが思考を奪っていく。
震えながら己の胸元へ頬を摺り寄せる女のその細っこい肩を、智史はただそっと、掴むことしか出来ずにいた。
***
「……きみ、呆けて一体どうした?」
ふいに安倍の声が聞こえ、智史は吃驚して肩を揺らした。顔を上げると、座り込んでいた縁側の近くで、安倍が訝し気な顔をして立っている。
「いや、何でも……お帰りなさい」
目を細めた安倍が智史に近づく。まだ何となくぼんやりしていて思考が働かず、智史は近づいて来るその姿をぼうっと眺めていた。基本的に冷ややかな表情を浮かべるこの男の顔にも、幾ばくか慣れてきた。癖のない真っ直ぐな髪を見て、「羨ましいなア」などと思考を飛ばせる程度には、緊張しなくなってきたものだ。安倍はそんな智史のすぐ側までやって来ると、ぐっとこちらへ顔を寄せた。
「エ、」
智史が何かを言う前にその手が首元へ伸び、何かがさらりと触れたかと思うとすぐに離れて行く。手を目で追うと、その指先に、長方形の紙が挟まれていた。
「……札は無事のようだな」
「それは一体……?」
——首元から、突如生まれたように見えたが。
智史が驚いてぽかんとしたまま尋ねると、安倍はその紙をひらひら揺らして答えた。
「魔除けの札だよ。何かあれば一度だけ身代わりになってくれる。今朝仕込んでおいた」
「いつの間に……」
「きみの気づかぬ間にね」
そう言って、札を智史の懐に仕舞う。
「何かの役に立つだろう。取っておくと良い」
「は、はあ……」
懐に入れられた札を取り出して見る。墨で何某かを書き付けてあるが、残念ながら智史には読めない。民俗学の研究に使えるだろうか、などと、恐らくは安倍が渡したのとは違う理由での使い道を思いつき、再び丁寧に懐に仕舞った。
「彼女は?」
ぐるりと辺りを見回していた安倍がそう尋ねる。智史はその問いに、あの細い指と、胸に縋りつく震えた肩を思い出しながら、ぼんやりと答えた。
「……緋織さんは、神社へ行くと」
それを聞いた安倍が、口端を上げる。
「都合が良いな」
安倍は縁側から屋内に入り込むと、足早に奥へ歩き始めた。智史は慌ててその後を追う。
階段を上がり、迷うことなく二階の最奥、突き当りへ。そこには、この家には珍しい洋風のドアがある。
緋織の私室だ。
「安倍さん! 一体何をやって……」
咎める智史に、ドアノブへ手を掛けた安倍が言った。
「彼女が何者でこの事件とどのように関わっているのか、それを知る必要がある」
言うや否やドアノブを回し、扉を開けようとする。智史は慌ててそれを抑え込み、極めて常識的な考えで反論した。
「でもまだ、緋織さんが関係していると決まったわけじゃ無いでしょう……!」
「——きみ、昨日広場で何を聞いていた」
ほんの少しだけ高い安倍の視線が、呆れたように智史を見下ろす。鉄仮面だと思っていたこの男は、こういった否定的な感情を覚えた時だけは実に表情豊かになるのだと、この三日間で智史は学んだ。随分捻くれた男だと思いながら、困惑しつつ答える。
「何をって……縁迎えの儀や伝承のことを……」
「そっちじゃない」
安倍に否定され、今度こそ智史は今抱えている困惑をはっきりと口に出す。
「安倍さん、一体何を言っているのか分かりません。昨日聞いたのは確かに縁迎えの儀と伝承のことです」
「そっちじゃあないと、言っているんだ」
強調するように言葉を区切った安倍が、力強い目でこちらを射抜いた。
「子供達が歌っていたあの歌だよ」
歌——?
確かに昨日中央広場で、子供達が何か歌っていたような気がする。円になって、歌いながら回っていたような。
考え込む智史がそれを覚えていないことを悟ったのか、安倍は「ハア」とため息を一つ寄越し、今度こそ扉を開ききった。
「どちらにせよ、縁迎えの儀は女嶺家が取り仕切っている。彼女が関係していない訳が無い」
そのまま部屋に入り込んだ安倍は、一度室内を見回すとそのまま中を物色し始めた。
鏡台の化粧道具、クローゼットの中の衣服、一輪の椿。
安倍を止められず、かといって中へ入ることも躊躇われ、入口付近に突っ立っているだけの智史でも、私物がかなり少ないのが見て取れた。
「何も無い」
安倍がそう呟くので、智史は「それならここを出ましょう」とその背中へ声を掛けた。先程からこの部屋に充満する甘い匂いが、この部屋の主——緋織を思い出させてどうにも落ち着かないのだ。
部屋の中央に立ち竦んだ安倍が、顔だけで振り返り口を開く。
「何も、無いんだよ」
繰り返した安倍の顔は、恐ろしい程の無表情だった。
顔を戻した安倍が文机の引き出しを開く。態々見ずとも中に何も無いと分かるような軽い音が響く。
「許可も無く他人の……ましてや女性の部屋に入るなんて、余りにも非常識です」
ここへ安倍一人置いて行く訳にもいかず、智史は安倍の背中へそう声を掛けた。数の少ない文机の引き出しを開け切った安倍が、振り返りながら口を開く。
「きみはまだそんな温いことを——」
そこまで言って、不自然に言葉を切る。こちらへ振り返りかけていた背中が中途半端に止まり、その顔は窓の外へ向けられていた。
「……きみ、あんなところに蔵があったなんて知ってたかい」
安倍が窓の外から視線を外さずに言う。その視線を辿るため、智史は漸く部屋の中へと侵入し、窓際へ近付いた。覗けば、窓から見える庭に、確かに一つ蔵がある。何故今まで一度も見かけなかったのだろう。無視するのが難しい程には存在感があるというのに。
そこまで考えて、気が付く。
自分の部屋からは見えないのだ。
「……いえ。僕の部屋からは見えませんでした」
智史がそう答えると、今度こそ、安倍がこちらを見た。
まただ。
智史は安倍の目を見てそう思う。黒いはずの瞳が不自然に金色の光を帯びたような気がしたからだ。
偶に、この男の目はこんな風に光って見えるのだ。
「——僕の部屋からもだ」
そう言って直ぐ、安倍が部屋を出た。智史も慌てて追いかける。
安倍は縁側から屋内へ入ったので、そのまま縁側へ。外へ——否、蔵へ行くつもりだ。
智史もそれに続こうとしたが、スニーカーが玄関にあることを思い出し急停止した。
「アッ、ま、待ってください安倍さん! 僕玄関から行くので……!」
安倍の返事は聞かなかった。そのまま背を向け、小走りで玄関へ向かう。靴をちゃんと履くことすら惜しくなり、中途半端なままで兎に角庭へ出た。縁側まで走って向かうと安倍が待っていたので合流し、二人で蔵のある方へ向かう。
自分でも何を期待しているのか分からなかった。心臓が嫌に早く動いている。全身へ血液を送り込む音が耳元でしていた。
緋織は智史が民俗学者であることを知っている。この村の歴史を調べに来たことも。
女嶺村を治める女嶺家の蔵が歴史の宝庫であると、緋織が分からないはずが無い。だのに智史に蔵の存在を伝えなかったのは何故だ? 蔵には有益な物が何も無いから?
——そんなこと、民俗学者でない緋織が判断出来るはずも無いのに!




