5、痕跡
智史は安倍の後ろを歩いていた。広場を離れた時は並ぶどころか智史が先導するようであったのに、いつの間にか逆転し、先導される形で村の西側の小径を進んで行く。
つい昨日も訪れたそこへまた足を向けたのは、祀られているという緋縁様について、何かしらの情報が転がっていやしないかと考えたからだった。智史も安倍も、まだ鳥居のその先へは足を踏み入れていないのだ。
神社へと続く階段は、二度目でも尚その上り辛さを損なわない。城へ続く階段の幅が一歩で登るには大きすぎ、かといって二歩では狭すぎてしまうような中途半端な幅であるのは、敵に攻められた際、何の障害も無く駆け上がられるのを防ぐためだという。
では、神社へ向かうこの階段の一段一段のその高さが違うのもまた、容易に本丸——社へと辿り着けなくさせるためであろうか。
二人無言で階段を上り続け、漸く鳥居の前まで上り切った。やっと着いたと息をつく智史を置いて安倍が一歩先へ踏み出すので、智史も慌てて朱色の鳥居を潜った。
「血の匂いがする」
言葉の内容とは裏腹に、そう言った安倍の声はいっそ清廉さすら感じられた。智史はぎょっとして、本当に血の匂いがするのかと鼻を動かしてみるが分からない。木々や土の湿ったような匂いと——その中に、どこかで嗅いだような甘い香りが、仄かに漂っている気がするだけ。
陰陽師は嗅覚にも優れているのかと隣の男を見る。安倍は昨日見たのと同じような黒い着流し姿で、つい数秒前に物騒な言葉を口にしたとは思えぬ程に涼しげな様子だ。
何だか、この安倍清貴という男は、智史の知る歴史上の陰陽師というよりは、物語や空想の世界で描かれるような陰陽師のような出で立ちをしている。
——まさか、そっちが実在という訳もあるまい。
そのようなことを思う智史を尻目に、安倍は鳥居へと向き直ると右手の中指と人差指を立て、二本をぴったり揃えた。背中越しであるためにはっきりと見ることは出来ないが、そのまま空中に何かを書くように動かした後、静かに唱え始める。
「恐み恐みも白す。八雲の帳を開き給へ。影を祓い道を開き給へ。此処に我が印を以て結界と成す」
それは凛と響いた。
しかしながら、智史には一体何が変わったのか分からない。恐らくは何か祝詞を唱えたのだろうと分かったが、「恐み恐みも白す」の後はさっぱりだ。けれどもそれに対して無関心でいられる程陰陽師に興味が無い訳でも無く、智史は振り返ってこちらへ戻ってくる安倍へ、
「今のは一体?」
と好奇心の赴くままに問いかけた。
「人払いの結界を張ったんだ」
安倍は何でも無さそうに答えた。
「人払い?」
それでも分からぬというような顔をして智史が尋ねると、安倍は僅かに片眉を上げて再び答えた。
「……血の匂いがすると言ったろう。詳しく調べたい。途中で邪魔が入ると気が散るからね」
智史が聞きたかったのは『何故人払いの結界を張ったのか』ではなく『人払いの結界とは何か』であったが、安倍が拝殿へと歩き出したので、聞き直すタイミングを逃してしまった。安倍に倣い、智史も拝殿へ近付く。
緋縁神社は、小さな集落にあるにしては立派な神社であった。きちんとした鳥居も存在しているし、幣殿こと無いものの、拝殿と本殿は確りある。無論決して大きい訳では無かったが、緋縁様という鬼——神様への、村人たちの信仰が伺えた。
人を救う巫女であったはずなのに、気が付けば鬼へと堕ちてしまった娘。
伝承を鵜呑みにする訳では決して無いが、往々にしてこういった伝承は、何だか智史を侘しい気持ちにさせる。
拝殿を覗き込んでいた安倍の背中が戻る。着物の袖口へ両腕を突っ込んで、「ここじゃあ無さそうだ」と呟く。
「血の匂いですか? ここじゃ無いとすれば、何処に?」
智史の問いに、安倍は口の端を吊り上げた。
「本殿だろうね」
言うが早いか、安倍は拝殿を回り込み本殿へ近付いた。本殿の扉はぴったり閉じられており、開きそうに無い。古びて褪せた朱色の扉には、錆びた鉄の輪型の引手が付いていた。
安倍は扉の隙間に顔を近づけると、すんすん鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。
「ここだな」
そのまま引手に指を引っ掻け、軽く引っ張る。木の扉はくんと少しだけ引っ張られたが、直ぐに元へ戻った。矢張り開かないようだ。
「開きませんか?」
智史が尋ねると、安倍は引手から手を離して頷いた。
「マ、本殿というのは鍵が掛かっているものさ」
そう言うと、安倍は懐から一枚の紙を取り出した。蝶を象っており、中央に恐らくは墨で何かを書き付けてある。
安倍はそれを両手に乗せると、ふっと軽く息を吹き掛けた。
智史は最初、それは安倍の息で宙に飛ばされただけだと思った。重さを感じさせない一枚の紙が軽やかに浮き上がると、ある所で僅かに留まる。最高地点に到達したのだ。ふ、と勢いの落ちたそれが、重力に従って落ちてくる——その寸前、まるで生き物のようにぶるりと震えた。
瞬きの間に、それに躑躅の色が付く。美しい躑躅色の蝶になったそれは、智史の眼前をひらひら飛ぶと、安倍の側へ戻って行く。
安倍はそれを軽く手で遊ばせた後、本殿の閉じられた扉へと誘った。手を離れた蝶は、ひらひら飛んで本殿へ近づいて行く。
扉にぶつかる——そう思った智史の予想を裏切り、蝶は羽を畳むと閉じられた扉の隙間から、すっと本殿の中へ姿を消した。
「一体、何が……」
呆然として呟く智史に視線を寄越した安倍が、蝶の消えた本殿を見ながら言った。
「式神の一つだよ。飛ばされた場所に呪いの痕跡があれば黒く染まる」
どこかから覗き見でも出来れば——そう言いながら、安倍が本殿の周りを探す。すぐに木の朽ちた箇所を見つけると、智史を手招きした。近寄ると、地面から程近い所に、確かに穴がある。
促されるまま、穴から中を覗いた。先程の蝶が中を踊るように飛んでいる。隣で同じように中を覗き込んでいた安倍が言う。
「呪いが行使されれば痕跡が残る。ああやって部屋中を飛び回って、痕跡を探すんだ。痕跡があれば、ここで呪いが用いられたという証拠になる。そうすれば、僕達が探すべきは、この世界で唯一、呪いを扱う種族ということになる」
「呪いを扱う種族……?」
安倍がその顔に笑みを浮かべた。こちらを見るその瞳が、妙に光って見える。
「人間だよ」
氷のように冷たい手で、背筋をそっと撫ぜられる感覚に似ていた。胎の底が冷たくなり、吐く息が僅かに震える。
智史は一瞬動けなかった。だが安倍が一つ瞬きすると、彼の目に灯っていた妙な光が消え、同時に身体に温かさが戻ってくる。
「マ、今回は呪いの仕業では無いようだが」
気が付けば、蝶は智史のすぐ横を飛んでいた。鮮やかな躑躅色の羽根で、挨拶するように目の前をひらひらすると、安倍の元へ戻っていく。安倍が手のひらを差し出し、その真上、安倍の顔の前でふわふわ浮いている。
ぱん! と空気を裂くような柏手が響いた。蝶の飛ぶ下で、安倍が手を叩いたのだ。
蝶は最初の時のようにぶるりと震えると、動きを止めた。気が付けばただの白い紙に戻っていて、ゆっくりゆっくり地面に落ちていく。安倍はそれを途中で受け止めると、懐に仕舞った。
「色は変わらなかったね。ならば探すのは人間では無い」
「人間では無い相手というのは……」
「人ならざる相手。妖というわけだ」
ふわり、何処かから甘い匂いがした。
***
安倍の言う<血の匂い>の原因は結局分からず仕舞いで、また本殿の扉が開く訳でも無かったので、智史達は一先ず神社を後にすることにした。
長い階段を下り、村へ続く小径を戻っていく。こちらを先導するように歩いていた行きと違い、安倍は智史の後ろをのんびり歩いていて、あれ程妙なこと——自分達が探すべきは妖であるとか何とか——を言っていた割には、両腕を袖に仕舞うなどして、呑気に風景を眺めている。
次は何処へ向かうべきか。最低限の手入れのみの眉毛を下げて、智史は頭を掻いた。村に案内板でもあればここを目指そうなどと思うことも出来るが、この場所には案内板も地図も無い。広場と神社を除き、この村に何があるのか、何処へ行くべきなのか、智史には分からない。
村の中央まで戻ったところで、「新藤」と呼び止められた。振り返ると、安倍がふいと顎を左へ向ける。村の南側へ続く道で、確かあのキャベツの怪談を思い出した、田畑が広がる区画へ繋がっているはずである。
確かに女性や子供達にばかり話を聞いていたな。そう思い南側の道を進んで行くと、すぐに田畑が広がった。数人の村人達が畑仕事をしているのを見て、そちらへ近付く。
既に太陽は真上からやや西へと傾きかけていたが、畑に立つ男達の影はまだ長くなかった。風が一つ吹き、背丈の揃わぬ苗の列が小さく波打つ。畝の間には鋤やスコップが置かれ、土にまみれたその様子から、男たちが長いことこの畑で作業していることが伺えた。
麦藁帽子を被った一人がふと顔を上げた。智史と目が合うと一瞬手を止め、後ろへ振り返って手を挙げる。それを見た他の男達が数人手を止め始め、またそれを見た男達が手を止める。それを繰り返し、大して多くは無いその男衆全員が、畑の中から智史へ小さく会釈をした。
智史が会釈をすると、殆どの男達は直ぐに仕事に戻る。ほんの数人だけが、まだ智史達を見ていた。背後から安倍の足音が柔らかく近づいてきて、
「どうやら話くらいは聞いてくれそうだな」
と智史へ小さく呟く。智史はそれに一つ頷くと、もう一歩畑へ近付いた。
一番手前にいた老爺が、智史とその後ろに立つ安倍を見て口を開く。
「あんたらが、緋織様の仰ってた客人か」
昔気質の老人といった風で、その言葉には友好も嫌悪も乗っていない。智史は意識して笑顔を浮かべた。何をするにも、まずは警戒心を解くことからである。
「民俗学者の新藤といいます。縁迎えの儀が終わるまで滞在させていただく予定です」
「縁迎えの儀……そうか。あまり大きいもんでもねェ。都会から来た先生にとっちゃ、詰まらんと思うがなァ」
ふいと目を逸らして老爺が言う。元々余り喋る気質では無いのかそれ以降黙ってしまい、智史は頭を掻いた。
「何もそんな冷てえ言い方せんでもいいだろ、爺さん」
老齢の男衆が多い畑の中で、比較的若い男が近付いてきて言った。年の頃は三十代か、四十代前半といったところだろうか。日に焼けた浅黒い肌は汗で光り、毎日の体力仕事のお陰か確りした筋肉が付いている。
男は智史の困った様子を察し、からっとした声で続ける。
「縁迎えの儀っつうと、この村じゃ一番でかい祭りだ。祭りの最後には宴もある。確かに都会に比べちゃ小ぢんまりしてると思うが……楽しんでいってくれや」
男が笑って言うので、智史も幾分かほっとして肩の力を抜いた。広場にいた老齢の女性陣もそうだったが、集落に住む年齢の高い者たちはやはり、内と外というのに敏感なのかもしれない。逆に比較的年齢の若い連中はこちらにも友好的で、話しかけやすい。
智史が縁迎えの儀の内容を尋ねると、男は気安い雰囲気で答えた。
「緋縁様役の緋織様が、今年の花婿を村の男衆から一人選ぶんだ。宴と舞の後は解散だが、花婿役だけはその後禊をして、緋縁神社で一夜を過ごすって感じだな」
「へえ……神社では何を?」
智史がそう尋ねると、男は笑って答えた。
「知らん! 何せ俺は選ばれたことがないからな」
智史の質問に答えてくれるその男を除き、他全員はもう各々の仕事に戻っていた。最初に声を掛けてきた老爺も、今は黙々と田畑を耕している。
少し離れた所にいた一人が、智史の側に立つ男に向けて
「おい! くっちゃべってねえで仕事しろ!」
と叫んだ。男は笑いながらそれに謝り、智史達に向けて手を挙げる。
「それじゃあな、客人達! また何時でも声掛けてくれ」
畑へ戻っていく男を見送って、隣に並んだ安倍へ言う。
「……よくある祭りの内容ですね」
安倍は男衆の働く畑を見ながら答えた。
「今聞いた限りでは、そのようだ」
何を考えているのか全く読めぬ男だ。畑を眺める男の顔を横からそっと伺いながら、智史はそう思う。皮肉げに口の端を上げるのはよく見るが、それ以外はとんと表情を変えぬ。智史はこれ程鉄仮面という言葉が似合う人間に初めて出会った。無表情と評判の大学の受付の朝長さん——三十代の女性だ——ですら、もっと表情がある。
安倍は飽きたように畑から顔を逸らすと、奥へ続く道に足を向けた。肩越しにこちらを振り返り、
「こっちに続いているようだ」
と言う。そのまま歩き始めるので、智史もその後を追った。矢張り、地図が無いのは調べ辛い。
道は進むにつれ雑草が生い茂り、容易に進ませないようになっていた。だが荒れ果てているかと言われればそうでも無く、どちらかと言うと道は整えられていて、定期的に人が訪れているような気配がある。敢えて雑草を伸ばしっぱなしにしているのだと考える方がしっくりくる程で、奥にある何かを隠しているのではないかと、智史は漸くわくわくし始めた。
いつの間にか森に入り込み、道の両側は木々に囲まれるようになっていた。木で太陽が遮られ、涼しいのだが薄暗い。この先は開けた場所に出るのだろうか。将又崖や行き止まりか。土の地面を踏みしめ、ざくざく歩いた。
暫く歩くと、ふいに視界が開けた。安倍が立ち止まり、その横で智史もまた歩みを止める。高い木々に守られた小さな丘は、そこだけぽっかり天井が空き、陽の光が射し込むようになっていた。
「ここは——」
思わず呟きが漏れたが、無意識だった。
丘には長方形の硬い石が等間隔で並んでいた。数は多くないが、少なく見積もっても数十はある。それぞれに家名が彫られており、その内の幾つかには瑞々しい花が生けられていた。
「墓地か」
安倍が口に出したその音は、この場所の余りの静謐さに全てが吸い込まれていった。
時折吹く風で背の低い雑草がさわさわ揺れて、それを目にしてやっと、この場所が、己が、ちゃんと生きているのを意識出来るのだった。意識せねば、まるでどこかのタイミングで時が止まって、そのままぽっかりと、この場所ごと自分が取り残されているような心地になる。足を踏み入れるのに躊躇したが、安倍が一歩踏み出すので、智史も勇気が出た。
禁止されている訳でも無いのに何故か疚しい気持ちになり、まじまじと墓石を見ることはしなかった。景色を眺めるように、何となく目に入れて進んで行く。ぱっと見る限りでは埋葬方法も何ら特殊なものでは無いし、墓地を抜けて先へ進めるような道も無い。
自分にとって収穫となるようなものが無さそうであるのが分かって、智史は立ち止まった。頭を掻き、少し先を歩いている安倍を見る。この男が一体何を探してこの墓地に入り込み、ましてや家名すらじろじろ見ているのか知れないが、少なくとも智史はこの場を出た方が良いような気がした。
「これは……無縁仏——か?」
安倍に背を向け引き返そうと一歩踏み出したところで、背後からそんな呟きが聞こえた。振り返って見てみれば、安倍は墓地最奥の、石の群れに向かって立っている。
それらは他の墓石ほど確りした造りでは無かった。小さな石碑のようなその群れは、数自体は多くない。
この村も長い歴史があることだろう。その中で、数多くの災害や飢饉などに見舞われ、亡くなっていった者達がいるはずだ。
まだ家名を賜る前の者達への、若しくは家名を与えられなかった身分の者達への、ささやかな弔いであろうか。
——それにしては、数が多いような気も、するが。
「これはまだ新しいな」
安倍が呟いて、無縁仏の群れの一つ、その前にしゃがみ込んだ。何やらごそごそしていたが、こちらからはよく見えない。好奇心というよりは「何か良からぬことをしているのでは」という嫌な予感が大きく、智史はそっと安倍に近づいた。二、三メートル程近づいたところで、ちらりと見えた安倍の手に土が付着しているのが見え、ぎょっとする。
まさかこの男、墓を掘り起こしているのだろうか?
——誰のとも知らぬ墓を!
「安倍さん!? 一体何を……」
「きみはそのままで」
こちらを振り向きもせず安倍が言う。
「余り、こちら側に深入りしすぎない方が良いからね」
「いや、しかし——」
というか、そういう問題では無い。倫理的な話をしている。
けれど安倍が顔だけでこちらを向いた時、その瞳の力強さに、智史はそれ以上そこに近づくことが出来なくなった。然程己と年齢も変わらないであろうこの男の纏う雰囲気や、その存在の説得力に気圧されたのだ。
「いいから」
智史に向かってその一言だけを伝え、安倍は顔を戻す。智史はそれ以上何も言えなくなり、頭を掻いた。清貴の言う『こちら側』というのが胸に引っ掛かる。
大人しく入口で待つべきかと、今度こそ振り返って入口へ向かった。
「——……、面倒な報告をすることになってしまったな」
背後でそう呟く安倍の声を聞いたが、振り返らなかった。




