3、出会い
ご挨拶がてらと思い、1話~3話連続で投稿をしております。
ぜひ漏れなく読んでいただけたら幸いでございます。
次回からは毎週土曜日の投稿とさせていただきます٩( ¨̮ )و
智史は男を追いかけた。屋敷の住人かはさて置いて、この村のことを知っているのは明らかだったからだ。
「あの、すみません」
そう声を掛けるが、男は振り返らない。智史は小走りになって男に追いつくと、隣に並んだ。
「あの、この村の方ですか? 少しお話を聞きたくて……」
男が隣に並んだ智史にちらりと目を遣る。けれどすぐに正面を向いて、無感動に言った。
「僕はこの村の人間じゃない」
「え。でも、それにしては……」
あまりにも、この場に馴染んでいる。
「ここには用があって来ただけさ。従って、きみに話せるようなことは何も無い」
「でも、何かこの村のことをご存知なのでしょう?」
男がまた智史を見た。少し歩が緩んでいる。
「この村で祭りが行われていると聞きました。『緋縁様伝承』という伝承に準えて。でも調べてみれば、ここは廃村だった」
「——生きている」
男に遮られ、またその意味が分からなかったので、智史は一瞬呆けた。
「えっ?」
「生きているよ。きみが思うよりずっとね」
それに何かを返す前に集落の中心部に辿り着いたので、智史は口を閉じた。男は村入口の丁度真反対に位置する小径へと足を向け、ずんずんそちらへ向かっていく。
山へ続く踏み分け道のようなその径は薄暗く、その奥が見えない。それは黄昏時の丁度全てが曖昧になる、その瞬間を正に表しているようで気味が悪い。
智史はほんの数秒だけ、その入り口で足を止めた。けれど男が迷いなくその中へ入っていくので、仕方なく後を追う。山の中は木々が生い茂り、その隙間から漏れ出る西日が矢張り全ての輪郭を曖昧にしていく。誰そ彼時とはよく言ったものだと、目の前を行く男の滲む輪郭を見ながら思った。
木立の中、道は緩やかに登っている。地面には薄く苔が生していたが、足元は不思議と滑らず、雑草などの余計な草が生い茂ることもない。人の手が入っているようで入っていないような、相反した感覚。智史はこの村に入り込んでから、もう何度かその感覚を覚えている。
「……ここはどこに繋がっているんですか?」
男はそれに答えなかった。
やがて視界が開けた。目の前に、朽ちかけた手擦りと石の階段が現れる。所々に苔や罅の入った石段はずっと上へと続いており、見上げればその先にぼんやりと鳥居が見えるのであった。
男が無言で登り始めるので、智史もそれに倣った。
石段の段差はまちまちで、歩く度にペースが狂う。登っても登ってもてっぺんへ着かないような気がして、少し息が上がった。
男は振り返らない。足取りは終始ぶれず、歩き慣れた道を行くような気軽さで只管登っていく。
五分から十分は登っただろうか。長い階段を只管登り続け、先に男がその頂上へ辿り着いた。そのすぐ後ろで、智史も一番上に足を乗せる。
目の前に聳え立つ高い鳥居。木で出来た朱色のそれは、長い年月を掛け、色褪せてしまっていた。所々割れており、中身の薄茶色い木片が見えている。
男は少し立ち止まって鳥居を見ていたが、程なくしてその下を通り抜けた。真似するように見上げるが、特に気になるところは見当たらない。
置いて行かれる前にと、智史もその下を潜った。
温度が一段下がったように感じ、思わず振り向く。鳥居の中と外で、こんなにも違うものだろうか。首を下に向ければ、登ってきた石段が眼下に広がる。
山の中にぽつりと残る集落。僅かな標高の差で、温度が変わることもあるのかもしれない。
神社は小高い丘の上にひっそりと建っていた。社殿は然程大きくない。朱色は剥げ、屋根は年輪のように分厚い苔が覆っていた。劣化しているのは見て取れたが、かといって荒れ果てているわけでも無かった。
賽銭箱の前には新しい榊が一対、きちんと活けられていた。注連縄はまだ湿気を帯びておらず、結び目も緩んでいない。神前に供えられた小皿には、米粒がいくつかと、切り干し大根のようなものが置かれている。その横に、お猪口に入った水——清酒だろうか——も添えられていた。
「……誰が、手入れを?」
思わず声に出すと、男が漸く立ち止まった。僅かに振り返り、薄い唇を小さく開く。
「さあね」
それだけ呟いて顔を戻した。智史も釣られて社殿へと視線を戻し——息を呑む。
社殿の縁側に、一人の女が座っていた。
目が合う。
——君さえいれば
——貴方さえいれば
——契りを
——決して解けぬよう
——目の前に艶やかな黒い髪が揺れて、はっとする。数秒で焦点が合い、それが先程まで追いかけていた男の髪だと分かる。よく見れば、目の前に男の背が立ち塞がり、己の視界から女が消えているのだった。
「……村の外からいらしたの?」
鈴の音のような、清らかな水の流れる音のような、そんな声だった。男の向こうで女が喋っている。
——今の幻聴は、一体。
「嬉しいわ。ここへは、余り外の方は来ないから」
「そうだろうね。街から、ここは余りにも離れている」
男は相変わらずだった。熱の篭らないさらっとした声。親しげなようでいて、突き放されているようにも感じられる。冷ややかな声色。
「後ろにいらっしゃる方はお友達?」
それが自分のことを言っているのだと分かり、智史はどきっとして男の背から出た。
「あの、僕は——」
「そこで出会ったのさ。彼はもう用が済んだから帰るところだ」
こちらをちらりとも見ずに男が言う。智史は困惑していた。先程から、妙にこの男は自分を帰らせようとする。
「あら……そうなンです?」
女は黒曜石の瞳で智史を見つめた。彼女の瞳と同じ色の髪は、白い花——牡丹だろうか——の付いた髪留めで美しく結い上げられている。遠目から見ても分かる程上等な着物に身を包み、口元には赤い紅を引いている。
彼女が都心へ出たら、きっと浮くだろう。智史はそう思う。けれど浮世離れしたその姿は、ここにはとてもよく馴染んでいた。
少しの沈黙が流れ、我に返る。女はじっと智史を見つめており、智史は漸く先程この女の口から紡ぎ出された言葉が自分に向けられたものだったのだと気付いて、慌てて男の前へ出た。
男が、
「おい、きみ——」
と引き留めるように背後から声を掛けてきたが、止まらなかった。隙あらば智史を帰らせようとする男と違い目の前の女性は話を聞いてくれそうだし、もしこの場所に人が住んでいるのなら、調査を滞りなく進めるために村長——名主の方が相応しいだろうか——の許可を得たいと思ったのだ。
地図から消えた村。廃村かと思われたが、本当は生きていた村。
この村の過去も、現在も、そして過去から受け継がれているという伝承も。
知りたいことは、山のようにある。
「僕はこの村のことを調べに来たんです。村長さんはいらっしゃいますか? お会いしたいのですが」
そう尋ねると、女はにっこり笑って答えた。
「そういうことでしたら、家へ。私がこの村を治めております」
***
招かれたのは、先程立ち入ろうとしたあの屋敷であった。
女が先を行き、智史がその後ろ、男がそのまた後ろを付いてくる。
男は女や屋敷を具に観察している様子だったが、時折その視線が後頭部へ流れてくるのを感じる。あの細い目で鋭く見られているのを想像して、何だか落ち着かない。
女が表門を抜け、敷地へ足を踏み入れる。西日はすっかり山間へ姿を消し、代わりに薄らぼんやりした雲と、その切れ間から半分程の月が顔を出している。白っぽい月の僅かな光はこの古い屋敷を照らすには不十分で、寧ろ暗い木の柱に吸い込まれていた。
女が板戸を引く。中へ入ってから僅かにこちらを向いて足元を指さすので、智史も敷居を跨ぐと、靴を脱ぎそっと中へ入る。上がり框に足をつけると、ひんやりと冷たい。
もう一歩踏み入れると、足元から全身へ、その冷たさが上がってくる。それはあの、よく行く喫茶店でクーラーの風を浴びた時のような冷たさとは違っていた。文明が齎す涼しさとは別の、自然に巻き起こるような、腹の底で生まれた畏れが具現化したような寒々しさ。このまま奥へと進むのをどこか躊躇わせるような、だのに引き寄せられてしまうような、不思議な感覚。ぞわぞわと、芯から冷えていくような感覚だった。
女がそのまま廊下を進むので、智史も艶やかな板張りの廊下を踏みしめた。
屋敷に漂っているのは、沈香の香りだろうか。僅かなその匂いは、どこかで焚いているというよりは、壁や柱に長く染みついたものであるようだった。それが他の匂いと混じり、この家独特の匂いになっている。
湿った木と、古い紙の匂い。
その奥に、僅かに鼻腔を擽る甘い気配がある。
追いかけた先、そこに居るのは、美しい髪留めをした、古風な女。
「こちらへ」
女が言い、また静かに先を行く。
智史と後ろの男、二人が通されたのは、畳敷きの広い客間だった。女が障子を開け、そこから微かな月の光が差し込む。ぱちん、と音がして部屋が明るくなる。天井を見れば電気——恐らくLEDの一般家庭によく見られるもの——が点いていて、一気に広がる人工的な灯りになにだかちぐはぐした印象を受ける。廊下でも香った沈香がよく馴染み、床の間に活けられた季節外れの赤い椿が一輪、異様に鮮やかに目に映った。
「お寛ぎになって。今お茶を用意しますから」
振り返った女が智史と、その後ろで立つ男に向けて微笑む。口元に引かれた赤い紅が、まるで椿のようで目に残る。
女が客間から出ていくと、男が言った。
「きみ。悪いことは言わない。茶を飲んだら帰った方が良い」
智史は女の背を見送ると、座布団に正座した。立ったままの男の方は敢えて見ず、真っ直ぐ視界に入る床の間を見ながら答える。
「僕はこの村の伝承について調べるために来ています。まだ来て半日も経っていないし、何も分かっていない。このままでは帰れません」
民俗学に携わる人間として、己には責務がある——と、智史はそう思っている。例え自身がその分野の末端に坐する身だったとしてもだ。
その土地その土地に暮らしていた人々の生活を。
彼らが何を見、何を信じ、何を指針として暮らしていたのかを。
<国>ではなく、<人々>の営みを。
考えを、大事にしていたものを、知りたいのだ。
彼らに近づき、それを後世に伝えたい。
自分たちは独立した存在などではなく、連綿と続く長い歴史と地続きの存在であるのだと。
男は呆れたように小さく溜息をついた。説得するのを諦めてはいないらしい。
「きみね。僕は親切心で言っているんだよ。きみが一体どのようにしてこの村を知り得たのかは知らないが、ここはただの村では無い。一般人は深入りしない方が良い」
「僕は一般人ではない!」
「——ほう?」
男の言い方が、気に障ったのは認めよう。自分の仕事を軽んじられているようで、かちんと来てしまったのだ。
だが智史は、しがない民俗学者——自分のことだ——が特別な人間の括りに入るとは、微塵も思っていなかった。売り言葉に買い言葉。苛立って、つい思っても無いことが口をついて出た。
——けれど、その言葉を聞いた男が片眉を上げてこちらを見てくるので。
腕を組み、続きを促すように沈黙するので。
我に返った智史は、しおしおと萎れた花のように俯いて、
「み……、民俗学者、です」
と、言う外に無かったのである。
意外にも、男はそれに対して反論しなかった。それどころか、少し悩んだ様子すら見せ、顎に手を添えて智史を見遣る。
——おや? と、そう思ったのは智史の方であった。目を合わせ、男が何か言うのを待つ。男は少しの間黙っていたが、すぐに唇を薄く開き息を吸い込むと、智史に向け、何某かを言おうとした。が、
「失礼致します」
と、襖の向こうから女が声を掛けたので、結局智史はこの男が何を言わんとしていたのか、聞きそびれてしまった。
ぴっしり閉められていた襖が開き、膝をついた女が姿を現す。跪坐の姿勢だ。女は湯呑が三つ乗った盆を持って客間へ入ると、また膝をついて襖を閉めた。盆を持ってまた立ち上がり、智史の座る座卓へ近寄ってくる。それに合わせ、男が智史の横へ座った。女は二人の座る所へ湯呑を置くと、残りの一つを向かいへ置き、そちらへ坐した。自分の分の湯呑を持ち上げると、淑やかに尋ねる。
「——それで、何をお知りになりたいのでしょう?」
湯呑へ顔を寄せる寸前、僅かに睫毛が伏せられた。ふぅ、と紅を引いた唇が湯気を追いやり、それが造り物のように美しい貌の女に、人間の生々しさを加える。
「ア、ええと、ちょっと待ってください……!」
女がそのまま湯呑へ口をつけるのをぼんやり眺めていた智史は、我に返ると背負っていた荷物の中から名刺入れを取り出した。一枚差し出すと、白魚の手がそれを受け取り、しげしげと眺め出す。
「あら、マア。学者先生でいらっしゃるのね。大学で教えてらっしゃるの?」
軽やかに、円やかに、女が尋ねる。
「はい。現地へ取材に行くこともありますが、大学で教えることも」
「そう。そうなの。それなら、今日は取材かしら?」
道理を知らぬ幼い娘のように。はたまた、手練れの遊女が態と無垢な振りをしているように。小首を傾げ、智史を見つめる。
「はい。あの……こちらの集落について、少し調べたいことがありまして」
「マア! こんな何も無いところに、態々ようこそ」
女は自身のことを女嶺緋織と名乗った。柔らかな笑みを浮かべ、嫋やかに言う。
「緋織と、どうぞ気楽にお呼びになって。学者先生」
「はあ。あの……有難うございます」
「いいのよ。先程も言いましたけど、外から人が来るのは珍しいの。嬉しいンです」
緋織は本当に嬉しそうに笑った。
「どうぞ、何でもお聞きになって」
智史は許可を取りボイスレコーダーを回すと、緋織に向き直った。
「神社でお会いした時、貴女がこの村を治めていると仰っていましたが……」
「ええ、そうよ。名主というやつね」
「この村では、代々女性が村を治めるのでしょうか?」
緋織は笑みを深めた。
「珍しいかしら」
「はい、とても。日本は古くから家父長制を取っていましたし、もっと前——江戸時代や、さらに遡れば平安時代から、政治的役割を担うのは男性が主でした。今はもう人のいなくなった跡地ばかりでしょうが、かつてはこの近辺にも村があった。きっとその村々も、男が治めていたはずでしょう。そんな周囲や時代の波に逆らい、女嶺村だけが女首長制度を取っていたというのは……大変、不思議だ」
緋織は何も言わなかった。笑みを浮かべたまま沈黙している。
「何か、理由があるのでしょうか。政治的な理由でも、呪いや伝説じみた言い伝えでも構いません。当時の人々が何を思いその制度を取り入れていたのか、僕はそれに興味がある」
緋織は視線を下げた。伏せた睫毛が目元に影を作る。
「——分かりません」
口調ははっきりしていた。
「女嶺村は、代々女嶺家に生まれた長女が治めている。その事実しか、私は何も」
「そう、ですか……」
これ以上は踏み込むなと言っているようにも聞こえるし、本当に知らないようにも聞こえる。どちらが本当なのか判断がつかぬまま、智史は少なくともこれに関して情報は得られぬようだとやんわり落胆してしまった。しかしすぐに首を横に振り、気を取り直して緋織に尋ねる。
「では、この村でも、近くでも……、資料館のようなものはありますか? この村についての歴史が載っているような……」
しかし、この質問に対しても、返ってきたのは僅かに首を振る仕草のみであった。
「なにぶん小さな村ですから。そのようなものは、残ってないンです」
「そうですか……」
「お役に立てなくて御免なさい」
緋織が悲しげに眉を下げ、智史は慌てて手を振る。
「あ、いえいえ、良いんです」
「他に知りたいことは無いかしら? 何か一つでもお答えしたいワ」
気を取り直して緋織が言う。ややあって、智史は再び口を開いた。
「緋縁様伝承というのに準えて、花婿を選ぶ祭りがあると聞きました」
視界の端で男が僅かに動いた気がした。男の様子を見ようとしたが、それより先に緋織が答えたので、結局男の顔は見れず仕舞いだった。
「『縁迎えの儀』のことね」
「えにむかえ、ですか」
「ウフフ。縁を迎える、と書くのよ」
「ははあ。それで『縁迎え』ですか」
「村の規模が規模だから小さな祭りですけど。舞もあるし、宴もあるンです」
舞や宴。まだ探索しきっていないとはいえ明らかに小さいと分かるこの村での祭りとは、どの程度の規模のものだろうか。そも、この村に緋織以外の人間はいるのだろうか。祭りが行われるくらいだからいるのだろうが、今日ここへ来てから、智史は隣の男と目の前の緋織の二人しか見ていない。
「この村には何人くらいの方が?」
「人口、と言う程いるわけでもありませンけれど。そうね……五十はいないと思います」
「五十……その、こう言っては失礼ですが」
「イイエ。聞きたいわ」
緋織は美しい笑みを浮かべた。
「その、思ったより多いのだなと」
「アラ……。私てっきり、少ないと言われると思ったのだけど」
「確かに一般的にはかなり少ないですが。僕は今日、この村に来てから誰一人見かけていないので……」
「マ、そうでしたか。皆警戒して外に出ていないのね。申し訳ないわ」
そう言って緋織は眉を下げて微笑んだ。慌てて首を振る。
「ア、いえ。お気になさらず……」
「どうか安心なさって。お二人のこと、村の皆に伝えます。明日には顔を合わせられると思うわ」
「それは……有難うございます。助かります」
智史は胸を撫で下ろした。緋織から特に何の情報も得られず、このまま村人たちも会えなかったらと、早くも行き詰まりを感じかけていたところだったのだ。協力的な言葉を聞けたことで、思わず声にも安堵が滲む。
「それと……もしご迷惑でなければ、暫くここに泊まっていってくださいな」
緋織は笑顔を浮かべたまま続けた。
「この家は、元々女嶺家の一族が住んでいたンです。でも今は私一人なの。部屋なら余っていますから。お布団も……ア、食事は簡単なものでしたら私が作ります。結構上手なのよ」
「いや、そこまでしていただくわけには……」
智史がそう断りかけたのを、緋織の笑顔が遮った。
「調査の間だけでも。ネ?」
その笑みには、どこか逆らいがたい柔らかさがあった。智史はほんの一拍程口を閉ざし、やがて小さく頷く。
「……有難うございます。お言葉に甘えます」
「フフ、嬉しいわ。そちらの方——お兄さん。貴方もぜひお泊まりになって」
智史の横でまんじりともせず座っていた男に向けて、緋織が言う。
男は逡巡もせず答えた。
「そうだな。暫くの間世話になろう」
智史は男のその様子に思わず白い目を向けた。智史と出会ってからつい先程まで、この家には入らない方が良いだとか早く帰った方が良いだとか言っていた癖に、ここに住むのが美しい女だと分かればコロッと態度を変えて、滞在するなどと言う。調子の良い奴だと思ったのだ。
しかし、出会う前のそのようなやり取りなど知らない緋織は、男の答えを聞くと嬉しそうに声を弾ませる。
「よかった! この広い家に一人というのは、存外寂しいものなンです。……そういえばお兄さん、私、まだお名前を伺っていないわ」
「おっと、失礼した。だが——名乗るほどの者でもない。<お兄さん>と、ここにいる間はそれで構わない」
「アラ……そう。そしたら、そのように」
その時、どこからか風が吹いた。縁側の隅に吊らされた風鈴が、小さく澄んだ音を鳴らす。
「そうそう。ほんの数日後には、縁迎えの儀もあるのよ。ぜひ見ていってくださいな。女嶺の祭祀の中でも、大切なものですから」
「縁迎えの儀……」
聞き慣れない言葉だ。閉め切られているはずの村独特の祭りに参加させてもらえるなら、これ程僥倖なことも無い。
「それも、女嶺家が関わっている行事なんでしょうか?」
そう尋ねると、緋織はにっこり笑って答えた。
「ええ。代々、私たちが取り仕切ってきたンです。余所では見られない風習ですから、きっと興味深いわ」
山奥の集落というのは余所者を寄せ付けないものだが、この村の名主は柔軟なようだ。外の者を歓迎する緋織を、智史は有難く思った。




