2、気配
山の中は都心のコンクリートジャングルと比べれば、暑さは幾分かマシと言えた。それでも暑いのには変わりなく、窓を開ければ蝉の大合唱が耳に障る。夏の風物詩と言えば聞こえは良いが、この鳴き声が暑さを笠増ししていると、智史は信じて疑わない。
「ちょっと森林の空気でも」と思い開けた車の窓は、途端に入り込んできたこの小さな昆虫の声高々な叫びによって、数秒もしないうちに閉めざるを得なかった。七日しか生きられぬという儚い生物であるというのに、鳴き声は何とも勇ましいものだ。——否、儚い生物だからこそ勇ましいのだろうか?
そんなどうでも良いことを考えながら、車を走らせる。本当にこんな辺鄙なところに跡地が存在しているのだろうか、とやや不安に思うのを紛らわせるためだった。
ある程度の場所が分かった後、智史は女嶺村が存在していたその私有林の所有者が誰なのか、役場へ問い合わせた。正式な立ち入りの許可を得るためだ。しかし、役場の記録が曖昧だったために所有者が判然とせず、登記上の名義人は既に亡くなっていることが分かった。なんとか名義人の遠い血縁にあたる人物を見つけ出し連絡を取ったが、その人物は私有林の存在さえ知らぬという有様だった。名義人との関係も殆ど無いそうで、立ち入りの許可は、呆気無い程簡単に取れた。
智史は役場で見た古地図と地形図のコピーを見ながら車を走らせた。舗装された滑らかなアスファルトの道路は、しばらく進むうちに段々と凸凹し始め、ガタガタ車体を揺らす。進むにつれ狭まっていく道は、五分もすれば対向車が来たらこのままバックで戻るしかないという程になる。それを殊更ゆっくり走り、その脇に軽車両すら進入困難な獣道が現れたところで、智史は車を停めた。
「ここか……」
草木の覆われた獣道を車の中から見、そう呟く。
地図と己の推測が正しければ、この奥に、女嶺村跡地があるはずだ。
ここからは歩いて行くしかないだろう。そう判断し、車から降りる。後部座席に積んでいた荷物——泊まりになるかもしれぬと思ったので、最低限の食料や服、カメラのバッテリーなんかを入れている——を背負うと、獣道の前に立った。昼間とはいえ背の高い草木に覆われた山は薄暗く、道の向こうは見通せない。
ごくりと思わず生唾を呑み込んだ。ただ山の中に入るだけであるというのに、妙に恐ろしく感じたのだ。この獣道に一歩踏み入れてしまえば、もう戻れないのではないかという、妙な恐怖がある。
振り返って愛車を見た。駐禁は取られないよな、後続車は来ないよな、などと、立ったまま考える。変に威圧されている自分を認めたくなくて、気を散らしているのだ。
長年乗っているダークグレーのステーションワゴン。凹みこそ無いものの、長年乗り回しているからか、目立たないところに擦り傷がある。車検はいつだったか……などとまた考え始めたところで、そんなことを気にしている場合ではないと頭を振った。
一歩、足を踏み入れる。
——冷たい、においがした。
蝉が五月蠅く鳴いていたはずだった。どこかしこで鳴き喚いていたそれが、森に入った途端遠くに聞こえる。それが背後から聞こえるのだと分かって振り返り、そしてすぐ、背後から聞こえると分かるのは、この森の中が静かだからなのだと気が付く。
鳴いていないのだ。蝉が。一匹も。
明確な境界線など無いはずなのに、明らかにここが境目なのだと分かった。空気の層が一枚ひんやりと身体に纏いつき、汗ばんでいた額と首筋を、冷たい風が撫でていく。
まるで水の中にいるようだ、と思った。全ての音が遠ざかり、なんとなく外界から切り離されているような、そんな心地がする。それがプールや海に潜り込む瞬間の、あの感覚に似ていると思ったのだ。
地図を頼りに歩き進めていくと、段々乾いた土が湿り気を帯びてくるのが分かる。山を覆う木々は高く生い茂り、地面まで太陽が届くことが少ないのだろう。地面は所々に苔が生し、靴底で踏みしめると、ぐちゅ、と僅かに水音がする。
草木を掻き分けながら、奥へ進んでいく。三十分も歩くと、もう乾いた土は残っておらず、歩く度に柔らかいそれを踏みしめる。所々が湿地のようにぬかるんでおり、丁度そこを踏むと、靴の底が嫌アな沈み方をした。何とも言えない気持ち悪さが足の裏から這い上がったが、無言で只管歩いた。道と呼べるものはとうに消えていた。背丈を越える程の草木が行く手を塞ぎ、それを腕で避けながら進んだ。
時折、蜘蛛の巣が顔にかかる。見え辛い細い粘着質な糸が風に紛れて漂い、額や頬に触れるのだ。それを指先で拭う度、小さな蜘蛛が糸を伝って逃げていくのが見えた。
人々の営み——その痕跡が見え始めたのは、歩き始めて二時間程が経った頃だった。木々で覆われたその途中に、崩れかけた石積みが見えたのだ。おや、と思い先を見てみると、数メートル先に苔生した木製の立て看板がある。恐らく墨で書き付けてあるのだろう文字は最早掠れて読めないが、明らかに人工的な、何かの痕跡だった。
——村に入ったのだ。
それが分かった瞬間、興奮で肌が粟立った。首から掛けていたカメラを構え、見つかった痕跡を一つ残らず記録に収めていく。
シャッターを切りながらさらに進むと、視界が僅かに開ける場所に出た。木々の切れ間に苔に覆われた井戸が現れ、その奥に、風に晒された家々が立ち並ぶ。
——集落の跡地だ。
「……女嶺村」
小さくその名前を口にした。手にした地図と地形を照らし合わせてみる。
——間違い無い。
現代のどの地図にも載っていない村。
地図から消された村。
それが今、目の前に広がっている。
近づいてみなくとも、家々が自然に呑まれかけているのが見てとれた。木の壁は苔が生し、屋根には蔦が垂れ下がっている。
それでも、ふとしたところに生活の名残が残っていた。
軒先に吊るされた、色褪せた竹籠。崩れかけた土間の側に転がる、煤けた鉄鍋。木の格子戸の奥には、破れた襖が僅かに開いて風に揺れていた。
誰もいないはずなのに、火を落として間もないような、温い温度が残っているような錯覚。かつて人が住んでいたというより、今もまだ、ふとした拍子に戸の奥から誰かが現れてきそうな——そんな気配。
智史は、ゆっくりと村の中へ足を踏み入れた。
足音が土に吸い込まれて消えていく。風も殆ど通らず、空気がそこへ留まっている。
廃屋と廃屋の間を縫うように歩いていくと、草木に埋もれた小径が辛うじて残っていた。かつては人々が行き交っていたのだろうが、今は見る影も無い。近づけば、幾重にも張り巡らされた蜘蛛の巣が、行く手を阻んでいるのが分かる。智史はそっとそれを手で払った。細く光りを帯びた糸がふわりと宙を舞う。
道端には、誰かが放置したままの農具の柄の一部が朽ちかけて地面にめり込んでいた。夏草に覆われた畑らしき区画も見えるが、手入れされた様子は無く、ただそこに在るだけ。しかし不思議なことに、完全に朽ちているというわけでも無かった。刈り残された稲の切り株や土に突き刺さったままの鋤が、けれど枯れたり錆びたりもせず、そのままそこに残っている。
——本当に、誰もいないのだろうか?
それにしては、放置されすぎていない。
土に突き刺さった鋤に近寄り、まじまじとそれを観察している時だった。
視界の端で、何かがさっと動いた気がした。反射的に振り返るが誰もいない。畑と畑に挟まれた狭い小径がただ在るだけだ。
野生の動物か何かだろう。そう結論付けて歩き出そうとするが、またさっと何かが動いたのを見たような気がして、そちらを向く。
何もいない。
智史は黙ってじっと目を凝らした。二、三日前に聞いた畑の怪談を思い出したのだ。
***
Yさんの実家はキャベツ農家だった。Yさん自身は都会へ出て働いているが、お盆休みや年末年始など、連休があるとよく実家へ帰っていた。
Yさんの家では、一年中キャベツを作っている。そのため、実家へ帰ると毎日数時間は収穫や出荷など、農作業を手伝うというのが、Yさんのお決まりだった。
ある年の暮れ、Yさんはいつも通り実家へ帰ると、家業を手伝っていた。朝早くから冬キャベツを収穫したり、春に収穫するためのキャベツの生育状況を管理したりなど、連日家族や近隣の農家たちと一緒になって作業をしていた。
その日も、朝早くに起床して七時頃には畑へ出、キャベツの収穫を始めていた。
ずらりと並んだキャベツの群れから、出荷できそうなものを選び、包丁で根元を切っていく。汚れていたり痛んだりしている葉を取って、黄色いコンテナへ並べていくのだ。
数人が一つずつ畝を担当し、Yさんも自分の担当の畝のキャベツを収穫していた。
巻きの良さそうなキャベツを選び、手で玉の締まりを確かめてから、根元を切り離していく。
もう慣れたそれを、無心で行っている時だった。
——ぐにゃり。
手で触れたそれは、言葉にするならそのような感覚だった。
柔らかいが、完全に柔らかいというわけでもなく、所々、柔らかい表面の下に硬いものがある。しっとりと冷たく、凹凸がある。
Yさんは驚いて手を離した。
キャベツでは無いのは明らかだった。それよりももっと生々しい何か。力を入れた時に指先が沈んだのは、あれは、目玉——
酷く恐ろしい想像が頭を過り、Yさんは大きな葉に覆われたその中を見ることが中々出来なかった。中に在るもの想像して動けないでいると、仲間の一人がその様子に気が付き声を掛ける。
「どうした、蚯蚓でも出たか」
そう言って笑うが、Yさんは笑うことが出来なかった。目の前のキャベツ。それから目を離せない。
固まったYさんの様子に尋常で無いものを感じ取ったのか、声を掛けてきたその一人が畝を越えてこちらまでやって来て、Yさんの肩を掴む。
「おい、本当にどうした?」
「あ、い、いや、何でも無い」
そう言って、Yさんは固まった身体を無理矢理動かし、そっとキャベツの葉を開いた。
——真白い、子供の顔だった。
Yさんは何も言えずその場にへたり込んだ。それを見ていた仲間がYさんの目の前のキャベツを覗き込んで、数秒固まったかと思うと、周りへ声を掛ける。
「おうい。菜童が出た。今年は巻きが悪くなるなあ」
そう叫ぶと、それを聞いた周りは
「そうかい」
「やれ、困ったなア」
「去年、一昨年と出なかったから、今年もひょっとしたらと思ってたんだがなあ」
などと、当たり前のように会話を進める。そうして、尻餅をついているYさんを見てわらわら近寄ってくると、
「あれま、どうしたよ」
「どうも菜童を見るのが初めてみてえだなあ」
「ありゃっ。そりゃあ驚くなア」
「ほれ、こっちゃ来い。温けえ茶でも飲んで休んでな」
とYさんの肩を抱き、畑から出すと、熱々のお茶を出してくれた。
後から聞くところによると、あの子供の顔は菜童というらしい。Yさんの地域に稀に出る神様で、あれが出た畑はその年の実の成りが悪いから、事前に出来が分かって良いと、農家たちは感謝しているそうだ。
「畑の神様が、今年は出来が良く無えから気を付けなって教えてくれてんだよ」
Yさんの祖父は、そう語ったという。
***
智史はこれを聞いた時、都会へ出た主人公がそれを異常と思い、ずっと田舎で暮らしている周りはそれを『当たり前』どころか『畑の神様』だと敬い親しみを持っているところが、如何にも土着の怪異譚っぽくて好きだなアと思ったものだった。
それを今、寄りによって盛り上がった畝の側で思い出し、智史は少しばかり嫌な気持ちになった。キャベツの葉の中にいる、真っ白い子供の顔を想像してしまったのだ。それが、とん、とん、とボールのように跳ね、足元に転がってくる。爪先に軽く当たって止まると、丁度上を向いたまあるい子供の目と、目が合う。
想像力豊かな己を恨んだ。
実際には、そんなもの少なくともここにはいない。ここは廃村だし、虫や動物以外に、生きているものは自分だけだ。村に入ってから——否、森に入ってから、なにだか妙な心地がして落ち着かないので、神経が過敏になっているのだ。
小さく頭を振り、息を整えた。気を取り直して、調査を続けようと歩き出す。
一定の速度で歩く自分の足音に、僅かに別の足音が混じった気がした。はっとして立ち止まるが、何の音も無い。ただの気のせいか、風の音がそういう風に聞こえただけかも知れぬ。念のためと思い暫く耳を澄ませていたが、聞こえるのは遠くにいる蝉の声と、自分の呼吸音だけだった。
気にしないようにと歩みを再開し十分程。村の中心からやや離れた辺り、他の家々よりも奥まった所に、その屋敷はあった。木々の隙間にぽつんと一軒だけ建っている。
外界から切り離された村の、さらに切り離された場所。そこに一軒だけあるのに興味を唆られて、智史は目の前まで行ってみることにした。草を掻き分け、細い獣道のようなものを辿る。
すぐ側まで辿り着いてみれば、それは古めかしい立派な建物であった。江戸時代か明治維新直後か、それに近しい頃の趣を感じさせる。仰々しい表門があり、そこから玄関までを石畳が繋げている。両脇に苔生した岩や石灯籠の置かれた広い庭がある。長年雨風に晒されてきたからか、木で出来た柱や壁はかなり朽ちていた。二階の障子は破けているものもあるが比較的綺麗な状態が保たれており、今まで見てきた他の家々と比べても、かなり状態が良い。
智史はカメラを構えシャッターを切った。数枚別角度で撮った後、レンズから顔を離し、再び肉眼で屋敷を見上げる。
屋敷は静かに佇んでいた。玄関の暗い板戸もその他の障子も全てがぴっしりと閉じられ、新たな来訪者を拒んでいる。
智史はその屋敷から発せられる威圧感に暫し立ち止まりぼうっとそれを眺めた後、思い出したように表門に掲げられた表札を見た。
『女嶺』——村と同じ読み方なら、『めれい』家。
村の名を掲げているということは、やはりこの家がかつてのこの村の名主の家だったのだろう。
辺りはもう夕暮れ時で、山間に橙の夕日が見えていた。
そろそろ日が暮れる。折角ならば、この旧家に一日身を寄せてみようか。
そのようなことを思い、小さく「ごめんください」と言いながら、門を越えようとした、その時だった。
「きみ、止めておいた方が良い」
涼やかな声だった。
驚いて振り返る。
数歩離れたその先に、黒地に金色の刺繍の入った着流し姿の男が立っていた。
濡羽色の髪に白皙の肌。しゅっとした顎と鼻。酷薄そうな薄いくちびるに、やや吊り上がった目元——場違いな程整った外見。目元のせいか、どこか狐を思わせる。身長は智史よりほんの少し高い程度で、ぱっと見た限りでは年下か年上かは分からない。
その男は僅かに右側に首を傾げると、口を開いた。黒い髪が重力に添って揺れている。
「きみ、ここの住人じゃアないね。観光? こんな僻地に?」
その言葉を聞いて、智史は居住まいを正した。この家の住人かと思ったのだ。
廃村だと思っていたが、違ったのだろうか?
「あの、僕は怪しいものでは……」
咄嗟にそう言いかけた智史の言葉を遮るように、男が一歩こちらへ近づいた。それがこちらを咎めるためのものではと思い、思わず一歩後ずさる。
「おっと」
そう言って男が智史の手首を掴んだ。思いの外強い力で引っ張られ、二、三歩前へたたらを踏む。
「言ったろう。余りそちらへ踏み入れない方が良い」
「そちら、って……」
男が智史の後ろを顎で指すので、釣られるようにして背後へ視線を遣る。先ほど見た古びた屋敷が、相変わらず無言で佇むだけだ。
ふと表門の奥、石畳の先にある板戸が、ほんの数センチだけ開いていることに気が付いた。
——さっきまでは、閉まっていやしなかったか?
そう思い僅かに腕に鳥肌が立つ。しかし、直ぐに思い直した。
きっと自分の勘違いだろう。先程から妙に過敏になり、居もしない怪異に怖がったりなどして、どうかしている。たぶん、この村を見つけた興奮が変に作用して、畑や屋敷に何か恐ろしいものがいるのではなどという想像を膨らませてしまっているのだ。
板戸については、撮った写真を見れば分かることだ。恐らくは自身の勘違いだし、それを証明する物もある。恐怖が拭えぬようなら、見れば良いのだ。
——それでも、万が一カメラの中の板戸が、ぴっしり閉まったままだったら。
そう思い、結局智史はカメラの中身を確認することが出来なかった。
「ここは観光には向かないよ。暗くなる前に帰ると良い」
男はそう言って、智史に背を向けさっさと歩き出してしまった。




