1、招き
カクヨムに投稿しております本作を、こちらでも投稿してみることにしました。
どうぞお手柔らかに。
楽しんでいただけましたら幸いです。
世の中は知らない世界で溢れている。物事を判断する基準は己が幼い頃から培ってきた物差しで、それは生まれ育った環境に大きく左右される。だから、自分から見れば正しいことが、誰かから見れば間違っていることもある。
そしてこの物差し、更新するのがいやに難しい。特に、世の中には知らない世界があるということを知らない人間にとっては。確かに、所謂陰謀論であるとか眉唾物であるとか、そういった話には嘘も多いけれど。だからといって、それら全てがまったくの出鱈目であると決めつけるのは、些か早計ではないかと、智史はそう思うのである。
大変運の良いことに、智史は世の中には知らない世界があることを知っている人間であるからして。またこの人生が一度切りであるならば、出来るだけ多くの世界に触れたいと思える性質の人間であるからして。
誠に遺憾ながら、実家の両親や親戚にはなかなかその良さというものを理解してもらえないのだけれど。それでもめげずに、この世界に足を踏み入れているのである。
新藤智史は、しがない民俗学者である。東京のとある大学で、教鞭なんかも執っている——というか、民俗学者なんてものでは到底食えないので、大学教授兼民俗学者である、というのが正しい。
民俗学とは、人々の生活や文化、伝承、信仰、風習——そういったものを通して、その時代の社会や文化の有り方を研究する学問である。
我々人間が生きるこの社会は、先人たちから脈々と受け継がれ、作られてきたものだ。
その先人たちが、一体どのような思いでかつてを生きていたのか。一体何を信じて暮らしていたのか。進化し便利になった今この世の中に至るまでに、人々は一体どのようなものを愛し、大切にし、育て上げてきたのか。智史はそれに興味がある。
過去の産物では決してない、今の自分たちの根底に根付く何か。またそれに繋がる何か。『歴史』と一括りにしてしまえば淘汰されてしまうような、些細な何か。その小さな痕跡を見つける度に、智史は大袈裟な程歓喜に包まれるのであった。
智史からすれば惹かれて止まない、身体が震える程の興奮を覚えるこの学問は——けれど一般的に見れば、実に地味な分野である。
「なんか地味」
——確か、数年前に別れた元恋人の去り際の一言だったか。マ、それは民俗学に対してではなく、民俗学に熱を上げる智史に対しての言葉だったのだが。
でも良いのだ。確かに民俗学は冬の人肌恋しい時期にそっと寄り添い温もりを与えてくれることもなければ、誕生日に手作りのケーキを作ってお祝いしてくれることもないけれど。それを補って余りある程のロマン——本当に男という生き物はこのロマンとかいうやつに弱い——があるのだから。
***
民俗資料館で働く学芸員の香坂から「ちょっと面白い話を聞いてきた」と連絡を貰ったのは、先週のことであった。
香坂は数年前の智史の教え子だ。元々民俗学が好きだったために授業態度も良く、授業に関する質問をしに来たことを切欠に、研究室で偶にお茶をする仲となった。卒業後は近くの民俗資料館で働くようになり、伝承は勿論のこと、珍しい風習から信憑性に欠けるようなオカルトめいた話まで、何かネタを仕入れる度に連絡をくれるのだ。
年々暑さを増す日本の夏。例に漏れず今年も早々に過去最高気温を更新しており、まだ七月初めだというのに、外は殺人級の暑さを誇っていた。
待ち合わせをしている茶店の扉を開けると、ちりん、という軽やかな鈴の音と共に、クーラーの冷たい風が智史を出迎える。額から首筋へ流れる汗を手の甲で拭いながら、先に来ているであろう香坂の姿を探した。
「先生! 新藤先生!」
店の奥、二人用の小ぢんまりした席から、襟付きシャツを着た男が声をかけた。
「香坂君」
名前を呼び向かいへ座ると、人好きのする笑みを浮かべた香坂が「お疲れ様です!」と挨拶した。さらりと揺れる黒い髪は、癖がなく真っ直ぐで大変に羨ましい。智史は癖のある猫毛なので、梅雨から夏にかけての湿気の多い時期はヘアセットに大変苦労するのだ。
「イヤア、暑くてかないませんね」
店員が来たのでアイスコーヒーを頼んだ。
「本当に。僕は館内にいることが多いですけど、先生はフィールドワークなんかもされるでしょう。この時期は大変そうだ」
「地獄ですよ、地獄」
ある夏、あまりにも大変だったので、この香坂をバイトと称してフィールドワークに連れて行ったことがある。まだ香坂が学生の頃だったので、夏休みは時間があったのだ。その頃は今ほど酷い暑さではなかったが、それでも炎天下の中、外を歩き回るのは大変だった。香坂は「もう二度とやらない」と宣言し、その言葉通り、それ以来いくら智史が誘っても、頑なに首を縦に振らなかった。
しかし、こういった具合に香坂にも経験があるので、想像がつくのだろう。智史が「地獄のようだ」と言うと、「確かに」と顔を顰めて頷いた。
テーブルには食べ掛けのオムライスが乗っていた。智史の視線に気が付くと、香坂が照れたように笑う。
「スイマセン、お昼食べてなくて」
「いえいえ、お気になさらず。美味しそうですね」
「僕ここ何回か来てますけど。オムライスとナポリタンが美味しいんですよ」
「なんと。それは僕も食べてみなくっちゃ——あ、どうも」
コーヒーが届いたので会話が途切れた。ミルクとシロップを入れて掻き混ぜながら、「それで?」と、香坂へ本題へ入るよう促す。
「この前、久々に高校の面子で集まりまして。ほら、僕オカ研入ってたでしょ。都市伝説とかも勿論やってましたけど、古い伝承とかも調べたりしてて。僕らの中でも特にそういう、土着の何とか、とかが好きな奴がいたんですよ。で、これはソイツが持ってきた話なんですが」
そこまで言って、香坂はオムライスを平らげた。
「緋縁様伝承……って知ってます?」
「ひえにし……? いや、初めて聞きました」
「お、やった。とはいえ、僕も詳しくは知らないんですが。山間部にある女嶺村ってところに伝わる伝承らしくて。毎年その伝承になぞらえて、花婿を選ぶ祭りがあるらしいんですよ」
「花婿ですか! 珍しいですね。祭りの名前は? 全国的に見ても、男側が選ばれる祭りは殆ど無い。年齢層や選定方法はどんなものなんです?」
智史がそう尋ねると、香坂は肩を竦めた。
「詳しいことは何も分からないんですよ、それが。何せ文献が無くて。一応元オカ研として、ネットや図書館も調べてみたんですがね。唯一、一個だけ。何年か前に廃刊になった、弱小出版社のオカルト雑誌に村の名前がちょろっとだけ登場するのみ」
「オカルト雑誌?」
香坂が一つ頷いて続ける。
「とある男が、ハイキングがてら山登りに出かけた。だが土地勘が無いモンだから、道に迷ってしまった。暫く彷徨っていると、ある集落に辿り着く。ア、よかった。そんな風に思って、男はそこで一晩泊めてもらうんですが……男はそこから消息を絶ってしまった。それが、その女嶺村があると言われる山間部で起きた出来事だって」
「ウーン……一回オカルト雑誌に名前が載ったぐらいですか……」
信憑性があるとは到底言えないし、情報とはとても呼べない。
そう言うと、香坂も同意するように頷いた。
「分かります。でも本っ当に、これぐらいしか出てこないんですよ。そのオカルト雑誌も、この話を教えてくれたその仲間が持ってきてたものです」
「なるほど……そのオカルト話は置いておくとして、その『めれい村』や祭りについての話は興味深いです。情報が無いということはそれだけマイナーということでしょうし。特に花婿を選ぶというのは僕も初めて聞きました」
「面白そうですよね! 大学の図書館ならひょっとしたら何か手掛かりがあるかもと思って、これは先生に伝えねばと思ったんです——ってもうこんな時間!? 先生スミマセン、僕もう行かなきゃ!」
グラスに半分程残っていた水を飲み干し、香坂が慌てて出ていく。去り際、「何か分かったら僕にも教えてくださいね!」と智史に言い残すのも忘れない。
智史はそれに笑って手を振ると、スマートフォンを取り出し、先ほど聞いた村と伝承を検索してみることにした。恐らく何も出てこないのだろうが、念のため。
『ひえにし様』『めれい村』『祭り』——聞いた音を平仮名で打ち込む。直接のやり取りは話が早くて良いが、書き方が分からないのが難点だ。後で香坂に教えてもらうとして、ひとまずの検索結果を見たが、芳しくない。『冷えに利く……』やら『命令口調とは……』やら、果ては全く違う人名や村名まで、関係の無さそうなものばかりだ。
——矢張り、文書を調べるしかないか。
香坂に先ほどの話のまとめと漢字表記を送るようにとメッセージを送信し、スマートフォンを仕舞う。外は相変わらずの様子で、コンクリートに篭った熱が立ち上がり、空間を揺らしている。出来れば出たくないが、そうもいくまい。
智史は覚悟を決め、灼熱地獄へ戻ることにした。
***
有難いことに、香坂からの返事はすぐに来た。お陰で智史は、大学に戻るとすぐに『女嶺村』の調査に取り掛かることが出来た。スマートフォンの簡単な検索ではそれらしい情報が無かったが、大学図書館にはそれなりの蓄積がある。蔵書やデータベースを当たれば、どこかに痕跡の一つくらいは残っているだろう、というのが智史の考えだった。
まず、図書館の蔵書検索をかけてみることにした。キーワード入力で資料を探せるという文明の利器だ。端末の前に立ち、『女嶺村』や『緋縁様』といった単語を入れていく。場所は関東の山間部であるという情報を貰ったのでエリアを関東に絞り、郷土史や県史を探した。
——ヒットなし。
今度は関東から全国へとエリアを広げ、検索をかけた。
——見つからない。
少なくとも、図書館にある文書の中にはそれらしき情報が無いということが分かった。
——全くもって構わない。大体何の研究でも、最初は空振るものだ。
智史は自身の研究室へ戻った。大学図書館に無いのなら、智史が個人的に所有しているもの——定期的に発行される日本民族学会の紀要や論文のデーターベースを調べてみれば良い。
パソコンの前に座り、データベースを一つずつ当たってみる。
——情報無し。
だがマア、それも一向に構わない。確かに見つけるのに苦労しそうだが、裏を返せば誰にも調査されたことが無いということだ。未開の地の調査。どんと来いである。どんな学者でも、第一人者になれるというのは嬉しいことだ。
智史が次に取り出したのは、明治期の町村合併記録や廃村一覧だった。現在の記録に無くとも、過去の記録にならあるだろうと思ったのだ。最初から最後まで取りこぼしの無いように読み進めていくが、女嶺村の記述は無い。研究室に大量に保管してある書物の中から、関東全域を網羅した民族史や村落伝承の本も引っ張り出し、片っ端から目を通した。記載は無い。
そこに無いなら無いですね——なぜだろう。そんな妙なフレーズが浮かぶ。
智史は本を閉じた。僅かに巻き起こった風が前髪を揺らす。「フ、」と思わず小さな笑みが零れた。
確かに香坂も、それらしい情報が全く出てこないとは言っていた。だがまさか、これ程とは。
あまりの情報の少なさ——少ないとかいうレベルではない——に些か衝撃を受けていたが、少しして椅子を引き立ち上がる。
大学に無いなら、次はお堅い行政資料の世界に頼ってみるしかない。都立図書館なら、大学の図書館には所蔵されていない、合併記録や旧村名の一覧があるはずだ。
***
愛車に乗り込み、車を走らせること約二十分。特徴的な白い建物と大きな窓が見えてきたのでそのまま敷地内へ入り、車を停めた。そのまま中へ足を踏み入れると、ひんやりとした空気と紙の匂いが鼻を掠めた。
大学図書館は学生が多いが、ここは違う。それとなく見てみれば、スーツ姿の中年男性や目を細めて資料を捲る年配の女性など、社会人の利用者が多い。内装も相まってか、小さな研究機関のようにも見えてくる。
壁際には静かに資料を閲覧する人々がいた。中央の閲覧スペースには、黙々とメモを取る利用客たちもいる。人の声は殆ど無く、時折、ページを捲る音やパソコンのキーボードを打つ音、小さく椅子を引く音たちが合間を縫って聞こえてくる。
智史は所蔵資料の検索端末の前に腰を下ろした。気合を入れるため小さく息を吐き、背筋を伸ばす。大学図書館と比べれば、ここに所蔵されている書物の数は段違いだ。何かしらの情報があるはずである。
『旧村名』『廃村』『合併』など、香坂から貰った曖昧なヒントを頼りに、目星をつけた旧市町村一覧や明治・昭和の大合併に関する記録を開いていく。
するとほどなくして、閲覧可能な行政資料を何冊か発見した。閲覧番号をメモしてカウンターへ向かい、職員へ伝えると、すぐに書類の束が運ばれてくる。それらを受け取り開いている席に座ると、早速一番上から目を通し始めた。
ページを捲る度、指先に古紙のざらついた感触が伝わる。地名や合併日、人口、消滅した自治体など、細かな文字が延々と続いていく。目が滑るのを防ぐため、指でなぞりながら追いかけた。年代順に記された記録を、一つずつ漏れの無いように読み進める。いくつか知っている名前も見かけたが、肝心の名前が無い。ここにも、ここにも、ここにも。
『女嶺村』の文字は、どこにも無かった。
まさかそんな訳あるまいと、表を何度も往復し、類似の字面も探して推測を重ねたが見つからない。地図を引っ張り出し、それと照らし合わせて廃村の所在地をいくつか特定もしたが、どれも女嶺村とは結び付かないままだった。一つの資料を終え、次へ、そのまた次へと、智史の前に分厚い過去が静かに積み重なっていく。最早存在しないという結論を出した方が良いのではと思う程、その村は巧妙に隠されていた。
——それでも。探しているこの村が、ちょっとやそっとでは辿り着けぬような奥深くに埋もれているのだとしたら。幾重にも封をされ、厳重に結ばれたその紐の端を掴めたとしたら。
これ程までに、興奮する話もなかった。
智史は椅子に座ったまま伸びをすると、そのまま背もたれに背を預けた。西日の射す館内は、相変わらずの静けさを保っている。
「まるで最初から、地図に載ったことが無いみたいだ……」
小さく呟く声も、静謐な図書館の空気に吸い込まれていった。
閲覧席の明かりは、じわじわと落ち着いた熱を灯していた。ほんの数時間前まで橙色に照らされていた窓の向こうも、気づけばネオンが滲んでいる。机に広がる地名辞典を眺めるのも、もう何度目かだった。
女。おんな、めれい、おんなみね——。
手帳に書いた『女嶺』の文字を見ながら、浮かんでくる読み方を思いつくまま羅列している時だった。ふと思いついて、小さく口に出す。
「……訛り、或いは誤記?」
眼鏡の奥で目を細める。
明治時代、政府は地籍調査や戸籍、地図の作成を始めた。当然それ以前にも文字として土地の名前が記されることもありはしただろうが、国を挙げて整理を始めたのは明治時代だ。それまでは、人々が曖昧に、口々に伝えてきたその『音』が、土地の名前であった。
つまり明治時代、口伝の地名を文字に固定するという作業が大量発生したわけである。
人々が呼ぶ土地の名前を聞き取り、それを文字に当て嵌める。その際に聞き間違いをした、或いは当て字を作った、若しくは聞き取り手の文字が読めず、清書の際に違った文字を当て嵌めた、など……口伝の地名が、誤って記録された例はままある。
読みを聞き間違えたのか、或いは当てられた漢字が後に独り歩きしたのか。
現在残る『女嶺』という表記それ自体が、元の地名から変質している可能性は——ある。
智史は、手帳の余白に思いつく限りの読み方を書き込んだ。『みね』、『めね』若しくはそれに近しい音として、『うね』や『うない』も。『女嶺』という字面を持つ地名は見つからずとも、その読み違いまでは網羅されていないかもしれない。
勢いよく立ち上がった拍子に、椅子がガタンとひと際大きな音を立てた。何人かがこちらを見た気がしたが、それを気にしている暇は無かった。
資料棚を渡り歩き、旧村名の音訛や表記ブレを扱った文献を探す。
——ここでもない。これも関係ない。
そして、とある論文が目に留まる。
『明治期における村落名表記の地域差と混乱』
——これだ。
席に戻る時間さえも惜しくなり、智史はその場で本を開いた。中を見れば、山間部での音便変化や行政担当者による誤字転記の事例などが記されているのが分かる。万が一にでも見逃すことが無いようにと、指でなぞりながら読み進めていく。
そして、唐突にその時はやってきた。
「あった……!」
『関東某県、明治中期に廃村となった宇禰村。表記の由来は不詳とされているが、古い手書きの村誌には、宇禰(女嶺)の注記が残っていた。筆で書かれていた文字がくるりと丸い崩し字だったことから、担当者による誤字転記が起きたと思われる』
そこまで読むと、智史は本を手に急いで席まで戻った。資料を探す時に引っ張り出してきていた明治時代中期頃の地図を開くと、『宇禰』の文字を探す。書籍には詳しい場所の記載が無かったため関東を虱潰しに見ていくこととなったが、茨城県周辺に、その名前を発見した。現在の地図を隣へ広げ、さらに近づく。
現在の茨城県北部のとある山間部。かつてそこにその村は存在した。勿論、現在の地図にその名は無い。村があったと思われる場所は、現在は私有林となっていた。智史はその中心に、小さな名前を見つける。
『緋縁神社跡地』
胸が僅かに高鳴る。
「やっと、出て来たな」
誰も知らぬ山奥に、ひっそりと息づいていた名残の神。
女嶺村の、もう一つの名前。




