83.襟の傷
サンドイッチを食べ終わったブランシュは、自分よりも早く食べ終わったイヴァンの顔をちらちらと見た。
「なんだ?何かあるならはっきり言え」
「あ、あの、な、なんでもありません……ご、ごちそうさまでした」
「俺は勉強の準備をする。お前何も持ってきてないだろ」
ダルクはお皿を下げ、イヴァンは紙やペンの用意を始めた。
ブランシュは机のそばで、相変わらずもじもじしている。
「あ、あの……」
ブランシュはエプロンをぎゅっと握ると、小さく息を吸った。
「べ、勉強は、その、お休みにいたしますか……?」
「今日は手提げを持っていないことを咎めたつもりはない。座れ」
イヴァンはブランシュをじろりと見たが、今日のブランシュは折れなかった。
「……で、でも」
「勉強をしたくないならはっきり言え」
イヴァンの低い声にブランシュの肩は跳ねたが、さらにぎゅっとエプロンを握り今度は大きく息を吸った。
「あの……イ、イヴァン様が、か、風邪を引いているので、お休みにしてくださぃ……」
「何を根拠にそんな戯言を言っている」
「そ、それは……先ほどイヴァン様の手が、あ、熱かったので」
ブランシュが真剣にイヴァンを見つめると、イヴァンの耳がほんのりと赤く染まった。
(やっぱり具合が悪いんだ。それなのに気を遣わせて勉強なんて、私なんてことを……)
「今すぐお花を摘んできます!その、お、お見舞いを!」
焦ったブランシュにイヴァンは頭を抱え、ダルクは隅で笑いを堪えた。
イヴァンは無理やりブランシュを椅子に座らせると、ペンと紙をブランシュの前に置く。
「風邪など引いていない。今日は文字の勉強をする。わかったか?」
「……はい」
「ブランシュ、イヴァン様は元気なので大丈夫ですよ」
ダルクは思わず助け舟を出したが、その口角は上がっている。
イヴァンはダルクを睨んだが、ブランシュはダルクが言うなら大丈夫かもしれないとペンを手に取る。
イヴァンもペンを手に取ると、紙に2つの名前を書いた。
「今日はロラン王子とヴァランティーヌ王女の名前を覚えろ。読めるに越したことはない」
「はい……」
見本を見て写すだけなら、もうそこまで難しいことではない。ブランシュはロランの名前から丁寧に書き写していく。
イヴァンは自分で教えておきながら、すんなりと書き始めたブランシュになぜかもやもやした。
「手を動かしたまま答えろ。ロラン王子のことをどう思う」
「だ、第四王子殿下だと思います」
ダルクはお馴染みの答えに、ブランシュらしい答えだと思った。しかしイヴァンは違う。
「ロラン王子の印象について聞いている」
「で、殿下としてた、た、正しい方だと思いました」
「なら婚約者は?」
「とても、う、美しい方でした」
イヴァンは眉間にしわを寄せた。自分で鎌をかけておきながら、ブランシュがあの婚約者に会っていたという事実にため息まで漏れた。
(婚約者様のお名前も書けるようになった方がいいのかな)
ブランシュはレベッカの文字を聞いていいのかわからず、とにかく2人の名前を繰り返し紙に書いていく。
「婚約者の性格はどうだ思う?」
「と、とても品がある女性だと思いました」
女性を褒めるときは容姿と品性を褒め称えるものだと教わってきたブランシュは、カップを持つ姿ですら漂う品性を素直に美しいと思った。
仕草1つ1つが柔らかく、女性的な振る舞いは見本のようだった。
「2人のことをよく知っているようだな」
「……あ。も、申し訳ございません!」
イヴァンに謝ったのか、ロランとレベッカに謝ったのかわからない。
それでも動き1つが個人情報の世界で、断りなくイヴァンに話してしまったことにブランシュはパニックになり、書きかけていたロランの名前が崩れた。
「あ、や、も、申し訳ございません……第四王子殿下に謝罪を」
「いらない。俺の方が偉いからだ。それより部屋で何をしていたのか話せ」
ブランシュが人の秘密を話さないのは、物心ついた時からの教育によるものである。いわゆる告げ口をする必要があるのは奴隷のことだけだった。
「何かあれば聞くからな。わかったか?」
イヴァンは唇を噛みしめているブランシュを見ると、頬杖をついて何度目かわからないため息をついて諦めた。
話が逸れたことでブランシュの体の力が抜けると、それに気がついたイヴァンは、立ち上がって本棚からブランシュでも理解できそうな本を探した。
「少し遅くなったが最後に本を少し読んでやる。明日は休みだろ?」
ブランシュはイヴァンに休みを把握されていることに驚いて、思わず肩をすくめた。
ジュリエットが明日は仕事なので、休む気はさらさらなかったのだ。
休みは10日に1回という規則だが、実際は9日だったり11日だったり多少のずれはある。体調不良者が出ると人が足りなくなるからだ。ジュリエットから明日、友達のために仕事を代わると聞いていた。
「空組で明日休みの者を調べておく。俺は明日、お前を働かせないからな」
「も、申し訳ございません」
イヴァンは頭を抱えながら、何か面白い本はないかと本棚を漁った。
「ブランシュ、お前は魔法を信じるか?」
「えっと……魔法とは何ですか?」
「そんなことも知らないのか」
イヴァンは本を読むことをやめ、ブランシュに魔法を使うという妖精の話をした。
しかし、ブランシュは手のひらよりも小さい人間が空を飛ぶということをいまいち理解することができなかった。
見たこともない生き物が自分を幸せにしてくるとは思えず、首を傾げるだけのブランシュにイヴァンは簡単な説明だけをした。
(いないけど、本当はいるってどういうことだろう?鳥とは違うのかな?)
「まあいい。今日の勉強は終わりだ。紅茶とコーヒーどっちがいい」
いつもなら即答で断るところ、ブランシュは一瞬考えてから小声で「コーヒー」と答えた。
イヴァンはふっと笑ってダルクに砂糖を多めに入れるよう指示した。
「あ、あの、イヴァン様」
「なんだ?」
「お、お砂糖とミルクを入れないことはできますか?」
「ダルク、別にして持ってこい」
「かしこまりました」
ブランシュはインクが乾いたことを確認すると、紙を丁寧に半分に折る。
イヴァンも机の上を片付け始めた。
「チョコレートとクッキーもあるが、どっちにする」
「……チョ、チョコレートをお願いします」
イヴァンは自分で聞いておきながら、ブランシュが質問にきちんと答えるので目を丸くした。
そして、ブランシュに背を向けてから上がった口角を隠すように手で覆う。
同時にブランシュも口に手を当てた。
イヴァンの襟にうっすらと細い線のような血痕を見てしまったからだ。
以前見てしまった左腕の傷や傷跡と同じものであることを、ブランシュはちらりと見ただけでわかった。
それが見られたくないものだろうということもわかっていたが、もしこのまま外に行けばそれこそ誰かに見られてしまうかもしれない。
ブランシュはダルクが気づいてくれないかとも思ったが、コーヒーの準備をしに行ったまま戻ってこない。
「今日は何も言いたくないのか?コーヒーとチョコレート以外聞いた覚えがないが」
「そ、それは、その……」
頭を掻きながら机の上の本を本棚にしまうイヴァンを見て、ブランシュは腕をぎゅっと握った。
「お、お召し物がその……よ、汚れているので、つ、伝えてもよろしいのかわからなくて、えっと……」
少し違う事例だが、過去にダヴィドの袖の血の染みをブランシュは隠すために刺繍をしている。
王子の血は一滴流れるだけで大問題なのだ。
「誰か着替えを持ってこい」
「かしこまりました」
部屋の奥から返事が聞こえると、イヴァンはブランシュの目の前の机に腰掛ける。
「よくあることだから気にするな」
ブランシュの目尻が下がっていくと、イヴァンの目尻もほんの少しだけ下がったが、腕を組んで咳払いをした。
「ほら、コーヒーだ」
イヴァンは首から手を離すと、ダルクが運んできたトレーからカップをブランシュの前に置いた。
(そうだ、迷惑をかけないように練習しないと)
ブランシュは大きく深呼吸をしてから、コーヒーを1口飲んだ。
苦いコーヒーにブランシュはこめかみまで痛くなり、カップを机に置いてから指をあてた。
「砂糖もミルクも入れればいいだろ」
「で、でも迷惑を……」
「は?」
「み、皆様このまま飲んでいるのに、私だけ砂糖とミルクをいただけません……」
イヴァンはブランシュが苦いという顔を我慢できずにいるのを見て、とうとう顔を手で覆いながら声を出して笑った。
「ダルク、ブランシュのカップに砂糖とミルクだ」
「かしこまりました」
「ダ、ダルク様!?」
「ブランシュ。実は私も砂糖とミルクがないと飲めないのです。だから大丈夫ですよ」
「ああ、本当だ」
ブランシュはやっぱり迷惑をかけていると思ったが、甘くなったコーヒーを飲むと思わず頬が緩むのだった。
♢
長い長い1日に体をこわばらせ続けたブランシュは、静まり返った廊下をこそこそと歩く。
(これと同じじゃないといいんだけど……)
ブランシュは自分の首をそっと抑えた。心当たりのあるイヴァンの傷に、胸が痛んだのだ。
「こんばんは」
「っ!こ、こんばんは」
下を向いて歩いていたブランシュは、角から出てきたヴァレットに挨拶され飛び跳ねた。
しかしヴァレットは怒ることなく会釈して去って行く。
初めての事態にブランシュは恐怖を感じた。




