80.奴隷名簿
ブランシュがジュールの部屋でチョコレートを食べている頃、イヴァンは王妃に酒を飲まされていた。
「息子の顔が見たいなんて建前だろ。違うか?ダルク」
「今日は湯浴みを控えましょう。お体を拭いて早く寝るのがよろしいかと」
「質問に答えろ」
ダルクはイヴァンを無視して、顔色と足取りだけを見ていた。
イヴァンは王妃と会食をするとこうなるので、可能な限りヴァレットはあまりつけず、ダルクだけが同行するようにしている。
「イヴァン様、ごきげんよう。もうお休みになられるのですか?」
廊下の少し先にピンク色のワンピースの女性を見つけたイヴァンは、あからさまに顔を背けたが女性には効果なかった。
「よろしければお茶でも」
「いや、失礼」
「お待ちください!」
耳障りな黄色い声にため息が出そうになったが、頬を赤らめ追いかけてくる女性はそこそこ大きな領地の娘であるため、存外に扱うことはできない。
イヴァンが追いかけられる理由はその容姿だけではなく、未婚で婚約者すらいない王子という、玉の輿に乗るための素晴らしいチャンスなのだ。
しかし今1番の問題は、現在イヴァンの機嫌が最悪だということである。
こういった声かけは日常茶飯のことだったが、ブランシュとの勉強を王妃に潰されたこともあり、目を鋭くしそうになってもなんとか耐えるしかない。
「悪いがこのあと第一王子殿下とのお茶が待っているもので」
「そ、そうですか……では私、失礼いたします」
イヴァンが使える最大の武器は「第一王子殿下のダヴィド」という盾。
何とか逃げ切り角を曲がったところで長い長いため息をついたイヴァンの目に映ったのは、自分のヴァレットたちに囲まれたジュールとブランシュだった。
♢
ブランシュはいつもの椅子に小さくなって座り、その横でイヴァンは眉間にしわを寄せて立っている。
ジュールは、ブランシュが部屋の近くにいたからお茶に誘ったとだけ伝えたが、わざわざ自分の部屋に送ってくるということは何かあったのだと、イヴァンが察せないはずもない。
ジュールもそれをわかっていて、逃げるように帰ったのだ。
「で、なぜジュール王子の部屋の近くにいた?あそこに用などないだろう」
「そ、それは、その……」
貴婦人を第四王子の元に案内したとだけ伝えればよいのだが、ジュールとオノリーヌの反応を見たブランシュはなかなか言い出せなかった。
自分が粗相をしたと怒られるのなら良いが、ジュールのように何かされたともイヴァンに思われて、第四王子が罰せられるのを恐れた。
「ジュール王子に用があったのか?」
「い、いえ……」
「じゃあ第四王子か?」
イヴァンはぎくりと首をすくめたブランシュの肩に手を置くと、それはそれは低い声が出た。
「何か話したか?」
「あ……いえ、な、何も、第四王子殿下とは……」
「第四王子とは?じゃあ誰と話したんだ」
さらに1つ低くなったイヴァンの声に、ブランシュはうつむいてエプロンをぎゅっと握る。
「……き、貴婦人に、こ、声を掛けられて、あ、案内をして……」
「イヴァン様、こちらを」
「今ブランシュと話しているのがわからないのか?」
ダルクは震えるブランシュを前に、毅然とした態度でイヴァンに書類を渡した。
大きなため息をついたイヴァンは一瞬書類を叩き返そうとしたが、1行目を見た瞬間にブランシュの顔を見る。
「お前、質問に答えろ。出身は西側の領地だな?」
ブランシュは突然話が変わったことに戸惑いながら、首を縦に振った。
「町の名前は?」
「……わ、わかりません」
「は?それでどうやって生活していたんだ」
「えっと、ば、場所はわかりませんが、家の名前なら……わかります」
ブランシュにとって、場所の名前はその時所有権を持っている人の名前である。
貸し出された場所が北側の領地ということだけはわかっていたが、それ以外はその日の主人がなんという名前かがわかれば十分だった。
「主の名前は?」
「ヴェルフェレ伯爵です」
「それだけか?」
「……はい」
イヴァンがこんなにも怒っているの理由がわからないブランシュは、イヴァンが書類で自分を叩くのではないかと体をこわばらせていた。
「なぜ奴隷の情報はないんだ!」
「イヴァン様。そもそも奴隷には戸籍がないので仕方ないのです。そこに記載された情報でも多いぐらいで」
「明日から王宮にいる奴隷の名簿を作れ。王宮内だけでも把握しておきたい」
「かしこまりました」
ダルクは話を終わらせると、イヴァンの就寝前の準備を始めた。
しかしダルクが寝室へ行くより前にノック音が響き、ドアがゆっくりと開いた。
「あの、廊下にこれが」
ブランシュはヴァレットの手を見た瞬時に立ち上がろうとしたが、イヴァンはブランシュの肩を強く握って阻止した。
「そうか」
ヴァレットがイヴァンに手渡したのは、ブランシュがいつも使っている緑色の手提げ。
「ブランシュ、今すぐ説明しろ」
今日1番の低い声にブランシュの体が大きく跳ねたが、イヴァンが肩を握る力は少しずつ強くなっていく。
「まさか俺が勉強はなしだと言ったから捨てたのか?」
イヴァンの鋭い圧にブランシュは説明することも、言い訳も出てこなかった。
「イヴァン様、それは女性への態度ではありません」
後ろから肩を掴むイヴァンにブランシュの顔は見えていないが、ダルクにはブランシュの瞳が潤んでいくのが見えていた。
ダルクの圧にイヴァンは渋々手を離した。
「ブランシュ、お前はこれを捨てたのか?」
「い、い、いえ、す、す、捨てていません」
ブランシュの声は震え、涙をこらえていることにようやくイヴァンも気がついた。
はっとなったイヴァンは顔を両手でこすると、机の上に置いた手提げをブランシュに返す。
「……ならいい、そうだ。ダルク、明日こいつも連れていけ」
ダルクはイヴァンの言葉にうなずくと、そのままブランシュを部屋まで送っていくことにした。
「も、申し訳ございません……」
声も体も震えているブランシュに、ダルクは困ったように笑った。
「こちらこそイヴァン様がすみません。私からきつく言っておきます」
「そ、そんな!」
「冗談ですよ。明日は6時に迎えに行きますから。それではおやすみなさい」
ダルクは、ブランシュが階段を上っていくのを確認してから部屋に戻ると、イヴァンはソファーでうなだれていた。
「……悪かった」
「それはブランシュに言うべきでは?」
ダルクは大きなため息をついた。
♢
「まずは北側の奴隷部屋ですね」
ブランシュはダルクの後ろを歩いて行く。ダルクは隣を歩かないが、その足取りは優しかった。
「ブランシュ、先に入ってくれますか?」
「か、かしこまりました」
朝食前。
冬の間は草むしりがないため、奴隷もまだ部屋にいるであろう時間に2人は訪れた。
「ブランシュ、朝早くからどうしたの?」
「あ、えっと、だ、第三王子殿下のヴァレットがいらしていて。部屋に案内しても、い、いいですか?」
「それはもちろんいいけど……」
奴隷が断われるはずもなく、皆は床に膝をつけた。
ブランシュがダルクに声を掛けると、ダルクはお辞儀をしながら部屋に入った。
「皆さん、おはようございます。朝早くから申し訳ないのですが、王宮内で名簿を作ることになりました。つきましては、皆さまのお名前も控えさせていただきたいのです」
丁寧で優しい言葉遣い。
年末に絵を描くという無茶振りの際にも、自分たちに寄り添ってくれたヴァレットを、奴隷たちはわずかだが信頼していた。
「忙しい時間に申し訳ないのですが、自分のベッドの上に座っていただいてもよろしいでしょうか?」
ダルクは奴隷たちに自分のベッドに座るよう伝える。それから1つずつベッドを回って、名前を紙に書いていく。
「お、お名前を教えてください」
「知ってるでしょ?マレンよ」
「あ、その、あの」
「いいの、わかってるわ」
ブランシュが名前を聞き、ダルクが名簿に名前を書いていく。奴隷たちが怖がらないようにというダルクの配慮だ。
(ダルク様の字もイヴァン様のみたいに綺麗。私もそれぐらい書けたらきっと少しは役に立つことができたのに……)
ダルクは、ブランシュが何度も落ち込んでいることに気がついていたので、簡単な字はブランシュに書かせてあげた。
ブランシュは目を輝かせ、何度もお辞儀をすること2日間。
こうして、4つの部屋の合計100人近い奴隷の名簿を完成させた。
♢
「苗字があるものは1人もいないのか?」
イヴァンのつぶやきに、その場にいたヴァレット全員がそんな奴隷いるわけないと思った。いたとしても、奴隷に落ちた以上苗字は捨てるべきであり、名乗るはずがない。
ブランシュはイヴァンがつぶやいた言葉の意味がわからなかった。
それ以上にわからなかったのは、イヴァンが悲しそうな顔をしていることだ。
ブランシュの目じりもつられて下がると、イヴァンと目が合ってしまう。
イヴァンは自分の表情には気がつかず、ブランシュが悲しそうな顔をしていることだけに気づいて驚いた。
「明日の勉強は忘れずに来い。わかったな?」
イヴァンがごまかすようにそっぽを向くと、ブランシュは首を傾げながらもお辞儀した。
「あと、この間は悪かった……」
イヴァンはブランシュに返事をさせずに部屋から出した。
「ちゃんと謝ったぞ」
「そうですね」
ダルクは手を止めはしなかったが、相変わらずなイヴァンにため息をついた。




