60.割れたカップ
ベラがイヴァンの部屋のソファーに座ると、イヴァンは眉をピクピクさせながら腕を組んだ。
「エヴィノールへ行くとは、どういうことでしょうか?ベラ王女」
夜中、突然イヴァンの部屋にやってきたベラは、にっこりと笑った。
「私、お見合いするんです。ほぼ婚約ですが」
「は?」
イヴァンの低い声が体に響いても、もうベラは怯えたりしなかった。
むしろ楽しそうに笑っている。
「俺は聞いていませんが」
「ええ、話しておりませんから。お父様に取り決めてもらい、第一王子殿下に同行していただく予定なんです」
イヴァンは目をかっぴらくと、鋭い視線をベラにぶつけた。
さすがにベラも一瞬たじろいだが、ゆっくりと息を吐くとイヴァンに柔らかい視線を返す。
「ブランシュにドレスもお願いしましたのよ」
「そんな素振りはなかったと思いますが」
「もちろん口止めしましたから。それにデザインだけを頼んだのです。依頼書にサインもいただきました」
内心動揺しているイヴァンをよそに、ベラは立ち上がると、そっと顎に手を当て首を傾げた。
そして微笑みを浮かべ、ゆっくりと口を開く。
「よかったら明日、ドレスを見に来てくださいね。調整日なんです」
「……気が向いたらな」
「では、気が向いたらブランシュも連れてきてください」
ベラはお辞儀をすると、部屋を出て行こうとドアに向かった。
しかし、イヴァンは1つ大きな咳払いをして引き留める。
「白髪について何かご存じなのですか?」
「ええ、まあ。第一王子殿下がおっしゃるには、過去にそういった容姿の王がいたようですね。ブランシュのような人に会えるのを、心から楽しみにしております」
「……そうですか」
再びお辞儀をしたベラが部屋を出て行くと、イヴァンは閉まったドアを見ながら額に手を当てた。
ダヴィドは迫害の事実を伝えていない。
それを知ったイヴァンも、同意見であった。
「ダルク。あの王女が現実に堪えられると思うか?」
イヴァンはニヤリと笑いダルクを見たが、ダルクは何も言わず就寝の準備を始めた。
♢
ブランシュは珍しく人前で机に肘をつき、眉間に皺を寄せ、絵本の中に顔を突っ込んでいた。
「おおか、み、は……た、倒れて、しまい、ま、した」
まだまだ字を書くことは難しく、読むこともすんなりとはいかない。
だがこの日初めて、赤ずきんを1人で読むことができた。
「ようやく1冊か」
褒めはしなかったが、イヴァンは小さく笑いをこぼした。
(本当に本を読めるようになるなんて……私、奴隷なのに……)
ブランシュは罪悪感はあるものの、胸がいっぱいになった。
イヴァンはそんなブランシュの気持ちを知ってか知らずか、そのことについては触れたりしない。
「ブランシュ、最後まで読んで意味がわからなかった単語はあるか?」
パン粥の件で学習したイヴァンは、背もたれによりかかり、ブランシュの顔を見た。
ブランシュは慌てて目を逸らすと、ずっと考えていた1つの疑問を恐る恐るしつもんした。
「あの……し、刺繍なんですが……」
「刺繍?」
「えっと、その……狼って悪者なんですか?」
赤ずきんを読むまで、ブランシュは狼を知らなかった。
ただ、イヴァンとダヴィドが刺繍を求めるということは、きっと高貴で良いものだと思い込んでいたのである。
ところが、読み終わってみると狼は悪者であり、優しさのかけらもない酷い生き物だった。
ブランシュは、自分がとんでもないことをしてしまったのではないかと、焦ったのだ。
「まあ、狼はだいたいどの物語でも悪者だな」
恐れていた返事に、ブランシュは思わず立ち上がり、両手で口を覆った。
「イ、イヴァン様のジャケットに刺繍してしまい、も、も、申し訳ございませんでした」
「……は?」
イヴァンには、ブランシュが何を言っているのか理解できなかった。
わかっていることは、ブランシュが何かと謝罪する人間で、勘違いして慌てているということ。
「お前は俺の命令が間違っていたと言っているのか?」
「あ、いや、その……」
「狼の刺繍は評判がいい、今後も続けろ。わかったか?」
「……はい」
ブランシュは王族が悪い動物の刺繍をしてなぜ評判がいいのかわからなかったが、イヴァンが良いと言えば良いのだと納得した。
「お待たせいたしました」
「レモン……?」
ダルクが運んできた紅茶には、輪切りのレモンが乗っていた。
紅茶は伯爵夫人が好んでいたので、飲んだことはないが香りを知っている。
一方レモンは食べたことがある。ただ、奴隷として口にしたので、良い思い出ではない。
「まあいい、飲め」
イヴァンは砂糖の入っていない紅茶を1口飲むと、品質の良さを評価するように、2口目も口にした。
しかしブランシュは、狼の刺繍の件の折檻だと思い、目をつぶって静かに1口飲み込む。
「お、おいしい……!」
ブランシュの紅茶に砂糖が入っており、酸っぱいレモンがさっぱりとしていて、ブランシュは目を丸くした。
(ザクロのジュースもそうだったけど、世の中にはおいしい酸っぱい物もあるんだ)
ブランシュがカップを置くと、イヴァンは目を細めて笑う。
おいしいと言った上に、カップに見入っているからである。
ブランシュは刺繍に近しいものを感じるからか、カップの模様を見るのが好きだった。
「イ、イヴァン様?」
カップの金色の模様を見た瞬間、ブランシュはこれがいつものカップと比にならない程高いことがすぐにわかった。
実際イヴァンは、美味しい茶葉が入ったので、カップも新しく高級なものにしたのだ。
ちなみにコーヒーを出す時も高価なものを出していたが、一般市民も使うようなものを使わせていると教えていたことと、
イヴァンとブランシュのカップは違ったため、ブランシュはその言葉を信じ切っていた。
「こ、こ、こんな高価なカップは、その」
「そんなことはどうでもいい。それよりもお前の親についてだが」
イヴァンが質問を言い切る前に、高い音が部屋に響いた。
「あ……あ、も、も、も」
ブランシュは高価なカップに手が震え、取っ手をうまくつかめずカップを割ってしまった。
いつもなら反射的に土下座するブランシュだが、あまりのショックに動くこともできず、瞳だけが潤んでいる。
「何を……やっている」
イヴァンの声は心臓に響くほど低く、恐怖からブランシュは声が出ない。
ダルクはカップが割れた音を聞いて慌てて戻ってくると、イヴァンがブランシュを見て固まっていた。
「すぐに救急箱を持ってきます」
震える足でなんとか立ち上がったブランシュは、机の上の割れたカップをなんとかしようとした結果、手から血が流れていく。
「そ、そ、掃除を……あ、も、も、申し訳ございません……」
今にも消えそうな声で謝罪を繰り返すばかりのブランシュは、手をカタカタと震わせながら、割れた破片を集めている。
「お前はバカなのか!?」
イヴァンはブランシュの手を掴み、強引にソファーに引っ張って連れていく。
「イ、イヴァン様!絨毯に血が垂れてしまいます!」
ブランシュは慌ててエプロンを掴み、血が垂れないようにしたが、イヴァンにはその声が聞こえていない。
「ダルク!早くしろ!」
戻ってきたダルクは、ブランシュの手をタオルで包むと、手を心臓より高く上げるよう伝えたが、ブランシュは固まったままである。
ダルクはブランシュの手を握るようにして、圧迫し止血をした。
イヴァンはなぜか引き出しから飴を取り出し、ブランシュの口に突っ込んだ。
すると、チョコレートとも違う甘さに驚いたブランシュの目が見開いた。
「気にするな。あんなカップいくらでも手に入る」
嘘じゃない。
イヴァンの権力があれば、すぐにでも手に入る代物である。
「血は止まったか?」
「とりあえずは。包帯をしっかりと巻いて、今日は安静にしないといけません」
「縫わなくていいのか?」
「そこまでではないですよ」
イヴァンはダルクの言葉に少し肩の力が抜けると、包帯を手に取りへたっぴながらも丁寧に巻いていく。
「ブランシュ、お前のせいで俺の話が途中になった。カップなんてどうでもいい」
「えっと……?」
「お前の親や家族はどこにいる。ここに連れてくるために、情報が必要だ」
イヴァンの質問に、ブランシュは家族まとめて責任を取らされるのかと思った。
しかしイヴァンは迫害の事実から、万が一ブランシュの家族に何かあったら、情報を得られないと思ったのである。
だが、ブランシュに家族はもういない。
「えっと、母も祖母も亡くなっています」
「父親は?」
「い、いません」
「……そうか」
奴隷に父親がいないことは、普通のことである。恋愛の末の子ではなく、必要だから増やされることが多いからだ。
イヴァンの知らない常識である。
イヴァンは包帯をもう一度ぎゅっと締めると、大きなため息をついた。
「言いたいことがあるなら言え」
ブランシュがあまりにもチラチラと自分を見るため、イヴァンはため息をついた。
「イ、イヴァン様は元気がないのですか?」
ベラの言葉を真に受けたブランシュと、その事実を知らないイヴァン。
ダルクは笑いを堪え、片付けを始めるのだった。




