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61.袖の傷

 自分の部屋に戻ってきたブランシュは、ベッドに座って手に巻かれた包帯に首を傾げる。

 ブランシュは今までどんな怪我も、支給された1着の服で傷口を縛りなんとかしてきた。

 

(いくら払ったらいいんだろう。包帯なんて、私が使えるような物じゃないのに……)


 包帯を見たことはあっても、それは貰えるはずのない物で、貴族の物だと思っていたブランシュ。

 

 今回それなりに血は出たが、痛みに慣れているブランシュは手を動かすことなど問題ない。

 

 ブランシュは小さなため息をつくと、勉強道具の手提げからイヴァンが書いた見本の紙と日記を取り出す。

 それから手提げを壁にかけ、寝巻きに着替えた。


(今日の日記……書こうかな)


 3か月ちょっとで名前は書けるようになったものの、まだまだ絵がほとんどの日記。

 それでも、1日たりとも書かなかった日はない。


『イヴァン様の(カップ)(ひび)申し訳ございませんでした』


 イヴァンに頼み込んで教えてもらった「申し訳ございませんでした」の文字と、割れたカップの絵。

 静かな部屋に、かすれた声が響いた。


「一生分のお給金でも、弁償できないよ……どうしよう」


 ブランシュはペンを置き、両手を組んでおでこに当てると、涙が袖に滲んだ。

 

「明日巾着を持ってイヴァン様の元へ行ってみようかな」


 何度も何度も深呼吸をして、ようやく顔を上げたブランシュは、日記を片付けようと手に取った。

 しかし、今日のブランシュはことごとくついていない。

 

「……あ」


 ブランシュの描いたカップの絵の上に、包帯から滲んだ血がついてしまった。

 

 すぐに袖で拭いたが、もう遅い。

 ただ血が擦れて、余計に汚くなっただけである。


 鼻をすすったブランシュは手の甲で目を擦り、包帯の上から寝間着を巻いて止血する。


 

「これだから親がいない奴隷は」


 

 なぜかわからないが、突然ブランシュの頭の中にこだました言葉。

 これは王宮に来るまでの間、ブランシュが伯爵家でよく言われた言葉だ。


 ほとんどの奴隷に親がいないため、ブランシュは親がいないことに疑問を持ったことは1度もない。

 ただ、親がいないから、奴隷だからダメなのではなく、ブランシュという人間自体がダメなのだと思っていた。


 ブランシュは頭をブンブンと振ると、そっと寝間着を外して血が止まったのを確認し、包帯を巻き直した。

 血の付いた部分が手の甲側へ来るようにすると、日記をしまう。

 

(……奴隷の私がどうして裁縫箱を持っているんだろう)


 机の上の裁縫箱を見て、ブランシュの心はさらに重くなった。


 イヴァンに裁縫箱をもらうまでは、古い缶に借り物の道具を集めて使っていたブランシュ。

 今目の前にある引き出しのついた裁縫箱は、アンの物よりは劣るものの、ジャネットと比べたらブランシュの裁縫箱の方が高価だろう。

 

「私にはもったいない……」


 唇をぎゅっと噛みしめたブランシュは、1番下の引き出しからシャツを取り出し机の上に広げた。


 シンプルで洗練されたベージュの布地だが、袖口には赤茶色に染まった約3cmの線。

 ブランシュは金と茶色の糸を針に通すと、紋様の刺繍の続きを始めた。

 

 ダヴィドからの依頼を受けたのは、袖の汚れを刺繍で隠して欲しいとのこと。

 

 普通の縫い子なら、汚れた王族の服はすぐに捨てて、新しいものを作ればいいと思うだろう。

 だが、赤茶に染まったシミを見て誰がどう思うかわからないことを、ブランシュは知っていた。


 王族の服には、名前の入ったタグが付いている。

 本来厳重に処理される物ではあるが、万が一第三者の手に渡ってしまったら、政治的情勢が変わることもあるかもしれない。


 王子に生まれるとはそういうことで、奴隷に生まれたブランシュの人生もそういうものである。


(温かい食べ物に、お砂糖まで知ってしまったわ)


 ブランシュは途端に草むしりがしたくなり、シャツを机の上に置いた。


 

「ブランシュ、いるかい?」



 しかタイミングのいいノック音に飛び跳ねたブランシュは、目元を強くこすってからドアを開ける。


「夜遅くにすまないね」

「い、いえ、だ、大丈夫です」


 ダヴィドは王とお酒を飲んだ帰りに、ふとブランシュの顔を一目見ておこうかと顔を出しただけだった。

 しかし、ブランシュの手と赤い目元を見ると、後ろに立つチャトゥラへ目配せをした。

 

「シャツはできたかな?」

「も、もう少しで」

「じゃあ出来上がるまで待っていてもいいかい?」


 チャトゥラが階段を降りていき、ダヴィドはブランシュの返事よりも先に部屋へ入ると、ブランシュはキョロキョロしながらもドアを閉めた。


「それで、その手は一体どうしたんだい?」


 迷うことなくベッドに座ったダヴィドは、椅子に座ったブランシュの手を指さした。

 

「も、も、申し訳ございません」


 シャツに血をつけるのではと心配させてしまったと思ったブランシュは、即座にシャツを机の上に置き、頭を下げた。

 

「なぜ謝るんだい?そんなことより、裁縫で切ったのかな?」

「いえ、あの、その……イ、イヴァン様のカップを割って……」


 消えそうな声でうつむくブランシュは、ぎゅっと右手首を握る。


「ブランシュ、ダメだよ」

「申し訳ございません」

 

 顔を上げたブランシュの目から光が消えかけたその瞬間。

 ダヴィドはブランシュの左手を優しくほどき、右手をそっと包むようにして握った。

 

「大事な手じゃないか。しかも今回は利き手だ。袖にも血がついてる」

「え……あ、いえ、その……私の傷なんて……」


 ブランシュは、ちらりとダヴィドのシャツを見た。


「カップはイヴァンのだろ?」

「そ、そうなんです。あの、お、お給金を全額弁償に」


 眉間にしわを寄せたブランシュは、ダヴィドの目を見つめる。

 

「こ、こ、今後のお給金でも、い、一生かかっても払いきれません……」

「ブランシュ、聞いて。イヴァンのカップならいくらでも割っていい。もちろん、僕のもね」


 ダヴィドは笑顔でブランシュを見つめ返すと、握った右手を目の高さまで持ち上げた。

 

「それよりも君は怪我をしすぎで心配だよ」

「で、でも……あ、いや、その、も、申し訳ございません」


 思わずこぼれた反抗するような言葉に、思わず左手で口を押さえた。

 

 奴隷である自分がどんな怪我をしても問題ないが、王族の血は1滴でも大問題である。

 それがブランシュの本音だった。

 

 加えて、ブランシュは預かったシャツの裾のシミを見て、事に気がついていた。

 以前「ドジで怪我だらけ」だと言ったダヴィドの怪我が、"ただのドジ"ではないことを。


「ま、こういった話はここまでにしよう」


 ダヴィドはゆっくりと手を離すと、にっこりと笑った。

 

「ブランシュ、君は今日、勉強してきたんだよね?」

「は、はい」

「まだ日記は続けているのかい?」

「……はい」

「じゃあそろそろ鍵付きの引き出しが必要だね」


 ブランシュはダヴィドの言葉に、首を傾げた。

 どうして鍵付きの引き出しが出てきたのか、全くわからなかったからだ。


 ダヴィドはブランシュの考えをすぐに察すると、自分のおでこへ手を当てた。

 

「ブランシュ、日記というのはその人の秘密なんだ。だから誰にも見せないんだよ」

「そ、そうなんですか?」

「もしかして誰かに見せたのかな?」

「……イ、イヴァン様に。あの……ダヴィド様も、よ、読みますか?」

 

 ダヴィドの返事よりも先に引き出しから日記を取りだし、胸に抱えた。


「失礼いたします」


 ノック音と共にブランシュが飛び上がると、チャトゥラが部屋に入って来た。


「じゃあ日記を少し読ませてもらおうかな。イヴァンが変なことを吹き込んでないか、チェックさせてもらおう」


 ブランシュがダヴィドに日記を渡すと、ダヴィドはそのままブランシュを隣に座らせた。

 困惑するブランシュの前にチャトゥラが膝をついてしゃがみこむ。


「あ、あ、あの、そ、そんな、私が!」

「ブランシュ、手を出していただけますか?」

 

 ブランシュは恐る恐る手を出すと、チャトゥラは慣れた手つきで包帯を解いていく。

 

(そんなに高価なものを……まるでみんな、私が奴隷だって忘れたみたいに接するけど……黒いリボンが恋しいな)


 ブランシュの息が薄くなったことに気づき、ダヴィドは今日の日記のページを開きブランシュをつついた。

 

「ブランシュ、今日はカップを割った。それだけかい?」

「あ……ほ、包帯もいただいてしまいました。い、今も……」

「何か良いことはなかった?」


 チャトゥラに巻いてもらった包帯を見て、ブランシュはイヴァンの顔が浮かんだ。

 

「あ、あ、赤ずきんを……」

「赤ずきんを?」

「さ、最後まで読むことが、で、できました」


 ブランシュは浅い息で返事をすると、ゆっくりと顔を上げた。

 

「素晴らしいじゃないか!このことも書こう」

「わ、私、字が」

「僕が見本を書くよ。傷が開くだろうから、後日書くと良い」


 ブランシュはダヴィドとチャトゥラの顔を交互に見ながら、ダヴィドの見本を見ながら日記を書いた。


『赤ずきんを最後まで読むことができました』

 

 ダヴィドは満足げに笑い、シャツを手に取る。


「シャツは今度でもかまわないさ」

「も、申し訳ございません!今すぐに仕上げます!ひ、左手で縫えるので」

「そうか。あ、このことも日記に書くなら、見本を書くよ」

「い、いえ……」


 ブランシュは糸を通した針をピンクッションに刺すと、うつむきながらもダヴィドに体を向けた。

 

「皆様の大切なことは書かないようにしているのですが……よ、よろしいでしょうか?」

「もちろんだよ。僕が悪かった」

 

 針を持ち、左手で刺繍の続きを始めたブランシュを見て、ダヴィドはブランシュの胸にしまうその姿勢に感心したのだった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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