53.赤く腫れた腕
「な、何があった……」
ブランシュの一声で動けなくなったダヴィドから、震えるような声が漏れた。
ブランシュはダヴィドの目を見て、唇をギュッと噛み締めている。
「ブランシュ」
ダヴィドの呼びかけに、ブランシュは静かに息を吐いた。
「これから私がする行動に、その、目をつぶっていただきたいのです。お、お願いいたします」
「あぁ、わかった」
ここまで言うブランシュの必死さに、ダヴィドは息を飲んだ。
そしてあの日、ハムが欲しいとねだったブランシュの顔を思い出した。
「まさか、毒……なのか?」
ダヴィドとブランシュは一瞬の沈黙の後目が合うと、今度はダヴィドがかすれるような息を吐いた。
「それは毒なのか?」
「まだ……わ、わかりません」
もしもリゼットの時に使われた毒ならば、ダヴィドは口元を覆う必要はないと思っていた。
見た目も変色するので、一眼でわかる。
その上、触った瞬間に肉がただれるというので、ブランシュの顔が赤い理由は違うだろう。
「ブランシュ、君の右手を見せてくれないか?」
ダヴィドは、ブランシュが右手を何度もエプロンで擦っているのを見逃さなかった。
ただれているわけではなくとも、何かが起きていることは見ればわかる。
「そ、その前に、ダヴィド様は、ハンカチをお持ちですか?」
「持っているが」
「そ、それで口元を、お覆いください」
被せぎみに話すブランシュ。
すぐにハンカチを取り出したダヴィドは、ブランシュの言う通りに口元を覆った。
「絶対に、こ、この部屋に入らないでください。腕もできるだけ袖の中に入れて、この部屋の空気に触れないように」
「わかった。だからそれが何か、君の右手を見せてくれ」
「ほ、本当に部屋に入らないでください。お願いします」
ブランシュは真っ赤な顔で、何度も部屋に入らないように伝えた。
だが、ダヴィドは自分の質問に答えないブランシュに、声が低くなっていく。
「入らないから早く説明してくれ」
ブランシュは肩をビクリとこわばらせると、黙って部屋の角にある端切れ箱から大きめの布を左手で取った。
そして、布と糸が置かれた机の前に立つと、マドレーヌが切った布を慎重に広げる。
「その布が問題なのか?」
「は、はい。その……な、何かをされたかも、し、しれません」
ブランシュはうつむいた。
その顔はほんのり赤いのに、血の気が引いている。
「やっぱりきのこなのか?」
ダヴィドはそうじゃないとわかっていながらも、質問せずにはいられなかった。
「い、いえ、変色はしておりませんので、おそらく違うと思われます」
しかしブランシュは冷静に返事をすると、左の袖を勢いよくまくる。
「ダヴィド様。折檻は後程受けますので、い、今この汚れた腕を見せることをお許しください」
「待て、折檻などどうでもいい。何をしようとしているか説明しろ」
「これが毒かどうか証明する方法があります」
待てという言葉を無視したブランシュは、端切れを口にぎゅっと咥えた。
そして、静かに細い息を吐くと、左腕をゆっくりと布に擦り付けたのだった。
♢
「君は今何をした」
ブランシュは平然を装ったつもりだったが、その眉間には皺が寄っていた。
今すぐ問い詰めたいダヴィドも、自分が部屋に入るべきではないとわかっているため、声を掛け続けるしかない。
「ブランシュ、早くこっちに来い」
「い、行くことはできません。こ、これがダヴィド様にもついてしまいます」
ブランシュは擦った腕をダヴィドに見せる。
「な、なんだ……それは」
少し離れた距離でもわかるほど、ブランシュの腕は腫れ上がり、真っ赤な斑点模様ができている。
ほんの数秒のできごとに驚いたダヴィドは、ハンカチを強く口に押し付けた。
「ダ、ダヴィド様、大丈夫です」
「わかったから、それが何か説明しろ」
焦ったダヴィドは、自分の口から出た言葉に目を見開く。
ところが、ブランシュはもう肩を震えさせることもなく、ただ静かに答えた。
「これは、毛虫です」
「毛虫?今は冬だ。毛虫が出るのは春だろ」
王宮内の庭にも、春になると毛虫が出る。
王族には細心の注意が払われるが、毎年何人も使用人に被害者が出ている。
「冬に、出てくる、種類の、毛虫がいます」
ブランシュは鋭い痛みに、だんだん息が荒くなっていくが、何度も爪が食い込むほど手首をギュッと握り耐えた。
「王宮内にそんな毛虫がいたら問題になるはずだ。だが、第一王子の僕でもそんなこと知らない」
「中庭には、椿の木が、ないんですね」
ダヴィドは、女性を象徴する高価で美しい花の象徴である椿を、園芸農家から取り寄せていることを思い出した。
取り寄せる理由は、王宮内に椿の花がないからだ。
「でも、ならどこに!」
「う、裏門を曲がった、すぐのところに、小さな椿の木があります」
布を擦ったことで舞った毛虫の毛が、ブランシュの顔や喉を襲った。
それでもブランシュの頭には、折檻の記憶がチラつくだけで、ダヴィドに全てを説明することしか考えていない。
「毛虫が危険なのはわかった。なぜ口元を覆う?」
「毛虫の毛は、目に見えません」
ブランシュは袖をゆっくり戻すと、擦れた腕の痛みに耐えるように強く手を握ったところに血がにじむ。
「目に見えないということは、今、舞っているんだな?」
「そう思われます」
「ブランシュ、君はそれを吸ったんだね?」
少しずつかすれていくブランシュの声に、ダヴィドも眉間にしわを寄せた。
「おい、大丈夫か?」
(なんだかイヴァン様みたいな喋り方……目をつぶると本当にそっくりだわ)
咳を我慢できなかったブランシュは、ふらついて机に手をついた。
「大丈夫じゃないな、今すぐ人を呼んでくる!」
ダヴィドは自分が取り乱していることに気がつくと、すぐに行動した。
しかし、ブランシュは自分の体調を把握できていなかった。
「申し訳ございません。大丈夫です」
ブランシュは「大丈夫じゃない」と言ったことが、1度もない。
奴隷は、いつだって「大丈夫」なのだ。
「私には耐性があります……」
「耐性と言ったってこれはさすがに大丈夫じゃないだろう」
ダヴィドはここまで酷い症状を見たことがない。
ブランシュが「大丈夫」でないことは、一目瞭然だった。
「冬の毛虫は、毒が強いんです。普通の人なら、吸っただけで、声が出なくなると、思います。だから、大丈夫です」
ダヴィドはブランシュを無視して、人を呼びに行こうと思ったが、かすれた声を上ずらせながらブランシュは頭を90度に下げた。
「今すぐ、この部屋を、すぐに、封鎖できますか?お、お願いします!」
(誰かが帰ってくる前に、なんとかしないと。みんなの裁縫箱も汚れてしまうかもしれない……)
肩で息をするブランシュは、顔を上げると目に涙を溜めていた。
「罰は後ほど受けますので、どうかお願いします」
ダヴィドは深いため息をつくと、口元から布を外し返事をした。
「もちろんだ。今すぐに」
♢
ダヴィドは念のため、ハンカチを使って縫製室のドアを閉めた。
「誰かいるか!リゼットの縫製室の前だ!」
すると、すぐにダヴィドのもとへヴァレットのチャトゥラが走ってきた。
チャトゥラは頭を搔きながら、ため息をつく。
「ダヴィド様、また勝手に。今度は何をされているのですか」
「チャトゥラ、今すぐリゼットの縫製室を封鎖する。ヴァレットをできるだけ集めろ。全員手袋をして口を覆わせろ。事件だ」
「か、かしこまりました!」
ダヴィドは両手で顔を覆い、深いため息をついた。




