39.北側の中庭
(また自分の部屋に戻るなんて……変な気持ち)
「夜はもう冷えるだろ」
「イ、イヴァン様!」
イヴァンは北側の中庭の隅で、膝を抱えて座るブランシュを見つけた。
「お前、夕食は?」
「あ……」
ブランシュは、なぜ売られなかったのかを考えていたら落ち着かなくなり、中庭に座っている間に時間を忘れてしまった。
「はぁ」
イヴァンはため息をつきながら、ブランシュの横にしゃがみ込む。
「だ、大丈夫ですか!?」
イヴァンの顔色が悪いことに気がつき、ブランシュは慌てて立ち上がった。
「うるさい、大丈夫だ。座れ」
ブランシュはポケットからハンカチを取り出すと、草の上に敷いた。
「イ、イヴァン様……あ、あの、これよかったら」
「……ん」
イヴァンは飲み過ぎた酒で痛む頭を抑えながら、遠慮なくブランシュのハンカチの上に座る。
しかし、中庭に来た王子はイヴァン1人ではなかった。
「ブランシュも疲れているんだ。そんな言い方する必要ないだろう」
(もう王族の方々は、お腹いっぱいなんですが……)
柱の裏から、イヴァンの後をつけて来たダヴィドが顔を覗かせる。
イヴァンはダヴィドを鋭い目で見たが、ダヴィドは無視するようにブランシュの前にしゃがんだ。
ブランシュは慌てて立ち上がり、ポケットに手を入れた。
しかし1枚しか持っていないハンカチは、現在イヴァンが使っている。
困ったように辺りを見渡すブランシュを見て、ダヴィドは笑いながら立ち上がった。
「気を遣わせてしまったね。ハンカチはそこの二日酔いに貸してやってくれ」
ダヴィドは柱に寄りかかり、イヴァンは俯いたまま顔を上げる元気はもうなかった。
「や、やっぱり体調悪いですか?」
ブランシュはお酒を飲んだことがなかったので、二日酔いの辛さがわからなかった。
だがこんな風に項垂れるイヴァンを見たことがなかったので、倒れてしまうのではと不安でたまらなかった。
「俺は座れと言っているんだ」
「は、はい!」
ブランシュは、すぐさまイヴァンの隣にしゃがみ込む。
そのまま正座しかけたが、2度と土下座するなと言われていたので、ブランシュは膝を抱えて座ることにした。
しかし自分で座ったのに、思ったよりも近い距離にひっくり返りかけた。
「落ち着け。だいたいお前はいつも」
「イヴァン、ストップ。君はどうしてそういう言い方しかできないんだ。悪いね、ブランシュ。こいつは酔うとタチが悪いんだ」
ブランシュは自分が悪いと謝罪しようとしたが、それより先にダヴィドが動いた。
イヴァンと挟み込む形で、ブランシュの横にぴたりとくっついて座ったのだ。
(ダ、ダヴィド様も酔っていらっしゃる!?)
立ち上がろうとすれば、両隣から服の裾を掴まれて、逃げることができない。
イヴァンの強い圧にダヴィドの方を向くと、ブランシュはダヴィドがやたら右腕を掻いていることに気がついた。
お酒を飲むと赤くなり、痒くなる人がいる。
それを知ってはいたけれど、チラリと見えたかぶれを見て、実はしんどいのではないかと心配した。
「お前なんで俺の方を向かないんだ!」
「も、申し訳ございません!」
♢
「ほら、早く行けよ!」
3人が静かに座る中庭に、突然男性の怒鳴り声が響き渡った。
ブランシュは跳ね上がり、そのまま瞬時に正座する。
3人の目に映ったのは、最低限の服を着ただけの男女が合わせて10人ほどが、2列になって歩いているところだった。
怒鳴り散らしているのは、その後ろを歩く2人の使用人だ。
(この中庭に来る人たちはきっと……)
北側の中庭は、奴隷しか使わない。
下級使用人が使うこともゼロではないが、ここにいる人は奴隷だと思われても仕方ないので、皆使いたがらない。
「早くしろって言ってんだろ!」
怒鳴った使用人の1人は男を蹴り飛ばし、もう1人が鞭を取り出した。
使用人は手慣れているし、奴隷は声を上げない。
イヴァンとダヴィドは、突如始まった目の前の光景に固まってしまった。
王子である2人は、こういった怒鳴り声を知っているし、ミスした使用人に処罰を下す側にいる人間である。犯罪者が辿る無惨な行き先だって、見たことがあった。
それなのに、焼き付くほどの生々しい現場に、目を離せなかった。
イヴァンは1人の奴隷と目が合い、慌てて逸らすとブランシュが、ギュッと体を抱きしめていることに気がついた。
だが、ブランシュの顔は見えない。
ダヴィドも同様に、ブランシュの顔が見えなかった。見えていたのは、ブランシュの手が硬く握られていることだけ。
わかっていたけど、目の前の景色から目を背けることができなかった。
今までなんとも思っていなかった景色なはずなのに、衝撃を受けたダヴィドはこめかみを強く抑えた。
柱の影にいる3人に気がついている者は、中庭の奴隷以外いない。
タンゾワールの2人の使用人は、気づいていないというよりは、庭に誰がいようと興味がなかった。
廊下をたまに通る使用人も2.3人いたが、音に反応はするものの、チラリと見るだけでそのまま行ってしまう。
2人が知っていたはずの現実を突きつけられてから、どれくらい時間が経ったかわからない。
冷たい風が強く吹くと、イヴァンとダヴィドは酔いが覚めたかのようにハッとした。
すぐに2人揃ってブランシュを見る。
ブランシュは奴隷が来てから、少しも動いていなかった。
「イヴァン」
「……あぁ」
ダヴィドは小声でイヴァンを呼ぶと、静かに立ち上がった。
イヴァンもため息を漏らしながら、ゆっくりと立ち上がる。
「ブランシュ、行くぞ」
しかしブランシュはイヴァンの声に気づいていないのか、ただじっと目の前の光景を見つめている。
その表情は“無”そのものだった。
イヴァンは思わず、ブランシュの肩を強く掴んだ。
「おい!」
いつもなら飛び跳ねるブランシュは、ゆっくりと顔を上げる。
「はい」
「だ、大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
「大丈夫って……」
ブランシュは落ち着いた声で、淡々としている。
「……立て」
「はい」
静かに立ち上がったブランシュは、イヴァンの目をじっと見つめる。
「ブランシュ、部屋へ送るよ」
「いえ、お手を煩わせてしまい申し訳ございません。ここで失礼いたします」
ダヴィドはブランシュが初めて自分に取る態度に、思わず腕を掴み、ブランシュの目をじっと見つめる。
「……僕が送ると言ったんだが?」
「仰せのままに」
ダヴィドは大きなため息をつくと、少し低くなった声でイヴァンを呼ぶ。
「行こうか」
「あぁ……ブランシュ、行くぞ」
ダヴィドはゆっくりとブランシュの手を引き、イヴァンもブランシュの手を引いた。
ブランシュが振り解けるはずもなく、言われた通りついて行く。
(ダヴィド様の手が冷たい……私なんかに触れるから)
ブランシュは売買されると思っていた自分が、なぜ今も王子の隣にいるのか不思議に思った。
(イヴァン様は具合が悪いんだわ。顔色がとても悪い……私のせいで申し訳ない)
イヴァンとダヴィドは、チラチラとブランシュを見ながら歩いたが、ブランシュはいつもよりもずっと落ち着いている。
それがなんとも言えない気持ちにさせた。
一方ブランシュは見慣れた光景よりも、自分の手を引くダヴィドとイヴァンのことの方が、よっぽど理解できなかった。
♢
3人が去った中庭の柱の陰で、2人の人物が息を潜めて奴隷を見ていた。
「これが奴隷の現実だ」
「そうだね。これはこの国でも起きてるのかな?」
「きっと起きているに違いない」
抜け出したことがバレぬよう、2人も足早に去っていった。




