27.第二王女の来訪
勉強が始まってからイヴァンは、ブランシュの物覚えが良くも悪くもないことに驚いた。
あれだけの観察力と裁縫技術があるならば、なんでもそつなくこなすと思い込んでいたからである。
それでも努力家だったブランシュは、ギリギリ読めるような字を書けるようになり、イヴァンの名前も見本を見ればなんとか書くことができるようになった。
イヴァンは日常的に使うだろう単語の見本を、毎回いくつか書いてはブランシュに読ませた。
おかげでブランシュは、書けない単語も少しだけ読めるようになった。
(読むよりも書く方が難しい……せっかく教えていただいてるんだから、もっと練習しなきゃ)
ブランシュの努力に感心したイヴァンは、ただの紙ではなくノートを渡した。
「日記というものを知っているか?その日あったことを記録するんだ」
ブランシュは言われた通り毎日ノートに記録した。
3日後、イヴァンは日記を見せるように言った。
素直にブランシュがノートを渡すと、日記を開いたイヴァンは口角が上がる。
「お前、これは何と書いてあるんだ?」
小さく笑いをこぼしたイヴァンに、ブランシュは顔を真っ赤にし、小さな声で答える。
「イ……イヴァン様にクッキーをいただいた、と書きました……」
ブランシュの答えに、イヴァンは思わず声を出して笑う。
『イヴァン(王冠の絵)に(クッキーの絵)を(両手の絵)』
ブランシュはイヴァンと目が合い、慌てて逸らす。
イヴァンは目を細め、そっと日記を返すのだった。
♢
「ドアを開けなさい!」
いつものように日記を書いていたブランシュは、突然ノックの音に襲われた。
女性の声に飛び上がると、恐る恐るドアを開ける。
そこには成人パーティーで真っ赤なドレスを着ていた、第二王女のエリアーヌが寝巻きに羽織を着て立っていた。
「遅い!」
ブランシュは慌ててお辞儀をしたが、エリアーヌはズカズカ入るなりドアを強く閉める。
(……せ、折檻かも)
ブランシュは個室になってから、いつ誰が折檻をしに来るか怯えていた。
王女が目の前にいるという事実に、ブランシュの体はカタカタと震え出し、無意識にその場に正座する。
エリアーヌはわざとらしくため息をつくと、足を組んでブランシュに冷たい視線を向けた。
「あなた、私が誰かわかっている?」
「も、もちろんでございます……第二王女殿下」
声をうわずらせながらも、精一杯の声を出して答えたブランシュ。
どうせ知らないだろうと思い声をかけたエリアーヌは、一瞬目を見開いたがすぐに腕を組み直す。
「知ってるのね!それならいいわ。それで、えっと……私来月嫁ぐの。だから……」
エリアーヌはごにょごにょと言いながら、目を泳がせた。
ブランシュは動くことも、声を掛けることもできない。ただ静かに正座し続けた。
部屋には、長い間沈黙が続いた。
「ヒッ!」
エリアーヌが机に肘を置いた鈍い音に、ブランシュは思わず悲鳴をあげた。
慌てて口を手で覆ったが、同時にブランシュとエリアーヌの目が合ってしまう。
エリアーヌは頬に両手を当て、覚悟を決める。そして羽織から1枚の布を取り出した。
「あなた、このハンカチどう思う?」
そっと開かれた布は、穴の空いた真っ白なハンカチだった。
美しい刺繍とハンカチの質感を見て、ブランシュはとても高価なハンカチだということがすぐにわかった。
(このハンカチは、よく手入れされている。きっと第二王女殿下の大切なハンカチなんだわ。でもレースは破けてるし、穴も空いている……)
穴は小さかったが、その見た目は痛々しい。
「本当はあなたなんかに頼みたくないわ!でも……これをあなたが直しなさい!」
エリアーヌは勢いよく立ち上がると、椅子が倒れブランシュの肩が跳ねた。
しびれた足に力が入らず動けないブランシュに、ゆっくりと近づいて行くエリアーヌ。
ブランシュの息が止まりかけた時、エリアーヌはブランシュを見下ろし、唇をぎゅっと噛んだ。
「これは何よりも1番大切にしている物なの。あなたにそれがわかる?わからないわよね!」
ブランシュはハンカチを大切にしている人が、すでにたくさんいるということを知っている。しかし何も言えなかった。
エリアーヌは何も言わないブランシュを見て、すべてを見透かされているような気持ちになり、爪が食い込むほど手を握りしめた。
「奴隷にこのハンカチを触られるのは癪だけど、仕方ないわ。1週間以内にこのハンカチを完璧に直しなさい!」
ブランシュは唾を飲みこむと、一生懸命頷いた。口を動かしたが、声が出なかったのである。
エリアーヌは、ハンカチを机の上にそっと置いた。
「このことを誰にも言わないでちょうだい。もちろん第一王子様と第三王子様にもよ、わかった?」
ブランシュが再び何度も頷くと、エリアーヌはブランシュの前にしゃがみこんだ。
そしてニヤリと笑う。
「頭を下げなさい」
ブランシュは言われた通り、すぐに土下座した。そして無意識に息がゆっくりと止まる。
「あなたは奴隷よね?そして奴隷に何をしてもいいことを、あなたはよくわかっていると思うわ」
エリアーヌはブランシュの顎に指を当てると、グッと持ち上げる。
「ここには誰も来ないわ。つまり私が何をしても、あなたが言わない限り誰も気がつかない。もし私の命令に従わないなら……」
ブランシュの目に涙が浮かぶと、エリアーヌは小さく笑い、そのまま部屋を出て行った。
ドアが勢いよく閉まると、ブランシュの目から涙があふれる。
(第二王女殿下が出て行くまで涙がこぼれなくてよかった……とても怒らせてしまうはずだもの)
奴隷は泣いてはいけない。泣くとより重い折檻が待っているからだ。
♢
その晩、ブランシュは少しも眠れなかった。
(第二王女殿下は、私を奴隷扱いするために来たんじゃない。このハンカチが大切なのは間違いないもの)
体が思い出した恐怖を拭えなくても、ブランシュは真剣にハンカチをどう直すか考えていた。
レースの1辺は破れていたけれど、その部分をほどいて編み直せばいい。
問題は穴の方だった。貨幣よりも小さい穴が、強い圧力を受けたように繊維が傷つけられている。
(ハンカチがこれだけ真っ白だと、穴の黒ずみが目立つ。それをなんとかしなくちゃ)
ブランシュは穴の隣の刺繍を指でなぞる。
オレンジ色のマリーゴールドが無事なことに、ブランシュは安堵した。
そして何枚も何枚もデザインを描き続けた。
♢
ブランシュが涙をこらえていた頃、ダヴィドはイヴァンの元を訪れた。
自分が部屋に入ってもこちらを見ないので、仕方なくイヴァンの机に腰掛ける。
「何の用だ」
「イヴァン、ブランシュの勉強は順調かい?」
イヴァンはダヴィドを見ると、深いため息をついた。
昨晩イヴァンは、いつも通りブランシュに文字を教えていた。
だが、自分のフルネームを書かせていたところ、ブランシュが文字を手で擦って濁らせてしまった。自分の名前が汚れたことで、思わず声を上げてしまったイヴァン。
ブランシュは必死に謝罪したが、その目は涙が浮かんでいた。
その時、イヴァンはブランシュがどんなに目を潤ませても、絶対に泣かないことに気がついた。
その意味を想像した瞬間に申し訳なくなり、それ以降昨晩はブランシュの目を見ることができなかったのだ。
「別に……お前には関係ないだろ」
「僕が勉強の許可を出したんじゃないか。また蜂蜜を配るような真似をされたら困るからね」
ブランシュが絡むと周りが見えなくなるが、その自覚がないイヴァンを見て、ダヴィドは兄として面白がっていた。
「僕は最近裁縫教室に顔を出せてないからね、ブランシュが元気かどうか気にしてるんだ」
「……別に、いつも通りだ」
頬杖をつき、うなだれるイヴァンに、思わず笑いがこぼれたダヴィドだった。




