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26.ブランシュの勉強

 勉強初日の夜、周りに誰もいないことを何度も確認してからイヴァンの部屋へ向かったブランシュ。


(奴隷が文字を習うなんてことを誰かに知られたら……恐ろしいことになるのは間違いないわ)


 仕事で得た秘密は必ず守るブランシュも、それ以外のことでジュリエットに話せないことは今まで1つもなかった。しかし文字を習うことだけは、ジュリエットにさえ言えなかった。

 それほど奴隷が文字を学ぶことは、タブーとされていることなのである。


「ひぃ……!」

 

 こそこそと向かっていたブランシュが廊下の角を曲がると、そこでダルクと鉢合わせた。

 イヴァンはブランシュが逃げることを想定し、ダルクに迎えへ行くよう命令したのだが、驚いたブランシュは腰が抜けてしまった。



 ♢



「遅かったな。ブランシュ、やはりお前は逃げる気だったか」


 腕を組んで仁王立ちするイヴァンに、ダルクはこっそりと事実を伝える。するとイヴァンは大きな声で笑った。

 まだ震えの治まらないブランシュは、王子用の立派な机と豪華な椅子に座らされる。


「なんだ、その顔は」

 

 ブランシュは動揺を隠せなかった。

 当たり前のように隣に座るイヴァン。目の前には上質な紙と、高級な羽のペン。

 

「あ、あの、あ、あしは?」

 

 ブランシュはペンを使ったことがほとんどない。

 細かい文字は書けないが、普段は裁縫の記号をチョークで書いている。チョークがない時は、河辺で手折った葦を削った物を使う程度だった。

 羽のペンを使ったのは、リゼットのドレスのデザインを描いた時の2回だけである。

 

「葦?それを何に使うんだ?お前はメイドだから羽のペンで十分だろ」


 目の前の羽ペンが高価なものだというのは、ブランシュにとすぐにわかった。

 そしてイヴァンが手に持っていた万年筆や、その横に転がっていたガラスのペンは見たことがなかったため、まだペンだと気づいてない。



 ♢

 

 

「一番最初に覚えるのは自分の名前だな」


 ペンを持つよう言われ、ブランシュは恐る恐る手に取ったが、そのままぴたりと固まってしまった。


「お前ペンの持ち方も知らないのか」


 呆れたイヴァンは、無意識にブランシュの手を握り、正しい持ち方に直してやった。

 しかし手を離してもブランシュは動かないままだったので、イヴァンは大きなため息をつく。そこでようやくブランシュは息を吸った。


「も、申し訳ございません!」

「そんなに緊張しなくてもいいだろ。まず俺が見本を書くから、それを真似てみろ」


 イヴァンはすらすらと「ブランシュ」と書いた。

 

 ブランシュもすぐに手を動かしたが、しなやかなペンでは真っ直ぐ線を引くことすら、ブランシュにはとてもままならなかった。

 何度も書いているうちに今度はインクが手につき、「高いものを申し訳ない」とブランシュは謝罪するばかり。


(これ落ちるのかな……?こんなに手が汚れていたら、文字を習っていると誰かに知られてしまうかもしれない……どうしよう)


「落ち着け、これは安物のインクだ。洗えば落ちる」


 ブランシュは焦りのあまり、心の声が口から漏れていたが、そのことにも気がつかないほど慌てていた。

 

「自分の名前を覚えたら次は俺の名前だな。ダルク、こいつに挨拶を覚えさせるべきか?」


 焦るブランシュに首をかしげながら、イヴァンは腕を上に伸ばした。

 ダルクはブランシュの気持ちを想像できたので、自分の主人の呑気さに頭を抱えた。



 ♢


 

 文字の勉強を始めて3回目の夜。

 なぜか10分前に終わったので、ブランシュはあまりにも不出来な自分に呆れられたのかと思った。


(やっぱり奴隷には贅沢だし……勉強は終わりだと言ってくださるかもしれない)

 

「ダルク」


 しかし期待を裏切るように、イヴァンの声でダルクは部屋を出ると、トレーにポットとカップを乗せて戻ってきた。

 ブランシュはその香りを知っている。


 驚いたブランシュが立ち上がりかけたが、イヴァンはその肩に手を置き座らせた。


「褒美がないとつまんないからな」

 

 ブランシュは返す言葉が見つからず、そっと口をつける。


「……はちみつ?」

「そうだ。不味いか?」

「い、いえ!おいしいです!」

 

 ブランシュがはちみつラテを堪能している間に、イヴァンは本を読み始めた。ブランシュはその手元を見入る。

 

「なんだ?」

「い、いえ……なんでもないです」


 天井まで続く本棚。

 以前いた伯爵家で、本をたくさん読み教養を身につけることで、それは誰よりも賢く人の上に立つ者になると教わっていたブランシュ。

 それは奴隷には無理だという嫌味だったのだが、素直なブランシュは言葉通りに受け取った。

 

(イヴァン様はなんでも知っている。私もいつか本を読めたら……なんてね。私には贅沢すぎる妄想だわ)

 


 ♢



 ブランシュは休日を王宮で過ごすと仕事をするので、イヴァンは王都に出かけるよう命じた。

 言われた通り出かけても、ブランシュに欲しい物はない。そこで過去に許可を取った、奴隷部屋へのお土産の果物を買うのが習慣となる。


 自分が元いた北側の部屋だけでなく、東、西、南の女性部屋にも訪れ、果物を配った。

 

 勉強を始めて2回目の休日。

 ブランシュはプラムを買い、2部屋の奴隷部屋に配った。

 

 しかしブランシュが奴隷部屋から出ると、見知らぬヴァレットが立っている。

 ブランシュは目を合わせないよう急いで去ろうとしたが、もう遅かった。

 

「白髪……お前がブランシュだな?ついてこい」

 

 ガタガタと震えたブランシュは言われた通り、ただ黙ってついて行くしかない。

 階段を登ると、1つの部屋だけに繋がっていた。


(せ、折檻……!?)

 

 ヴァレットが振り返ることなくドアを開けると、ブランシュは壁にふらりとぶつかり座り込んだ。

 

「だ、大丈夫かい!?」

 

 部屋から慌てて出てきたのは、ダヴィドだった。



 ♢


 

 ブランシュはベッドに座らされたが、呼吸は荒く眩暈は治らない。

 奴隷にとって、個室は折檻部屋と等しい。そのトラウマは体に刻まれているのだった。

 

「悪かった、まさかそんなに怖がると思わなかったんだ」

「い、いえ……わ、私の方こそ、その、申し訳ございません」

 

 ブランシュは腕をつねるように握りながら、この状況を一生懸命考えていた。

 

(折檻でないならなぜ個室に……?)

 

「ブランシュ、ちょっとは落ち着いたかい?」

「……は、はい」

 

 ダヴィドはブランシュの前にかがみ手を握ると、その冷たさに顔をしかめる。

 いつもなら緊張で手汗に悩むブランシュも、この日ばかりはそれどころではなかった。


「君に講師を頼んでおいて、ろくに話もできずすまなかった。報酬なんだが」

「ほ、報酬……?」

 

 イヴァンもダヴィドも、何かと報酬をくれる。

 奴隷だったブランシュも報酬という言葉は知っているが、概念がないのでもらうたびに罪悪感でいっぱいだった。


「君には今日から、この1人部屋を使ってもらうことにした」

「……え?」

 

 驚きから震えが少し治まったブランシュは、部屋を見渡してみる。

 机の上には自分の裁縫箱が置かれており、寝巻きは枕の上に置かれている。部屋の隅の壁には緑色のワンピースと、王都で買ったカバンが掛かっていた。

 

「イヴァンに文字を習っているだろう?机の上のペンと紙も自由に使っていい。足りなくなればイヴァンからもらうといいだろう」


 ポカンとしているブランシュに、ダヴィドはポケットから鍵を取り出すと、ブランシュに握らせるように手を包み込んだ。

 

「この部屋の鍵だ。僕とイヴァンもこの部屋のスペアを持っているけど、他に持っている人は誰もいないから安心してくれ」


 ブランシュは口をパクパクさせるだけで、頭が追い付かない。

 ダヴィドは立ち上がると、ブランシュの頭を撫で「おやすみ」と言い、部屋を出て行った。


 ドアが閉まり足音が聞こえなくなると、部屋は静寂に包まれる。

 ブランシュはどれくらい時間が経ったのかはわからなかったが、小さな窓から空を見るとすでに真っ暗だった。


 震える息をゆっくり吐くと、ブランシュは慎重に壁を伝うようにして階段を降りる。

 食堂へ向かうと、もう誰もいなかった。


 仕方なくブランシュは1人部屋に戻ると、机の上の1枚の通知書のようなものを見つけた。

 ブランシュは自分の名前しか読めなかったが、これは許可証なのだろうと思い、引き出しにしまう。

 

(どうして報酬が個室になったのかわからないけど……なんで鍵つきの部屋なんだろう)

 

 ブランシュはまだ知らない。

 鍵つきの個室は、上級使用人の中でも一握りで、塔の上の1部屋なんてそうそうないということを。

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