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第1話 路地裏のウィーニー 〜何者でもねえ、それがスタート ノーネームから刻むゲーム〜

 バケツの水は、もう灰色だった。

 いや、最初から灰色だったのかもしれない。


 便器の奥にブラシを押しつける。

 こびりついた汚れは、人間の“中身”そのままだった。

 腐った臭いが、鼻の奥にこびりつく。


 ブラシを押しつけるたび、便器の奥から腐臭が浮き上がる。


 跳ねた水が、手にかかる。

 ぬるい。


「……汚ぇ」


 流した水が渦を巻いて、汚れが消えていく。


「オレも流れて行っちゃえばいいのに……」


 消えていく汚れさえ羨ましい。


「孤児院上がりのオレが、仕事があるだけマシか……」


 そう思わないと、やってられない。


 仕事を終え、外に出た。

 夜の空気は少し冷たかった。

 神の紋章を刻んだ白い旗が、崩れたビルの壁に貼ってあった。

 その下で、金属骨格だけになったロボットの残骸が錆びていた。

 骨だけの犬が、その残骸を静かに嗅いでいた。

 シャッターに残った弾痕の下で、血の跡が黒く乾いていた。

 隣のシャッターには、引っ掻いたような爪痕。深い。人間のものじゃない。

 遠くで金属音。

 ネオンの隙間で、赤いレーザーが走る。

 電線のカラスが一斉に黙る。

 その奥で、何かが“引きずられる音”がした。

 骨が擦れるような。


 ネオンの明かりはすぐそこなのに、一本裏に入るだけで世界が変わる。


 路地裏。

 人も光も少ない場所。


 ウィーニーはそこを歩いていた。


「おい」


 突然、肩を掴まれた。


 振り向く前に、壁に叩きつけられる。


 ドンッ。


「誰の許可を得て歩いてるんだ、ゴミ」


 見慣れた顔。

 いつも絡んでくる人間のチンピラ。


「……別に」


「気持ち悪ぃ顔しやがって」


 腹に拳が突き刺さる。


「カハァ……」


 息が抜けた。


「その目、気に食わねえんだよ」


 今度は蹴りが腹を捉える。


 視界が揺れた。


 でも──倒れない。

 倒れた方が楽なのに、立ってる。


(……なんでかわからないけど、昔からやたら打たれ強いんだよな、オレ)


 でも痛い。


 なのに、足が崩れない。


「なにこいつ……」


「マジで気持ち悪ぃな。ゴミのくせに」


 チンピラの笑い声に、ウィーニーは歯を食いしばる。


「やめてよ……オレはただの人間だよ……」


「は?」


 自分でも、よくわからない言葉だった。


 チンピラの拳が振り上げられる。


 その瞬間。


 視界に異様な影が映った。


 路地の奥。

 “赤い人影”が並んでいた。


 角。

 光を吸うような真っ暗な目、中心が赤く光る。

 そして、黒いジャージ。


「ストリート……デビルズ……」


 チンピラの声が震える。


「逃げ──」


 一人が注射器を踏んで転びながら、それでも走った。


 逃げ切れなかった一人に、悪魔の拳が飛ぶ。


 ドンッ!!


 吹き飛んだ。


 別の悪魔が無言でもう一人に叩き込む。


「ここオレらの縄張りじゃねえけどよ」


「オレらより悪いやつが暴れてんのは気に食わねえ」


 瞬く間に、数人のチンピラは意識を失っていた。


 チンピラのポケットからこぼれ落ちた小銭。

 それを悪魔が踏んだ。


 静寂の中、残ったのは、ウィーニーとデビルズ。


 悪魔の一人が前に出る。


 角が一際大きい。


 その悪魔が口を開く。


「……立ってんな」


 ウィーニーに近づく。


「殴られても倒れなかった」


 目が合った。


「お前、名前は?」


 悪魔が名前を聞いている。


 一瞬、息が詰まった。


「……ウィーニー」


 絞り出した小さな声。


 悪魔の口元が歪む。


「ウィーニーか……いいじゃねえか」


(悪魔に……名前を呼ばれた。いつぶりだろう)


 トン。

 トン。

 トン。

 トン。


 足音。


 ブーツの先をアスファルトに落とし、悪魔が音を鳴らす。


 空気が重くなる。呼吸が揃う。


(……なんだ、これ)


 心臓が、勝手にリズムを刻む。


────────────────────

YO──

オレはマイク 地獄育ちの体温

綺麗事じゃ測れねえこの体感

選ばれねえなら奪い取る番

選ばせる側に回れ それが鉄板


で、ウィーニー──

その目、weakじゃねえ むしろキー

その“Weeny”で上まで行く意味

winに変えりゃ全部ひっくり返る

we needな存在 ここで証明する

────────────────────


(……今、オレの名前で韻を……)


────────────────────

殴られても折れねえその根性

笑われても消えねえその炎、その本能

終わってるやつは、そもそも立ってねえ

ナメられてる時点で

まだ終わってねえ証拠


潰されてねえなら、まだ負けてねえ


立ってるだけで証明だろ

それだけで成立 存在証

────────────────────


(悪魔がラップしてる……変だ。明らかに)

(なのに──オレの中が熱い。耳が、胸が、燃えるように……熱い)


 ウィーニーの胸がざわめいた。


────────────────────

名もねえ路地裏 noネーム

それでも刻むこのゲーム


群れて吠えるだけの雑音は無視

一人で燃えるやつが道を刻む意志


“何者でもねえ”それが最強の位置

ゼロから全部奪う それがリアルリッチ


神は完成 動けねえ完成品

お前は未完成 だから可能性


感性で動け

歓声に変えろ

────────────────────


 何者でもねえのが最強の位置……


 ウィーニーの中で、何かが騒ぎ始めた。


 視界が揺れる。


 悪魔が最後のリリックを言い放つ。


────────────────────

まさか神なんかじゃねえだろ その顔で

だったら何だ 説明してみろその衝動で


選ばれてねえ? それがどうした


選ばれてねえ? じゃあ選ばせろ今ここで


立ってるだけで証明だろ

見えてるか? お前を照らす照明

折れねえ炎 消えねえ鼓動


名前は奪うもんだ 覚えとけ

渡されるもんじゃねえ 奪って残せ

────────────────────


 静寂の中、風が戻る。


 マイクと名乗った悪魔が背を向ける。


「おい、おめえら、行くぞ」


 マイクの言葉とともにデビルズが去る。


 その背中は、圧倒的に“自由だった”。


 悪魔。

 誰にも従っていない。

 どこにも属していない。


 去り際にマイクが呟いた。


「その名前、捨てんなよ」


 一瞬だけ振り向く。


「磨け」


 そして、悪魔の集団はウィーニーの前から消えた。


 ウィーニーは立ち尽くす。


「……なんだよ、今の」


 意味はわからない。


 でも。


「クソかっけえ……」


 拳を握る。


 心は折れていない。


 ウィーニーは顔を上げた。


「……オレは誰でもねえ。オレはまだ──」


 そして一歩を踏み出した。


「……路地裏のウィーニーだ」


古びたアパートの扉を押し開ける。


 ギィ、と嫌な音が鳴った。


 部屋には湿った空気。

 カビと油の混ざった臭い。


 薄い壁。隣の生活音が、そのまま流れ込んでくる。


 ウィーニーは床に座る。


 しばらく、何もせず天井を見ていた。


「……」


 さっきの音が、まだ頭の中で鳴っている。


 トン。

 トン。

 トン。

 トン。


 気づけば、指で床を叩いていた。


「……YO……」


 声が出る。


「オレはウィーニー……路地裏のウィーニー……」


 喉が詰まる。


「……」


 言葉が続かない。顔が熱い。


「……ダッセ」


 自分で言って、自分で笑った。


 でも──もう一度。


「YO……オレは、ウィーニー。路地裏のウィーニー……便所掃除、チンピラにやられる……帰るボロアパート……」


 段々と声が小さくなっていく。


「ダメだ……オレには……」


 その時、マイクのパンチラインが頭を過ぎる。


 ── 何者でもねえのが最強の位置


 胸の奥が、まだ熱かった。


 消えてない。


 消えてないなら──やるしかねえ。


 ──ここから、全部ひっくり返す。

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