1章:第17話 幕外の出来事④
第三王子領の領主館、民衆からは陰で悪魔城と揶揄される『超神域美麗空間』。
王子のものとはいえ住居と呼ぶにはあまりにも広大な敷地は、実に領地面積の六分の一を占めている。広さだけなら王城にも勝るその土地は、元々はアヴィーレ伯爵家とそれに連なる分家や、派閥に所属する領地を持たない下級貴族などが住まう街だった。それをリーニェが取りつぶし、接収したのだ。
その手段も悪辣で、『王族と関わるのだから』と強引に身辺調査を行い、ありもしない不正や犯罪をでっちあげて貴族位と土地の権利を剥奪する、というものだった。しかも証拠となるのは『万声呼応』で翻訳された動植物の証言のみ。ただの言いがかりであるのは火を見るより明らかで、アヴィーレ伯爵家もさすがに抵抗しようとしたが、文明の全てを宿呪に依存した歪な社会構造が、王位継承の資格を持つ血の希少性を楯にした暴挙を許してしまった。
結果、かつては王国一の宝石産出地として栄え、その象徴として羨まれた煌びやかな貴族街は、意味不明なオブジェや原型を留めないほど美化された第三王子の巨像が立ち並ぶ、悪魔城へと変貌を遂げてしまった。
そんな領主館の一角。
無計画に接収されたものの使用用途もなく放置され、廃墟と化してしまったかつての貴族邸が建ち並ぶ『中庭』。その隅に、比較的新しい別館である『薔薇百合の館』はあった。
全体的にリーニェの悪趣味が蔓延している本館や、彼のコレクションを収めるために建てられた他の別館に比べて、もはや異世界の建造物に見えるほど質素な外観だ。不必要な広さはなく、装飾と呼べるものもほとんどない。だが、質素ではあるものの普通ではなかった。ただの邸宅にはない様々な特徴が『薔薇百合の館』にはあった。
「……案内できない? なぜです?」
特徴の一つである、まるで最前線の城砦のように重厚な造りをした『薔薇百合の館』の扉の前で、スヴェトは苛立ちを隠そうともせずに言い放った。
「はっ、申し訳ありません! ご主人様は現在、午後からの予定のために準備をなされている最中でして、今しばらくお待ち頂きたく……」
「スヴェトから一刻を争う緊急の要件だ、とお伝え頂きたい」
執事服を身につけていても、彼は歴とした上級貴族である。冷然とした瞳で睨まれた騎士は薔薇の意匠が彫られた鎧の奥で身を震わせながらも、扉の番人としての役目を果たそうと姿勢を正す。
「し、しかし! 予定というのはリーニェ殿下との会食であります! これに対する準備は最優先事項であり、いかなる理由があろうと、決して邪魔をしてはならないと―――」
「……失礼ですが、あなたは新人ですか?」
「は、はっ!? いえ、その自分は―――」
「答えなくていいですよ。真面目だというのは評価できますが……いいですか? 私は第三王子付きの執事長です。本日の会食についても私が時間や料理を手配しているわけです。その私が、最優先の会食前に、緊急事態の報告をしに来ているんです。意味がわかりませんか?」
「いえ、あの……はい」
「私の要件はあなたのご主人様にとって、これ以上無いほど重要なことです。分かったなら、それを伝えに走って頂けますか?」
「わ、わ、分かりました」
騎士は、一言発するごとに鋭く冷たくなっていくスヴェトの視線に耐えかねるように頷くと、踵を返して扉に手を掛ける。
しかしその手を引くことも押すこともせず、数秒の間を空けて、ゆっくりと振り返る。
「あのー、念のため『薔薇百合の館』におけるルールだけでも確認をさせて頂きたく……」
その言葉にスヴェトは応答しなかった。ただ目だけで「そんな事は知っているから早くしろ」と伝えると、急かすように顎をしゃくった。
騎士はまるで任務に失敗でもしたかのように項垂れながら扉を開き、中へと入っていく。ややあって、入館の許可が降りたことを告げに戻ってくると、そのまま館の中へスヴェトを案内する。
『薔薇百合の館』は、公的な場としては利用されない私邸である。個人の邸宅であり、外部の人間を招くようには造られていないので、応接間などはない。スヴェトが通されたのはエントランスから直に繋がるリビングルームだった。名前の由来でもある花の香りが鼻孔をくすぐる。
―――相変わらず、気色の悪い館だな。
リビングルームは、昼間だというのにやけに薄暗かった。窓際に置かれた巨大なぬいぐるみが日光を遮っているせいだ。そこだけでなく、部屋中の至る所にぬいぐるみや人形などといった玩具が散乱している。
足の踏み場にも困る中で、壁際には護衛の騎士と世話係のメイドが2人ずつ、自身も人形の一体であるかのように微動だにせず直立していた。ドローワやナギとは管轄の違う、この館の主人直属の部下たちだ。
メイドがいるのなら部屋を片付けても良さそうなものだが、実はこの状況そのものが主人の趣味であり、一見散らかっている玩具たちも厳しいルールの上で配置されている。
―――確か、精霊に見立てた人形の位置と色合いで部屋の中に運気を呼び込む陣を描く、んだったか?
スヴェトが今立っているのも、一見するとたまたま物が無いだけの“足の踏み場”に見えるが、案内された騎士から来訪者用の立ち位置として指示された場所だった。他にもスペースは存在するが、そちらに足を踏み入れて陣を崩そうものなら、控えている騎士たちに剣を向けられることだろう。
―――占いか。あまり傾倒されるとまずいかもしれないな。今までは無かったけど、こうも計画が上手くいかないと厄介なことを言い出しそうだ。
そんなことを考えながら、改めて部屋の中を見回す。
目的である館の主人の姿はない。スヴェトから見て正面にある扉の向こう、彼女の寝室に当たる部屋から複数の人間の声がする。会食の準備中だと聞いていたので、着替えや化粧をしているのだろうと思ったが、それにしては男の声も混じっていた。
―――まさか……。
それが意味するところに気がついて、スヴェトは心の内で顔をしかめた。よく見れば、騎士とメイドが並ぶ壁際には、あと数人分のスペースがある。
ある意味、彼自身の失態だった。緊急の用件であることを楯に取り、相手の状況を確認せずに押し入るようなことをした。そういえば、案内の騎士にはどことなく時間を稼ぐようなそぶりがあった。
―――そういうことならもっとしっかりやってくれよ……。
執務室のことで焦っていたのかもしれない。
スヴェトはを顔を伏せ、ルイラの呆れ顔を思い出て落ち着きを取り戻す。部屋に控える者たちに悟られないよう静かに深呼吸をした。
「お待たせしました」
鈴のような声に、スヴェトは伏せていた目線を上げる。
正面の扉が開き、この館の主―――第三王子妃レイレ・スゥ・アンザスが姿を表した。
薄暗い室内の僅かな日光でも充分に輝く空色の髪。白く瑞々しい肌は赤子と見間違うほどで、ほんのり朱の差した頬とあわせて実年齢よりもかなり低く見える。知らぬ者が見れば少女と断じるだろう彼女が、今年で28になるらしいと聞いた時にはスヴェトも目を疑ったものだ。
「このような格好で申し訳ありません。なにぶん、急なことでしたので準備ができておらず……」
恥じらうような声色とは裏腹に、レイレの浮かべている笑みは蠱惑的だった。
黄金比の肢体が纏っているのは薄手のタオル一枚で、彼女の緩やかな身体の起伏を浮き上がらせている。太ももから露わになっている脚は水を玉にして弾きそうな張りがあり、並の男なら指を沈ませる感触を想像して表情を弛めるだろう。熟した女の表情と少女の肉体を合わせ持つ彼女には、目を奪う魅力が詰まっていた。
急ぐように言ったのはスヴェトだとはいえ、いくらなんでも適当な服を着るくらいの時間はあったはずだ。彼女がこんな格好なのはわざとなのだろう。
加えて、レイレの後ろから髪や服装が乱れた男女が現れる。全員が頬を上気させ、先ほどまで寝室で何が行われていたのかを察するには充分な様子だ。レイレとの時間を邪魔されたことが腹立たしいのか、はたまた主人のあられもない姿を見せたくないのか、彼らはスヴェトに気がつくときつく睨み上げ、騎士とメイドの並びへ加わっていく。
しかし、それを正面から見据えるスヴェトには一切の変化がなかった。
レイレから目を逸らさず、熱心でも冷淡でもないフラットな感情を微笑みで表しながら、貴族としての礼を取って「こちらこそ、突然お訪ねしまして申し訳ありません」と腰を折った。
その、余裕とも取れる所作にレイレが細い眉を動かす。
彼女の格好は、アポ無しで訪れた上に面会を急かした事に対する意趣返しだったのだろう。
しかし、本当に緊急事態なのだ。嫌みや皮肉にいちいち応対している暇はない。
「お取り込み中のところを心苦しいのですが、なにぶん早急に報告をすべきかと思いまして」
余計なやりとりはせずにスヴェトは表情を引き締めて本題に入る。レイレもそれ以上何か言うこともなく、そのままの格好で部屋の中央にある人形まみれのソファーに腰を沈めた。
「一体何があったの?」
「リーニェの記憶喪失についてはご存じかと思いますが……どうやら、単に記憶を失っただけではないようなのです」
「どういうこと?」
「順を追って説明いたします」
スヴェトは執務室で起こったことを、可能な限り自分の感情を交えずに語った。
毒を飲ませる以前との乖離。口調や発言内容、所作などといった部分に変化があるのは、ある程度なら記憶喪失だと言われれば納得できる。治療士であるオーラン司祭からも事前にそのような説明がされていた。
しかし、執務室に入ってから―――正確には、『自分をどう思うか』という質問をし始めてからは明らかに様子が変だった。食堂での様子や、暗殺事件について質問されていた時と比べても無視できない差異がある。
もっと言えば、ショウが宿呪を使ってリーニェを襲ってからも、それまでとは様子が違った。喜怒哀楽のような感情の差というよりは、人が違うと表現した方がいいような変化だ。
食堂や廊下では、見知らぬ人や場所に警戒する小市民のようで。
自分について質問した際は、腹が立つほど立派な王子のようで。
ショウと対峙している時は、覚悟を決めた一流の戦士のようだった。
それらは全てスヴェトの感じた印象に過ぎない。だが、記憶喪失の一言で片付けられるようなものではないのも確かだ。
スヴェトは最初、その違和感を『第三の人物』の影であると捉えていた。何者かが記憶を失ったリーニェを操ろうとしているのではないか、と考えたのだ。
しかし、その考えはショウへの対応を見て打ち砕かれた。自ら喉を突き、血まみれになって、気絶する瞬間まで気を吐き続け、最後にはショウの心を折ってしまった。他人に操られている者が成せることではない。
だとすれば、リーニェに一体何があったのか。
スヴェトは考え、結論に至った。
「……替え玉、ですか……?」
「はい。あくまでも、僕の推測で確証はありませんが」
あれはリーニェではない。
そう考えれば辻褄が合う。
「リーニェ本人はあの毒で死んでいた。我々が見たのは、恐らく円卓の連中がすり替えた別人だと思われます」
「でも、リーニェ様が毒で伏せてから回復までは三日でしょう? そんな期間で都合良く替え玉を用意できるかしら」
「事前に用意していたんでしょう。彼らの地位は第三王子ありきのものです。保険を用意しておくぐらいは不思議じゃない」
「そんなこと、上手くいくでしょうか……?」
「どうでしょう。実際、リーニェの身体的特徴を細かく把握している人間など多くはない。特に我々はアレの顔をなるべく見ないようにしていたくらいです。あれだけ肥えていれば、骨格や細かい顔の特徴もごまかせる。髪の色はいくらでも変えられますし、時間をかければ不可能ではない、と思います」
スヴェト自身、荒唐無稽な話だとは思う。天呪教の根深いアンザス王国において、王族を偽装するなどは歴史上で一度もない犯罪だ。場合によっては暗殺などよりもよほど罪深い行いだろう。本人や親類だけでなく、親しい友人や恋人なども磔刑にされかねない大罪だ。
それほどのリスクを、金や地位に固執する程度の円卓たちに背負えるか?
考えると微妙なところではある。
しかし、そうでもなければリーニェの変化は説明がつかないのも事実だ。
それに根拠はもう一つある。
「唯一代えのきかない宿呪も、リーニェの『万声呼応』は『言葉の通じない種族とも意思疎通ができる』という、他の人間には検証しづらく、協力者がいれば偽装が難しくなさそうなものです。日常生活や国の行事でも使われることはほとんどない。考えてみれば、これほど替え玉の対象として都合のいい王族は他にいません」
「確かにそうですが……でも、ずっと騙し通せるものではないでしょう? 『顕現』を使って精霊の目で確認でもされればごまかせないでしょうし、それこそ国王様なら一目見ただけで分かってしまうことですわ。やはりリスクに見合うとは思えませんが……」
「それはそうですね。……もしかすると、リーニェ本人はどこかで生きているのかもしれない。今の替え玉は、完治させるまでの時間稼ぎなのかもしれません」
「そうだとしたら、替え玉の行動は元のリーニェ様になぞらえるはずですわ。貴方の言う、人が変わったような言動を取るとは思えません」
これは、レイレの言うとおりだった。あのリーニェは、替え玉として見ると矛盾した行動をしている。自分の仮説に自信があったスヴェトは顎に手を当てて考え込む。
「……そこまでですか? 確かに、お目覚めになられた時のご様子は、リーニェ様とは別人のようでしたけれど……」
これまでの暗殺計画は、協力者であるスヴェトの功績が最も大きい。
ヒドラ毒の入手から、ルイラやショウなど必要な人材の斡旋、ドローワたち円卓への牽制、暗殺成功後にレイレへ領主権を移行する根回しなどを同時にこなし、家令の失敗で暗殺が露見した時には、瞬時に体制を整えて計画を続行させて見せた。そんな彼の手腕と頭脳を、レイレたち旧領主派は全面的に信頼している。
そのスヴェトがここまでこだわるのだ。
執務室でのリーニェを見ていないレイレも、半信半疑ながら信じるつもりになったらしい。一度目を伏せると、壁際で直立する騎士に顔を向ける。
「1号。申し訳ないんだけど、ゲルドを呼んできてもらえます?」
騎士は機械のように敬礼すると、風のように部屋を出て行く。足下の人形やぬいぐるみを避けながら走るので、傍目から見ると不器用なダンスを踊っているかのようだった。レイレが口元に手を当ててくすくすと笑っている。
スヴェトは自分が出て行く時は気をつけようと思いつつ、真意を計るようにレイレへ視線を送る。
「貴方の推測が確かなら、円卓の連中への致命打になりうるわ。リーニェ様がすでに死んでいるのならよし。瀕死の状態でも治療を止めてしまえばいい。それで、かの『黄金卿』を招いてリーニェ様暗殺の罪をなすりつける……なんて大博打を打つ必要がなくなるのなら、確かめる価値はあるでしょう。もちろん、方法は考えているんですよね?」
「はい。あのリーニェ……“替え玉の宿呪が『万声呼応』かどうか”を確かめる術があります。それで証明できるはずです」
「でしたら、やりましょう。本当に替え玉だとしたら、向こうは相当抵抗してくるはず。最悪、ドローワと事を構えることになるかもしれません」
「それで、ゲルド殿を?」
スヴェトは声に混ざる懸念を隠さなかった。レイレはそれを正確に読み取り、優雅に笑う。
「一度は恥を晒した愚弟ですが……二度同じ相手、それも下民に負かされるような無能ではありませんわ。貴方にはいいところを見せていませんでしたけれど、あれでも伊達に護衛騎士の団長を務めていたわけではないんですよ?」
「しかし、護衛騎士団にはドローワだけでなく『七霊』も居ます。あれと武力でやり合うのは流石に……」
「アンネリーゼ様ですか。彼女については、私がなんとかしますわ」
スヴェトは今度こそ目を見開いた。
「あら。驚かないで下さい。別に野蛮に戦おうというわけではないんですよ?」
レイレはタオル一枚で隠された肢体をくねらせ、悩ましげに脚を組み替える。
「あの娘からは、同士の匂いがするんです。開くのを待っている蕾みの香りが……もしかしたら、こちらの味方になってくれるかもしれませんよ?」
少女の美貌から漏れる艶を含んだ吐息に、壁際のメイドたちが恍惚としている。
言葉の意味を理解したスヴェトは顔をしかめるのをなんとかこらえ、「それは頼もしい限りです」と軽く苦笑してみせた。
「ご主人様! ゲルド様をお連れ致しました!」
しばらくして、部屋の外から1号と呼ばれた騎士の声が響く。
レイレが手で合図し、別の騎士が扉を開け、その男が室内に足を踏み入れた。
海のように深く青い髪。
引き締まった筋骨隆々の体格。
見る者に好感を与える爽やかな笑顔は自信に満ち、立派な鎧を鳴らしながら威風堂々と歩く姿は強者の風格を充分に備えていた。
「待たせたな、姉ちゃん! スヴェト!!」
歳はスヴェトよりも少し上、24か5くらいだろう。外見を裏切らない溌溂とした声を出すと、スヴェトの肩を音が鳴るほどの勢いで叩く。
「エルヘンの爺さんから聞いたぜ! リーニェの野郎、めちゃくちゃやったんだってな!? 俺も現場に居たかったぜ!!」
「……ええ、まあ」
「しかも記憶喪失になって、どえらい変わりようなんだってな! 殿下は名君になったのでは!? なんて若い書記官が感化されちまってるって爺さんが嘆いてたぞ! こりゃ、いっそ暗殺なんて止めて、様子見してみたらどうだ!?」
大笑いしながらそんなことを言うゲルドの手を、スヴェトはその細腕からは想像できないほどの力で握り締めた。今の言葉は、彼にとって聞き流せるものではない。
「ゲルド殿。血迷われましたか? リーニェがあなたの両親をどのように辱めたのか、もうお忘れになったので?」
「む……」
「それにオーラン司祭が言っていたでしょう。記憶喪失とは治るものである、と。仮に、本当にヤツが記憶喪失だったとして、何かの拍子に善良な振る舞いをしていたとしても―――そんなものは幻ですよ。心を許すなんてとんでもない」
スヴェトが放つ殺気は、僅かながらに発現した宿呪の風となって室内を駆け抜けた。
彼の心を表すように冷え切った風精霊が体温を急速に奪い、壁際に並ぶメイドや騎士たちが身震いする。
それでもゲルドは自信の笑顔を崩さず、しかしその瞳が獣の光を帯び始める。今度は彼の周囲が陽炎のようにゆらめき始め、室内の温度が上がっていく。
「―――ゲルド」
そこに、艶やかな声が響いた。
「あんだよ姉ちゃん、今いいとこ―――」
「あなた、どこに立っているのかしら?」
「え?」
途端、ゲルドは素っ頓狂な声を上げて足下を見る。
黄色い熊のぬいぐるみが、鎧の具足に潰されて形を変えていた。
「あっ」
「おしおき、ね?」
「だあああああああッ!? ごめん! 姉ちゃん!!」
「ダメよ。水車、二時間ね」
「いやだあああああああああ!! 助けてスヴェト!」
獣の笑みから一転、本当に涙を流してすがりつくゲルドにスヴェトは毒気を抜かれ、無意識に発動していた宿呪を解く。
―――危ないところだった。
ここでゲルドと諍いを起こすことにプラスの要素は一つもない。
執務室でリーニェの変化を見せられてから、どうにも感情を制御できていない時がある。
それを自覚し、止めてくれたレイレに感謝しつつ、スヴェトはもう一度呆れ顔のルイラを思い出して心を落ち着ける。
「……レイレ様。ゲルド殿への罰は後ほどにお願いします。今は、一刻も早く今後の打ち合わせをしなくては」
「その通りですね。―――ほら、ゲルド。きちんと話を聞きなさい。良い子にできたら罰の内容を考えてあげるから」
「マジか!? よっしゃ聞くぜ!」
スヴェトは苦笑しつつ、先ほどレイレにも語った内容を話し始める。ゲルドは最年長の書記官であるエルヘンから執務室で起きたことのあらましは聞いているようだったので、替え玉の推測のみを説明した。
「……はー……。お前、凄いこと考えんな。思いつきもしなかったぜ。やっぱ頭いいわ」
レイレに言われた通り大人しくしていたゲルドは、聞き終えると少年のような目をしてスヴェトのことを褒めた。良くも悪くも裏表の無い様子に苦笑しつつ「ありがとうございます」とだけ言っておく。
「それで。結局、替え玉を証明するにはどうするのですか?」
「宿呪を使います。この国の王族が持つ宿呪は、国王の証として継承される『万霊創造』以外は全て唯一無二のもの。これだけは、どんな替え玉を用意しても模倣できません」
「でも……それは偽装が難しくない、という話ではありませんでしたか?」
「ええ。リーニェの『万声呼応』は他の王族とは違って本人にしか影響が出ませんから」
例えば、適当な動物を用意して「これに命令てみろ」と言っても、「命令はしたけど言うことを聞かない」とでも言われればそれを完全には否定できないし、最悪『調教』の宿呪を持つ獣人でも使えばいくらでも命令を聞かせることができる。
他の方法も、結局第三者が『万声呼応』と同じように意思疎通できなければ完全な証明はできない。
「では、どうするのですか?」
「今回、執務室で事件を起こしたショウですが……」
スヴェトはわずかに顔をしかめる。
「彼の妹が、特殊な『調教』の宿呪を持っています」
「特殊、ですか」
「はい。本来の『調教』は、鞭や笛などの道具を介して特定の魔獣を洗脳し、操るというものですが―――」
ショウがあれほど守りたがっていた妹を表舞台に上げるのは抵抗があった。当然危険を伴う役割になる。
しかし、これが上手くいけば彼らを解放できる。その思いで、スヴェトは罪悪感を断ち切る。
「―――その娘、シュナは『憑依調教』。つまり魔獣そのものに自分の意識を乗り移らせて、身体を自由に操ることができるそうです。もちろん、その魔獣が持つ宿呪も自由に使うことができるし、感覚も共有できる、と」
「なるほど、つまり……こういうことですか。シュナにあらかじめこちらが指定した言葉を魔獣の言語で話させて、それを今のリーニェ様が理解できるかどうか、という実験を行う。その結果をもって替え玉かどうかを証明する……」
「そうですね。第三者が参加する公的な場を整えれば、王都で裁判を行う際に証拠にできるでしょう」
「……なるほど。それなら、偽装の余地はなさそうですね……。方法に関しては検討が必要でしょうが、現実的ですわ」
レイレはすでに『公的な場』をどう設置するかを考えているようだった。
ゲルドも腕を組みながら難しい顔で唸っている。
「証人となる第三者の選定、シュナに憑依させる魔獣の確保、映像や音声を記録するドワーフの錬成品も必要ですわ。後は場所をどうするか……」
「この際です、証人はサウロフ都市伯にやってもらいましょう。領外の人間の方が証拠能力が高くなりますし、彼なら王都での発言力もありますから」
「『黄金卿』ですか……不安ですね。それに乗じて何か仕掛けて来そうですわ」
「その辺りは僕にお任せください。上手く誘導してみせます。言わせる言葉もサウロフ都市伯に決めてもらった方がいいでしょう」
「それから、実験の名目も必要ですわね。万が一替え玉が証明できなかった場合、逆に私たちにとっての致命的な一撃になりかねませんから」
「それでしたら、リーニェの快復を記念したパーティーでも開いて、デモンストレーションの形をとりましょう」
「なるほど……では―――」
スヴェトとレイレが話を詰めていく中、一人でうんうんと唸っていたゲルドが、突然「あああああッ!!」と叫んで指を鳴らした。
そのあまりの音量に、二人の肩が跳ねる。
「なっ、なんですか! びっくりするでしょう!?」
「いや、思い出したんだよ! 俺、姉ちゃんに報告することがあったんだ!」
「……それ、今言うことですの?」
「その調教の宿呪ってのを聞いて思い出したんだって! ほら、姉ちゃんに言われてドローワの派閥に一人潜り込ませただろ? スヴェトが連れてきた暗殺者を、騎士見習いっつってさ!」
「……まさか、なにか情報を持って帰って来たんじゃないでしょうね……」
「いやそーなんだよ! そいつが言うには、護衛騎士が今朝から、記憶に干渉できる魔獣と、それを使役できる『調教』持ちの獣人を探してるんだって! 記憶喪失の治療のために!」
「まさか……」
スヴェトの背中に嫌な予感が震えとなって駆け抜ける。
執務室の前で分かれたドローワの顔が脳裏を過ぎった。
「そう! それでさっき、円卓のなんだかってヤツが領主館に着いたらしくてよ! リーニェの奴隷の中にそういう獣人がいるんじゃねぇかって、でも獣人だけで300人くらいいるから、調べるのに人手が必要で、そいつのところにも声が掛かったって話でよ……」
「げっ……ゲルド! この愚弟!! なんでさっさと言わないんですか!」
「いや、それと同時にエルヘンの爺さんが来て、そっちも重要そうな話だったから……んで、聞き終わったくらいにここに呼ばれたからさ……」
「愚弟!!」
「言い争っている場合じゃありませんよ! ゲルドさん、すぐに人数を連れて奴隷部屋へ向かって下さい! 彼女を保護するんです!」
「ああ!」
ゲルドは床の人形たちを蹴散らしながら扉へ向かう。
そしてドアノブに手を掛けたところで振り返った。
「って、そのシュナって獣人はどんな娘だ!? 何族!?」
「犬族です! 特徴は―――」
スヴェトは、ショウから聞いた妹の話を必死に思い出す。
「―――耳は垂れていて、黒のブチ模様! 同年代と比べて体が大きくて、声が綺麗で、フルネームはシュナ・アッシュフォード! それから……そう! 奴隷仲間から妙なあだ名で呼ばれているそうです!」
確実に保護できるよう、少しでも多くの情報を与えようと、思いついたことを矢継ぎ早に話す。
「確か家名をもじって、アッシと! そう言えば、他の奴隷に教えて貰えるかもしれません! お願いします!」
了解、と親指を上げ、ゲルドが部屋を飛び出していく。
めちゃくちゃになった占いの陣を見つめて、レイレが大きくため息を吐いた。




