1章:第13話 役名:『第三王子』③
『ヤバイぜ姉御、あの犬っころ殺る気だ!』
頭に直接流れる精霊の声をアンネリーゼは聞き流した。
視線の先で獣人の書記官が咆哮する。叩きつけるような怒りだった。
膨れ上がる筋肉が燕尾服を引き裂き、肌は獣毛に覆われていく。尖った口と鋭利な牙、太い爪はナイフのようで、瞳が憎悪によって燃えるように血走っていた。
リーニェとの間に立っていた騎士が身構えるよりも早く、書記官はたった一歩で距離を詰める。
でたらめに振り回した腕に当たり、鎧を着こんだ大の大人が二人、紙くずのように宙を舞った。
宿呪『狼身転化』。
集団戦でこそ人間に大きく劣り、王国では隷属種族として扱われる獣人だが―――その実、体力や腕力の面では龍族に次ぎ、種族の大半が持つ『転化』の宿呪を発動させれば、格闘戦において無類の強さを発揮する。
戦闘訓練など受けていないだろう書記官でさえ、宿呪を一方的に発動させれば護衛騎士を打ち倒せるのだ。
最も、これは任務中だというのに気を抜いていた騎士たちが悪い。
ドローワが精鋭を付けたと言っていたのは、どうやらリーニェを安心させるための方便だったようだ。
ふぅ、と安堵の溜め息がアンネリーゼの口からもれる。
「殿下!」
アンネリーゼの背後で、残りの騎士がようやく宿呪を発動する。
『火霊掌握』と『鉄霊掌握』。一瞬のうちに二人の騎士が赤い火炎と黒い鉄粉に包まれた。彼らの両手の平に顕れた精霊が、鎧や武具に刻まれた模様―――『霊導紋』を伝っていく。
火霊の騎士の腰にあった小剣が、鞘から抜くと同時に炎を纏って大剣となる。鉄霊の騎士は籠手と具足が何倍にも肥大化し、ゴーレムのような姿になった。
一度宿呪を使ってしまえば、火霊の剣は獣人の体を焼き切るのに容易いし、爪も牙も鉄霊の籠手を貫くことはできない。戦士ならいざ知らず、素人書記官が護衛騎士に敵う道理などありはしない。
だが。
「やめろ! 動くんじゃねぇッ!! 動いたら掻ッ切るぞ!」
狼の爪は、すでにリーニェの喉元に突き付けられていた。獣人の膂力なら、あとは指を曲げるだけで動脈を抉れるだろう。背後の騎士たちが動きを止める。
決して、どうにも出来ない距離ではなかった。
腕の立つ自然呪使い―――例えばドローワであれば、あの書記官が気づきもしない内に昏倒させるくらいは軽くやってのけるはずだ。宿呪の質や精霊の属性に関係なく、技量さえあれば手段はいくらでもある。
―――ま、『霊導紋』入りの装備に頼ってる時点でたかが知れてるけどね……。
アンネリーゼが名前も知らない騎士などこの程度のものだ。
恐らく、警護自体は彼女頼りで、後の四人は数合わせの新人なのだろう。
『よぉ姉御! 俺を使ってくれよ、あんな犬っころ一瞬で始末してやっからよ!』
『おい。貴様は先週暴れたばかりだろ。次は俺だ』
『いんやー、鈍足の銀さんじゃーデブが死ぬっしょ。ここはひとつ飛ばしで、あたしに』
『スピードだったら俺だろーが!? なぁ姉御!』
『もういっそぉ、みんなで出てったらぁ、いいんじゃないでしょうかぁ?』
アンネリーゼの気も知らず、頭の中で精霊たちがわめいている。
第三王子領へ移って以来、彼らは運動不足だと訴えるようになっていた。国境に面していない辺境など、基本的には平和そのものだからだ。週に一度は龍族の領域へ転移して知り合いと喧嘩をさせているが、それでもこういったチャンスを見ると暴れたがる。
―――うるさいわね。あんな素人まで相手にしたいわけ? 精霊として恥ずかしくないの。
皮肉を込めて言ったつもりだったが、逆に彼らをヒートアップさせることになってしまう。
このまま騒がせると眠っている者たちまで起き出しかねないので、アンネリーゼは回線を一方的に遮断した。
「ったく……」
あの書記官を押さえるのは、正直容易い。爪が動脈に触れてから宿呪を発動しても、血管を傷つける前に拘束できるだろう。故に、今この場でアンネリーゼが動かないのは別の理由からだった。
―――アイツ、シュナのお兄ちゃんよね……。よりにもよって。
仲良くしている獣人少女の顔が思い浮かぶ。
シュナは、最近補充された性奴隷の一人だ。奴隷とは思えないほど勝気で、頭の回転が速い娘だった。他の獣人にはない独特の価値観を持ち、アンネリーゼとは性格のウマも合って、お互いの身の上話をする程度の仲である。
故に、全く面識はないものの、彼女の兄については一方的に知っている。
―――どうしよ。
シュナの兄自体は、アンネリーゼ個人にとってどうでもいい人物である。
しかし、奴隷として売られたシュナを追って自ら第三王子領へやってきたという彼は、シュナの心の支えでもあるようだった。
皆から疎まれるクズとはいえ、第三王子に手を出したのだからタダでは済まない。アンネリーゼのように高位の貴族家だったならまだしも、爵位さえ持たない獣人なら良くて磔刑、悪ければ家族もろとも処罰される。その時、奴隷の身分である妹がどうなるかは、考えるまでもない。
―――やっぱ、助けないとマズイか。いやでも……。
かといって、ここでシュナの兄に手を貸せば、さすがにアンネリーゼの立場が危うい。もう一度王家に盾突けば、今度こそ処刑される。
万一を考えて、国外に逃亡する手段はすでに用意してある。シュナとシュナの兄を連れて行くことだって、その気になれば可能だろう。
だがそれは、本当の本当に最後の手段だ。
使えばもう、後戻りできない。『七霊』の亡命は、間違いなく戦争の火種になる。最悪の場合、自分の手で家族や故郷を焼き払うことになるだろう。そのくらいの覚悟が必要だ。
―――無理だわ。いくらなんでもそんなリスクは犯せない……ったく……!
考えなしに行動を起こしたシュナの兄へ怒りが沸く。
国王に敗北して以来、考え過ぎてしまう自分にも。
昔のアンネリーゼであれば、友人のために迷うことなく無茶ができたはずだ。自分が最強であるという傲慢が自由をくれていた。
しかし、今は違う。自分より強い存在を知ってしまい、怯えを学習した彼女には、リーニェやドローワの顔色を伺いながら、許される範囲で虚勢を張ることしかできなくなっていた。
結局、今のアンネリーゼにできることと言えば、何もせずに立っているだけだった。
そして、彼女以外に状況を動かせる者もいない。
スヴェトは顔面蒼白で汗だくになり、懸命に頭を回している様子だ。ナギや他の書記官たちは存在感を消そうと必死になっている。騎士たちが送る「どうにかしてくれ」という視線がアンンセリーゼの背中に刺さっていた。
シュナの兄は時間が経つにつれ、自分の愚行に理解が追い付き始めたようだ。リーニェに突き付けている爪がガタガタと震え、表情が読みづらい『転化』の姿でも、狼狽しているのがはっきり伝わってくる。
そして、捕らわれているリーニェは―――
「返せ、とはどういう意味かね」
ただ一人、芯の通った立ち姿で声を張る。
王族ゆえに戦闘的な宿呪を持たず、防具の一切を纏わない身でありながら、急所である首動脈をむしろ押し付けるように胸を張り、怯えも震えも動揺も感じさせない声色で、はっきりと。
「君のいう妹と言うのは、奴隷のことか? 今朝、僕の相手をするために買われたという少女たちに会った。その中に、君と似た耳の少女も居たが、彼女のことで間違いないのか。それとも、他に僕の知らない者がいるのか」
アンネリーゼの位置からでは、リーニェの表情は見えない。
だが、声に引き寄せられるように目線を動かしたシュナの兄が、リーニェの顔を見て変化を起こした。
「どうなんだ。君が言い出したことだぞ。答えたまえ」
震えが止まり、動揺が消える。
一度目を合わせただけで、シュナの兄が落ち着いたのが分かった。表情から憎悪の色は消えていない。むしろ、動揺が消えた分濃くなっている。
だが、錯乱に近かった先ほどと比べて、リーニェの問に応じようという姿勢が見られた。
―――ウソ。
アンネリーゼが驚愕に目を見開く。
「お……俺の……俺の妹は、そうだ。お前の奴隷だ。三か月前、村から無理矢理連れていかれた!」
「無理矢理……そうか。名前は?」
「シュナだ! お前は覚えちゃいないだろうが―――」
「彼女のもそうだが、君のも教えろ。僕たちは話し合いをしているんだぞ」
「ッ!? だれが! 誰がお前なんかと話し合うことなんかないッ!」
「だったら今すぐ僕を殺せ。それで妹が返ってくると、本気でそう思うならこうなる前にやるべきだった」
再びヒートアップしかけたシュナの兄が言葉に詰まる。
やがて、悪態を吐くように目を逸らしながら、「ショウ」と名乗った。
「よし、ショウ。僕のことは好きに呼んでいい。何度も言うが僕は記憶喪失だ。知っていることに偏りがあるのは大目に見ろ。その上で、少し聞くんだ」
リーニェは、そう前置きをして今朝のことを語り始めた。
朝の伽を断ったところから、奴隷の人身売買についてをルイラに教わったところまで。
「僕が聞いたところによると、一度売られた者は両親の元に返しても再び売りに出されるだけだという。しかも、『中古』となった者はまともな扱いを受けないとも聞いた。その上で確認するが―――」
リーニェが一歩前に出る。
狼の太い爪が喉元に食い込むのも気にせず、言った。
「―――返せ、というのはどういう意味かね」
声には怒気が含まれているようだった。
身体能力において常人に劣るリーニェが、『転化』した獣人に力で勝る道理はない。
それでも、膂力以外の何かに押されてショウが一歩下がるのを、執務室に居る全員が見た。
もはや、騎士にも書記官にも執事長にも最強の騎士にも、固唾を呑むしか選択肢はない。
アンネリーゼの両腕に、いつの間にか鳥肌が立っていた。




