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涙の海  作者: 黒米 紅子
涙の海への招待
9/30

波間

ボコの真横まで手を引いて来たアンちゃんは 


澪の手を離すとクルリと回りお辞儀をした。


「ようこそ涙の海へ」


ボコは「ボア~」と柔らかく鳴き、

ゆっくりと身体を低くする。


「涙の…海」


さっきまではゼリーだった。


今は空気のような海…


澪は確かめるように、

手のひらで自分の周りを掻いてみる。


「夢…じゃない」


突っ立ったままの澪の背を


そっと押す。


目の前には大きな甲羅。背のソリ。


「どうやって?登るの?」


アンちゃんは、澪の手を握ったままフワっと舞い上がった。


「!!」

空を舞うように、


ゆらり、ゆらりと


舞い落ちていく花びらのように、


二人は浮かび、そのままソリに下り立った。


アンちゃんは当たり前のように頷く。


「だってここは海ですから、泳げるのです」


そして びっくりして言葉の出ない澪を見て 

クスクスと笑った。


トンとソリの床に足がつく。


「そっか…ここって海の底だったもんね」


「…そうここは涙の海!」


「涙の海?」


澪の問いかけに気づかなかったのか


アンちゃんは続ける


「そしてこれが…涙の海の移動手段!」


白く艶めいた手すりを叩く。


「徒歩は疲れるし、泳ぐのはもっと疲れるからね。」


「海なのに徒歩……。」


思わず口をついて出た言葉に、

アンちゃんは声を上げて笑う。


「あははっ! その反応、みんなする!」


ボコは「ボア」と小さく鳴いて、

どこか照れくさそうに首を掻いた。


連れて来られたソリは


思ったよりもしっかりしていて、ぐらつかない。


木の手すりを握る。


少し湿っているのに、不思議と温もりがあった。


「大丈夫?」


アンちゃんが覗き込む


「……たぶん。」


「たぶんかぁ。」


そう言って笑うと、

アンちゃんは澪の隣へひょいと腰を下ろした。


トントンと隣の座面を叩く。


澪もゆっくりと腰を下ろした。


澪を覗き込むアンちゃんの首元で、


小さな貝殻の鈴が揺れる。


ちりん。


ちりん。


澄んだ音色が、静かな海へ溶けていく。

澪はその音に耳を傾けた。


「きれいな音……。」


「あ、これ?」


アンちゃんは鈴を指先でつまむ。


「大切な人にもらったの。」


そう言って笑ったあと、

一瞬だけその笑顔が遠くを見つめた。


けれど次の瞬間には、明るい顔へ戻っている。


「よーし、ボコ!」


ボコは嬉しそうに「ボア~!」と返事をした。


その声は、低いのにどこか柔らかく、胸の奥まで響く。


「そうそう」


澪はボコの甲羅を見つめる。


ボコは少し照れたように「ボア」と短く鳴いた。


「実はね。」


アンちゃんは少し身を寄せた。


内緒話でもするように


「ボコって、浦島太郎を乗せた海亀なんだよ。」


「えっ?」


澪は目を丸くする。


「昔々の…その浦島太郎?」


「そうそう。」


アンちゃんは得意げに頷く。


「昔はね、もっとツルツルだったらしいよ。」


「らしい?」


「私、その頃まだ生まれてないもん。」


「あ……そうか。」


「でも、いろんな人を乗せて、

いろんな海を旅して、

気づいたらこんな立派な甲羅になっちゃった。」


ボコは「ボア~」と、

まるで照れ笑いをするように鳴いた。


澪は思わず甲羅へそっと触れる。


ごつごつしている。


でも、その奥には長い年月を重ねた温もりがあった。


「浦島太郎って竜宮城へ行って……。」


澪は少し考えてから笑う。


「戻ってきたら、おじいちゃんになってたんだよね。」


「そうそう!」


アンちゃんは勢いよく頷く。


「だからボコに

『私が竜宮城へ行ったら、

おばあちゃんになっちゃうかな』って聞いたことがあるの。」


「それで?」


「ボコね。」


アンちゃんはボコの声を真似する。


「『ボア~』って。」


「返事になってない。」


「でしょ?」


二人は顔を見合わせ、大笑いした。


ボコだけは意味が分からないというように首を傾げ、


「ボア?」と小さく鳴く。


その様子がおかしくて、また笑いが込み上げる。


笑いながら、澪はふと気づいた。


さっきまで胸いっぱいだった不安が、

少しだけ遠くなっている。


この海はまだ分からないことだらけ。


何が起こるのかも分からない。


それでも。


隣には太陽みたいに笑うアンちゃんがいて、

前には優しく鳴くボコがいる。


手すりを握る手に、少しだけ力が戻った。


「じゃあ、出発するよ!」


アンちゃんの首元で、貝殻の鈴が軽やかに鳴る。


ちりん。


ボコがゆっくりと前足を踏み出した。


「ボア~。」


ソリは静かに動き始める。


澪は期待と不安を胸いっぱいに抱えながら、


ゆっくりと広がる涙の海へ目を向けた。

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