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涙の海  作者: 黒米 紅子
涙の海への招待
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天女


澪は大きく息を吸った。

ドアノブを握る手に、思わず力が入る。


痛い。

その痛みだけが、

自分がまだ現実とつながっている証のようだった。


「……よし。」


ゆっくりと扉を開く。


「……は?」


思わず間の抜けた声が漏れる。


「天女さん?」


そこに立っていたのは、

あまりにも美しい女性だった。


白銀にも見える淡い水色の長い髪が、

水の流れに溶けるように揺れている。


真珠を散りばめたような薄衣をまとい、

素足は海に触れているのに濡れていない。


その姿は、絵巻物から抜け出してきた

天女そのものだった。


そして、その背後には――。


人を何人も乗せられそうなほど

大きな海亀が、穏やかな瞳でこちらを見つめている。


ゆっくりと首を動かすたび、

甲羅に刻まれた文様が柔らかな光を放った。


女性は澪を見るなり、花が咲くように笑った。


その笑顔は、

初対面とは思えないほど親しみに満ちている。


「やっと会えた~、澪さん!」


弾むような声とともに、

彼女は両手を胸の前で合わせた。


「ずっと、この日を楽しみにしてたの!」


そう言って、

何のためらいもなく澪へ手を差し伸べる。


「お迎えに参りました。」


澪はぽかんとしたまま、

その手と女性の顔を何度も見比べた。


「えっと……。」


頭が追いつかない。


さっき来たのはシルクハットの紳士。


今度は天女のような美女。


しかも背後には巨大な海亀。


「あの……あなたは?」


女性はくすっと笑い、少しだけ首をかしげた。


その笑顔は、どこか懐かしかった。


まるで、昔から澪を知っている人のように。


女性は、ぱちんと両手を合わせた。


「あっ、自己紹介がまだだった!」


にっこり笑う。


「私はあんず。」


そう言うと、いたずらっぽく目を細めた。


「みんなにはアンちゃんって呼ばれてるの。

澪さんもそう呼んでね!」


返事をする間もなく、

あんずは澪の右手を取る。


力なく、だらりと下がった澪の手をぶんぶんと上下に振った。


「よろしくねー!」


「あ……よろしく?」


澪もつられて笑ってしまう。


さっきまでの緊張が、少しだけほどけた。


「さっ、お茶会!お待ちかねよ!」


「あ、ちょっと待っ──」


あんずは澪の手を引き、

そのまま玄関の外へと歩き出した。


「えっ!?」


思わず身を固くする。


さっきは見えない膜に弾かれて、

一歩も外へ出られなかった。


なのに。


すっと。


何の抵抗もなく、その膜を通り抜けた。


「え?」


振り返る。


透明な膜は、

まるで何事もなかったかのように部屋の入口を包んでいる。


「あれ……?」


指で触れてみる。


今度は弾かれない。


「出られた……。」


「迎えが来た人だけ通れるの。」


あんずは当たり前のように笑う。


「それ以外は、お部屋から出られない仕組みなの。」


「そういう仕組み……。」


もう驚くことにも疲れてきた。


玄関の前には、大きな海亀が待っていた。


近くで見ると、その大きさは想像以上だった。


ボォぁぁぁぁ~


「ひゃ!」


いきなり亀が吠えた。


吠えると同時に甲羅に淡い青い光が流れ、

星空のように小さな光が瞬いた。


その甲羅には革のベルトが巻かれ、

小さなソリのような乗り物がつながれていた。


木でできているようでいて、真珠のような艶がある。


「ボコ!脅かさないでよね!」


アンちゃんは、ボコの大きな鼻ズラをペシっと叩いた。


「ボッ」


まるでごめんなさいと言うように、


小さく鳴く。


鼻からシャボン玉のように 水球が飛び出した。


「うふふ、可愛い」


澪は思わず笑ってしまった。


大きな身体が小さくなるわけでもないのに、


一生懸命身を縮こませている。


「でしょう?この子はボコ。私の相棒」


海亀は「ぶぉん」と

低い声でえっへんと言うように鳴いた。


「よろしくね、ボコ。」


澪がペコっと頭を下げると、


ボコはゆっくりとまぶたを閉じ、


応えるように首を傾けた。


「あれに乗るの?」澪がボコの背を指さした。


「そう!」


あんずは嬉しそうに海亀の首をぽんぽんと叩く。


「この子はちょっと他の子と違ってね。」


そう言って、甲羅を優しく撫でた。


「ほら。」


澪が目を凝らすと、甲羅は丸く滑らかではなかった。


大小さまざまなこぶが、ぽこぽこと並んでいる。


「甲羅がボコボコしてるの。」


あんずは楽しそうに言った。

「だから、ボコ!」


「……そのままなんだ。」


澪が思わず吹き出すと、あんずもつられて笑った。


海の底に、二人の笑い声が静かに広がっていく。


遥か向こうで闇夜だった海は


夜明けを迎え薄紫に塗り替えられていた。



「さあ、行きましょ。」


アンちゃんに手を引かれ、澪はおそるおそる踏み出した。

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