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涙の海  作者: 黒米 紅子
涙の海への招待
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波に揺られる

澪はしばらく封筒を見つめていた。

胸の奥の切なさが何なのかわからない。


ただなんとなく

これ以上考えてはいけないと感じた。


何か失ってしまうのか

思い出してしまうのか


どちらも怖かったから。


思わず封筒をにぎり締めそうになった。


「あ!少し皺になっちゃった」


澪はベッドに腰掛けサイドテーブルで


よれた皺を伸ばすように押さえた。


重し代わりに図書館の本で押さえる。


ページの隙間から


あのワンピースのような薄青の栞がのぞいていた。


「こんなの挟んでたっけ?」


薄青の栞を指先でつまむ。


見覚えがある気がする。


だけどどこで見たのか思い出せない。


栞は小さな金木犀の


四つに開いたオレンジ色の花が


降ってくるように散りばめられている。


「可愛い…そういえば金木犀の花言葉ってなんだっけ」


何故だろう、思い出したら泣いてしまう気がする。


誰かに教えてもらった事がある。


そんな気がするのに思い出せない。


「ま、いっか…」


澪は一瞬だけ気になったが


栞を元に戻し静かに本を閉じた。


「今何時かな?」


澪はスマートフォンを手に取った。


画面が真っ暗だ。慌てて電源をいれる。


画面はいつもどおり点灯する。


「よかった……。あれ?」


待機画面がクラゲになっている

「いつ変えたんだろ」


アルバムを開く。


仕事で撮った現場の写真。

完成した店舗。

スタッフみんなで撮った集合写真。

取引先との打ち上げ。


「懐かしいな……。」

指を滑らせる。


次に現れたのは、実家の猫。

茶トラの「べにこ」が、

日なたで気持ちよさそうに丸くなっている。


思わず笑みがこぼれる。


「べにこ、元気かな。」

さらに写真を送る。


昨年の同窓会。

久しぶりに会った友人たち。

笑顔ばかりが並んでいる。


「みんな、変わってなかったなぁ。」


そこでもう一度、画面を滑らせた。


……止まる。



「あれ?」


もう一度。


さらにもう一度。


指を動かしても、同じところへ戻ってしまう。


「一年以上前の写真が……ない。」


あるはずだった。


旅行も行った。


誕生日もあった。


何気ない日常も、たくさん撮ったはずなのに。


そこだけが、切り取られたように消えている。


「クラウドに保存したのかな……。」


そう思ってアプリを開こうとした。


画面の右上に目をやる。


アンテナは一本も立っていない。


圏外。

当然だ。


ここは海の底なのだから。


「やだ……。」


思わず苦笑いが漏れる。


「海の底じゃ、電波ないわ。見られないじゃない。」


笑ってみせた。


けれど、その笑顔は長く続かなかった。


一年分の写真が消えている。


それは、写真がないのではない。


その一年の記憶そのものが、

自分の中から抜け落ちている。


そんな予感が、波のように静かに押し寄せてきた。


コトリ。


澪は静かにスマートフォンをベッドの脇へ置いた。


考えても答えは出ない。


今は、それでいい。


そう自分に言い聞かせる。


立ち上がると、

食べ終えた皿とコップを持ってキッチンへ向かった。


蛇口をひねる。


温かな水が流れ、スポンジの泡が皿を包む。


いつもと変わらない家事。


その当たり前が、今はひどく愛おしく感じられた。


「こういうことをしてると、落ち着くんだよね。」


誰に言うでもなくつぶやく。


洗い終えた皿を水切りラックへ並べる。


一枚。

もう一枚。


きちんと揃えて置く。


それだけで心が少し整っていく。


時計を見る。


午後一時を少し回っていた。


「あと、一時間。」


澪は洗面所へ向かう。


鏡の前に立ち、髪を整える。


ファンデーションを薄くのせ、


眉を描き、口紅をひと塗り。

派手ではない。


けれど、人に会うための自分になる。


鏡の中の自分が、小さく笑った気がした。


「うん。」


十分だ。


時計の針は、一時五十分を指していた。


「準備完了。」


その言葉が自然と口をつく。


不思議だった。

知らない場所。

知らない相手。


何が起こるかわからないのに、

体はいつもの外出前と同じように動いている。


玄関へ向かい、小さなバッグを手に取る。


財布。


ハンカチ。

ティッシュ。


癖のように中身を確認する。


ふとスマートフォンが目に入った。

「……持っていこう。」

少し迷ってからバッグへ入れる。


電波はなくても、時計にもなるし、写真だって見られる。


何より、現実と自分をつないでくれる気がした。


玄関に立ち、深く息を吸う。


「どんとこい、だわ。」


胸の前で小さく拳を握る。


その瞬間――。


コン、コン。


さっきとは比べものにならないほど大きく、

はっきりとノックの音が響いた。


まるで、この部屋全体が震えたようだった。


澪の心臓も、その音に合わせるように大きく跳ねた。


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