日常
着替えようとしたワンピースを手にして
ふと洗面所のほうを見る。
「シャワー……出るのかな。」
海の底なのだから、水はもう十分すぎるほどある。
そんなことを考えたら、思わず吹き出してしまった。
「出たら浴びよう!」
くすり、と笑う。
「気合いだ、気合い!」
その声は、さっきまでの不安を少しだけ追い払ってくれた。
床には、青い招待状が静かに横たわっている。
その封筒の裏で、割れた波紋の紋章が淡く青く光り元に戻った事に、澪はまだ気づいていなかった。
シャワーは、ちゃんと出た。
蛇口をひねると、いつもと変わらない温かな湯が肩を流れ落ちる。
海の底にいるというのに、お湯はどこか安心する匂いがした。
髪を乾かし、お気に入りのワンピースに着替える。
鏡を見る。
少しだけ顔色が戻っていた。
「よし。」
深呼吸をひとつ。
さっきより、少しだけ落ち着いている。
その途端――。
ぐぅぅぅ……。
静かな部屋に、お腹の鳴る音が響いた。
「あ……。」
思わずお腹を押さえ、ひとりで照れ笑いする。
「緊張すると、お腹空くんだよね。」
冷蔵庫を開ける。
中身は昨日までと変わらない。
作り置きのサンドイッチと、ヨーグルト、それから小さなオレンジジュース。
「ヨーグルトの消費期限って…もう過ぎてるじゃん!食べるのはやめとこう。」
何が起こるかわからない。
お茶会の前にお腹いっぱいでは格好がつかない。
ましてやお腹を壊したなんてシャレにもならない。
サンドイッチをひとつだけ皿に乗せ、ジュースを持ってベッドへ戻る。
ぽすん、と腰を下ろす。
ひと口。
ふた口。
いつも食べ慣れた味なのに、今日は少しだけ違って感じた。
静かすぎるからだろうか。
それとも、窓の向こうを魚が泳いでいるせいだろうか。
食べ終えた皿をサイドテーブルへ置こうとして、ふと足元に視線が落ちる。
青い封筒。
さっき落としたままになっていた招待状だった。
「あ……。」
拾い上げようとして、封筒の裏に刻まれた銀色の紋章が目に入る。
「あれ?」
【割れた気がしたけど…】
波紋のようにも見える。
花のようにも見える。
割った事よりも気になった。
「この紋章……。」
どこかで見たことがある。
そんな気がした。
指先でそっとなぞる。
すると紋章が、かすかに温かくなった。
その温もりに触れた瞬間、
何かが手を伸ばして
澪の頬を優しく撫でた気がした。
柔らかな笑い声。
夕日に照らされた誰かの横顔。
誰かが優しく自分の名前を呼ぶ声。
『……澪』
陽炎のように景色が揺らぎ、
記憶の欠片が波間へ散っていく。
手を伸ばせば届きそうなのに。
指先からこぼれていく砂のように、
その欠片は離れていく。
二度と掴めない気がした。
ひどく大切なものだった気がするのに。
「……誰?」
名前すら思い出せない。
思い出せそうなのに、思い出せない。
紋章の温もりは静かに消えた。
封筒は何事もなかったかのように
澪の手の中で、ただの紙になっていた。




