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涙の海  作者: 黒米 紅子
涙の海への招待
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招待状

澪の胸には


「心配しないで、澪」という聞こえない声だけが、


波紋のようにいつまでも残り続けていた。


澪はゆっくりと部屋へ戻る。


ぽすん、とベッドへ腰を下ろす。


膝の上で爪で封蝋を割り青い封筒を開く。


封を切ると、ふわりと金木犀の香りが漂った。


「……金木犀?」


胸が締めつけられる。


知っている香り。


大切な思い出につながる香り。


なのに、その先だけが真っ白だった。


便箋には、見慣れた文字が並んでいる。

「ん??」


『お茶会へのご招待』


『本日 午後二時

お迎えに参ります。』


お茶会へご招待。


澪は思わず笑ってしまった。


「海の底で、お茶会?」


あまりにも現実離れした言葉に、

先程の違和感も薄れ笑うしかない。


「……よし。」


ぱん、と両手で頬を軽く叩く。


「考えても仕方ない。」


それが澪という人だった。


怖くても、笑う。


不安でも、一歩前へ進む。


そうやって今日まで生きてきたのだから。


澪は、もともと明るい性格だった。


よく笑い、よく人を見ていた。


相手が何を望んでいるのか、

何を言われたら安心するのか。


そんなことが、

考えるより先にわかってしまう。


その場の空気を読むことも、

人に合わせることも苦ではなかった。


けれど、その「気づきすぎる」性格は、

ときどき澪自身を疲れさせた。


相手が口にする前の言葉まで想像してしまう。


期待も、失望も、怒りも。


先回りして受け止めようとしてしまう。


それでも澪は、笑っていた。


笑っていれば、大抵のことは何とかなる。


そう信じて生きてきた。


だから――。


「よし!」


パンッ。


両手で軽く頬を叩く。


「考えてても仕方ない!」


勢いよく立ち上がり、

クローゼットの扉を開け放つ。


その拍子に、

膝の上に置いていた青い招待状が、床へぽとりと落ちた。


けれど澪は気づかない。


「勝負服……なんて持ってないけど。」


ハンガーに掛かった服を一枚一枚眺めながら、小さく笑う。


「せっかくのお茶会なんだし、

とりあえず、おしゃれしよう。」


誰と会うのかもわからない。


海の底でお茶会なんて意味もわからない。


でも、だからこそ。


「第一印象は大事だもんね。」


自分に言い聞かせるようにつぶやく。


ハンガーを一枚ずつ指でずらしていく。


白。


紺。


ベージュ。


着慣れた服ばかりだ。


その奥に、

一着だけ見覚えのないワンピースが掛かっていた。


淡い青。


海の色にも、空の色にも見える不思議な色。


「……あれ?」


澪は首をかしげる。


買った記憶がない。


指先で布をなぞる。


さらり、と柔らかな感触。


その瞬間。


胸の奥で何かが揺れた。


夕暮れの光。

風に揺れる木々。

誰かの笑い声。


『似合ってるよ』


誰かがそう言った気がした。


けれど顔は見えない。


「……なに、今の。」


思わず眉をひそめる。


次の瞬間には、もう何も残っていなかった。


ただ、

そのワンピースだけが不思議なほど愛おしく思えた。


見ているだけで胸の奥が少し痛む。


「今日はやめとこう。」


ワンピースをそっと撫で


喉の奥の塊を飲み込んだ。


なぜか分からない。


けれど、この服は特別な日に着るものだ。


そんな気がした。


「変なの。」


小さく笑ってハンガーを戻した。


「今日はこっちでいいや。」

そう言って、いつものワンピースを手に取った。


小さく鼻歌を歌う


胸の奥の違和感に気づかなかったふりをして。


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