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涙の海  作者: 黒米 紅子
プロローグ
4/30

見えない境界線


伸ばした手の先が何かに触れる。


と同時に足先が何か柔らかなものに当たった。


「……え?」


海だ。

目の前には確かに海が広がっている。


魚が泳ぎ、光が揺れている。


なのに、水の中へ手も足も入っていかない。


恐る恐る右手を伸ばす。


ぷにっ。


「えっ……。」


思わず息を呑む。


水なのに、指先を受け止めている。


透明な海はゼリーのようにゆっくりとへこみ、

澪の指の形だけが小さく沈んだ。


冷たい。


けれど濡れない。


不思議な弾力が指先を包む。


さらに少し力を入れる。


ぐにゅり、と膜は奥へ沈み込む。


それでも指一本分ほどしか入らない。


指を離すと、


ぷるん、と小さく震え、


何事もなかったように元の形へ戻った。


「うそ……。」


もう一度触れる。


今度は手のひら全体を押し当てる。


海は柔らかく受け止めるだけで、

決して通してはくれない。


「もしかして……。」


思い切って一歩踏み出した。


次の瞬間。


ぱんっ。


大きなゼリーに弾かれたように、


澪の体はふわりと後ろへ押し返された。


「きゃっ!」


尻もちをつき、呆然と玄関の外を見つめる。


「出られ……ない。」


海なのに、水なのに。


そこには見えない境界があった。


澪が顔を上げると、


紳士はエイの背から静かに立って見つめていた。


海の流れに合わせて、ゆらり、ゆらりと体が揺れる。


それでも足元は少しも乱れず、

長年そこで過ごしてきたかのように自然だった。


黒いロングコートの裾が水にたなびき、

シルクハットのつばだけが静かに揺れる。


まるで海そのものに溶け込んだ執事。


そんな不思議な存在だった。


紳士はエイの上から、澪をじっと見つめていた。


その黒の瞳には、安堵と切なさが静かに揺れている。


助けようとはしない。


いや、助けられないのだ。


黒の瞳が、ほんのわずかに揺れる。


そのときだった。


『心配しないで、澪。』


また胸の奥へ言葉が落ちてきた。


耳ではない。


聞こえたはずなのに、音にはなっていない。


誰かの想いだけが、心へ届いたようだった。

懐かしい。


胸が締めつけられる。


泣きたい。


どうしてだろう。

「……え?」


澪を見つめる紳士は口を閉じたまま静かに立っていた。


何も話してはいない。


それでも、

その眼差しはすべてを知っているように優しかった。


帽子のつばへ手を添え、深く一礼する。


やがてエイはゆっくりと向きを変え、


青い海の彼方へ消えていく。


尾が海底を掠め、白い砂を巻き上げていく。


揺れる光の向こうで、

男の輪郭が少しずつ霞んでいった。


最後まで残っていたのは、

白い手袋だけだった。


それはまるで、

最初から海に溶けていたものが

元の場所へ帰っていくようだった。

澪の胸には、


『心配しないで、澪』


という聞こえない声だけが、

波紋のように残り続けている。


静かだった。


魚たちは何事もなかったように泳ぎ、


海藻はゆるやかに揺れ、


暗闇から光の柱だけが海底へ降り注いでいる。


まるで今の出来事など最初から存在しなかったかのように。


「……なんなの。」


小さく呟く。

返事はない。


ただ時計の秒針だけが、

変わらず時を刻んでいた。


チッチッ……。


震える手の中の招待状だけが、


これが夢ではないと告げていた。


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