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涙の海  作者: 黒米 紅子
プロローグ
3/30

なぜか懐かしい


なのに……何故だろう。


目の前の男性を追い返したいとは思えなかった。


むしろ。


白い手袋をしたその手に、

少しだけ触れてみたいと思ってしまった。


その考えに自分で驚く。

澪は慌てて視線を逸らした。


紳士は急かすことなく静かに待っている。


深い海のような瞳だった。


どこまでも穏やかで。


どこか寂しい。


その目を見ていると、胸の奥が妙に苦しくなった。


まるで大切な何かを忘れているような。


そんな感覚だった。


「澪さま?」


やわらかな声に呼ばれ、私ははっと我に返る。


そして恐る恐る手を伸ばした。


指先が震えている。


封筒を受け取ると、ひんやりとした冷たさが掌に伝わった。


海水の冷たさにも似ている。


けれど不思議と嫌ではなかった。


青い封筒は海そのものを閉じ込めたような色をしている。


なのに濡れてはいない。


紳士は満足そうに小さく頷いた。


そして――ほんの一瞬だけ。


微笑みの奥で何かが揺れた。


寂しさにも似た、安堵のようなもの。


それは海面に映る月明かりのように、一瞬で消えてしまう。


見えたと思った次の瞬間には消えてしまうほど儚かった。


なぜだろう。


その表情を見た途端、胸が締め付けられた。


泣きたいような気持ちになる。


理由は分からない。


けれど私は、その顔を知っている気がした。


ずっと昔から。


忘れてはいけない誰かのように。


「あの……」


思わず呼び止める。


海の中のはずなのに、彼の姿だけが濡れていなかった。


窓の外を揺れる僅かな光が静かに降り注ぐ。


そのたびに紳士の輪郭がわずかに揺らぐ。


そこに立っている。


確かに立っているのに。


その姿は波をまとい、

海そのものへ溶けてしまいそうな儚さだった。


「それでは、後日お迎えに参ります。」


まるで波に身を預けるように。


ゆるやかに身体を揺らしながら話すその姿は、

この海の一部であるかのようだった。


立ち去ろうとした男が、不意に足を止める。


そして、じっと澪の顔を見つめた。


その黒い瞳に映る自分は、ひどく頼りなく見えた。


ふっと男の口元がほころぶ。


その瞬間――


『心配しないで、澪。』


耳ではなかった。


胸の奥へ、直接言葉が落ちてくる。


懐かしい。


泣きたくなるほど懐かしい声だった。


「……え?」

思わず顔を上げる。


男は何事もなかったように、静かに一礼していた。


口は、一度も動いていない。


今の声は誰だったのだろう。


私が聞いたのだろうか。


それとも――思い出しかけたのだろうか。


胸の奥が小さく痛む。


けれど理由は分からない。


考える間もなく、遠くの海が揺れた。


大きな影がこちらへ近づいてくる。


ゆったりと翼を広げた、一匹の巨大なエイだった。


月の光を閉じ込めたような青銀色の背。


エイは男の前で静かに身を低くする。


男は慣れた様子でその背へ乗った。


まるで迎えの馬車へ乗り込むように。


「では、また。」


それだけを残し、エイはゆるやかに向きを変える。


大きな翼が一度だけ海を打った。


ふわりと海流が巻き上がる。


白い砂が舞う。


「あっ、待って!」


気づけば澪は手を伸ばしていた。


どうして引き留めたかったのか分からない。


名前も知らない。


初めて会ったはずなのに。


胸の奥だけが必死で叫んでいた。


行かないで――と。

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