夢のはず
頬を両手でぱちんと叩く。
「いたっ。」
痛い。
夢じゃない。
じんわりと熱を持つ頬を押さえながら、
澪は息を呑んだ。
胸の奥がざわつく。
心臓が早鐘を打ち始めた。
どくん。
どくん。
どくん。
鼓動の音に重なるように――
コンコン。
玄関から、また小さな音がした。
澪はびくりと肩を震わせる。
聞き間違いではない。
ここは海の底のはずだ。
それなのに。
誰かがいる。
澪は身を固くした。
しばらく耳を澄ます。
静寂。
時計の秒針だけが時を刻む。
そして――
コンコン。
再び響くノック。
間違いない。
誰かが扉を叩いている。
思えば、自分を訪ねてくる人はほとんどいなくなった。
友人たちは仕事や育児に追われ、
少しずつ疎遠になっていった。
今ではドアを叩くのは宅配便くらいだ。
いつからだろう。
誰かと会うことが、嬉しいよりも怖くなったのは。
ノックは、人との関わりの始まりの音だ。
だからこそ、少し怖い。
澪は小さく息を吐く。
そして意を決したように玄関へ向かった。
そっと覗き穴へ目を近づけた。
暗い。
真っ黒だ。
もう一度目を凝らして見る。
黒い影。
人……?
いや、海藻が揺れているだけだろうか。
影は動かない。
まるで向こう側からも、
じっとこちらを見つめているようだった。
コン。
今度は一度だけ。
ドアノブが小さく震える。
澪は大きく息を吸った。
「……は、はい。」
掠れた声で返事をする。
震える指でドアノブを握った。
冷たい金属の感触だけが妙に現実だった。
ゆっくりと扉を開く。
--まず目に入ったのは、
磨き上げられた黒い革靴だった。
そこから視線をゆっくりと上へ移していく。
黒いスラックス。
黒いロングコート。
白い手袋。
胸元からは懐中時計だろうか。
鈍色の鎖が静かに揺れている。
片手には年季の入った黒いスーツケース。
そして頭には、
この海の底には不似合いなシルクハット。
古い映画から抜け出してきたような紳士だった。
けれど――
どこかおかしい。
輪郭が微かに揺れている。
海藻が水流に揺れるように。
陽炎が立つように。
そこに立っているはずなのに、
少しだけ現実からずれている。
年齢は分からない。
若くも見える。
年老いているようにも見える。
瞬きをするたびに印象が変わった。
海に溶けてしまいそうだった。
ただ一つだけ確かなのは、その黒い瞳だ。
深い海よりも静かで。
夜よりも優しい。
ーーそして、ひどく懐かしかった。
胸が小さく痛む。
理由は分からない。
どこかで会ったことがある気がした。
ふと紳士の背後へ目を向ける。
そこに広がる海は、
窓の外に見えていた海とは違っていた。
仄暗い灰色。
光は届いているはずなのに、どこか沈んで見える。
時折、遠くで稲妻のような光がちらりと煌めき、
すぐに闇へ溶けていく。
その向こうには、海底の尾根のような黒い影。
幾重にも重なる陰影は、まるで眠る山脈のようにも見えた。
その先は墨を零したような黒が広がっていた。
海の底なのに、そこだけは闇夜だった。
紳士は帽子のつばへ、
白い手袋をした指先を添えた。
そして優雅に一礼する。
「澪さんでお間違いありませんね。」
低く、よく通る声だった。
澪は言葉を返せず、小さくうなずく。
「それでは、改めまして――澪さま。
ようこそ、涙の海へ。」
ドクン。
胸が大きく跳ねた。
この声――。
覚えている。
そう思った瞬間、頭の奥がじくりと痛んだ。
けれど何も思い出せない。
紳士は静かにスーツケースを床へ置いた。
そして胸元から一通の封筒を取り出す。
厚手の青白い封筒だった。
涙色にも、月明かりにも見える不思議な色。
蝋で封がされ、
その印章は波紋のような紋様を描いている。
「主人より、あなたへ招待状をお預かりしました。」
紳士は封筒を両手で差し出した。
「どうぞ、お受け取りください。」
澪はじっと封筒を見つめたまま動けなかった。
青白い封筒。
波紋の封蝋。
そして白い手袋。
受け取ってしまえば、何かが変わる気がした。
変わってしまったら、もう戻れない気がした。
知らない人と関わるのは苦手だ。
傷つくのも、期待するのも疲れた。
だからずっと部屋に閉じこもっていた。
一日が終わればそれでいい。
そう思うことにしていた。
なのに――




