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涙の海  作者: 黒米 紅子
プロローグ
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気づいたらそこに居た。

プロローグ

 ピピピピッ……ピピピピッ……


朝が来た。


昨日眠ったばかりなのに、


身体はまだ眠りを欲しがっている。


スヌーズだけは容赦がない。


ピピピピッ……ピピピピッ……


『……澪』


誰かに名前を呼ばれた気がした。


その声を追いかけようとした瞬間、


ゆっくりと瞼が開く。


澪は左手を伸ばし、


サイドテーブルのスマートフォンを手に取った。


「起きても、いいことなんてないのに」


小さく呟いてアラームを止める。


画面が暗くなり、


待ち受けの海に一匹のクラゲがゆらゆらと漂った。


スマホをコトンとテーブルへ戻し、


澪は天井を見つめた。


見慣れた白い天井。


左には淡い水色のカーテン。


窓辺には、小さな多肉植物。


いつもと変わらない朝。


起きて


顔を洗って


大好きなオレンジペコを淹れて


そうやって過ごせば


1日がまた終わる。


それでいい

そう思うようにしていた。



毛布を胸元まで引き寄せたまま、


「起きなきゃね」


思わず苦笑する。


最近、独り言が増えた。


誰かと話すことが減った証拠なのかもしれない。


毛布を払い、ゆっくりと身体を起こす。


サイドテーブルには、


昨夜飲み切れなかった紅茶。


もう香りは薄れ、少し苦そうだ。


読みかけの図書館の本からはみ出た栞。


その隣には、小さな写真立て。


無理やり押し込んだせいで少し斜めになった写真の中では、


実家の猫・紅子がこちらを見上げている。


「べにこ、会いたいなぁ」自然と頬が緩む。


写真の中のべにこは、相変わらず不機嫌そうな顔をしていた。


身体を起こしながら、部屋を見渡す。


ワーキングデスクには、色とりどりの色鉛筆。


白い余白に、描きかけの猫のスケッチ。


ベッドの下には、本がぎっしり詰まった収納ケース。


大きく伸びをして言い聞かせる。


いつも通り。


いつも通りに動けば、きっと大丈夫。


そう自分に言い聞かせるように立ち上がる。


仕事に行かなくなってどれくらい経ったんだろう。


考えないようにしていた。


考え始めると、胸の奥が固くなるから。



その時気づいた。


「……ん?」 静かすぎる。


朝なら聞こえるはずの車の音も、人の話し声もない。


カーテンの向こうを、黒い影が横切った気がした。


澪は窓へ歩み寄る。


冷たい床が足の裏に心地よく痛い。


思い切りよくカーテンを開けた。


「……?!」


窓の向こうを、大きな影が泳いでいた。


魚…


いや。 「エイ……?」


大きく翼を広げるように、


ゆったりと窓の前を横切っていく。


その先には、どこまでも続く緑青。


揺れる海藻。 幾筋もの光の柱。


きらきらと群れをなす小魚たち。


エイが海底近くを泳ぐたび、白い砂がふわりと舞い上がる。



見慣れた街並みも空もない。


ただただ、海…海底だった。


深く、静かな海。


自分の部屋は、


そのまま海の底に沈んでいたのだった。


ぽこり。


小さな泡が、


窓の向こうをゆっくりと昇っていく。


海面から降りる幾筋もの光は、


誰かを迎え入れる舞台の灯りのように、


海底へ静かな光の輪を落としていた。


魚の群れが光に触れるたびに キラキラと光を反射していた。


海藻が群れを追うように揺れている。




思わず息を止める。


けれど苦しくない。


恐る恐る息を吸う。


肺いっぱいに空気が入った。


チャポン…足先が濡れる


「え!」


慌てて足元を見るが乾いている。


鼓動だけが、やけに大きく響いていた。


「夢?」


窓の向こうで一匹の小さな魚がこちらを見つめている。


群れからはぐれたのだろうか。


「あなたも、びっくりよね。」


思わず話しかけると、


小魚は尾びれをひと振りし、群れの中へ帰っていった。


その姿に、少しだけ笑ってしまう。


部屋には、


チッチッ……と


時計の秒針だけがやけに大きく響いている。


その静けさを切り裂くように、


ボォォォー


聞いたことのない低く太い音が、海の底を震わせた。


「な、何……?」


肩がピクリと跳ねる。


音は部屋の外から響いて来ていた。


ボォォォ──。


先ほどより音が大きく響く。


さざなみのような振動が床を這い、


足元を微かに揺らした。


窓を背にして、澪は思わず息を呑んだ。


ここは海の底だ。


振り返った窓の向こうには、果てしない青が続いている。


揺れる海藻。


海面から降りる光。


静かに泳ぐ魚たち。


それなのに――


何かがいる。


何かが、こちらへ向かって来ている。


胸の奥で鼓動が大きく鳴った。


どくん。

どくん。


静かな海とは裏腹に、


心臓だけが慌ただしく騒ぎ始める。


その時だった。


コン。


小さな音が玄関から聞こえた。


澪の肩がびくりと震える。


聞き間違いではない。


今のは確かに――


誰かが扉を叩いた音だった。


この海の底で。


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