金木犀の香り
シャン!
手綱がなる。
ボボボォ~
ボコがゆっくり歩き出した。
クラゲが目の前に漂って来た。
プカリ、プカリ。
揺れるクラゲを指先で突く。
ぷヨンッ
突かれたクラゲは押されて方へ
流れて行く。
「…澪さん。」
ホテルが見えて来た。
しんみりした様子でアンちゃんが声をかけた。
「…疲れちゃったね。」
「うん。」
「澪さん、辛いよね。」
「…辛いというか、もどかしいかな。」
「そっか…」
「大丈夫だよ、ちょっと気が滅入っただけだから。」
「そーやって、なんでも無理して飲み込もうとしちゃうのが、
澪さんの昔からの癖だよね。」
「アンちゃん!私達って会ったことあるの!?!」
身体をアンちゃんに向けて叫ぶ。
「……内緒。でもぉぉ~気が滅入る時はぁ~」
シャン!シャン!シャン!
「超特急よぉーー!」
「…アンちゃん!ホテルもう目の前!」
グイーンとボコが首先をあげる。
蹴り出す足が砂を舞上げ、
上へ上へと登って行く。
アンちゃんの首の鈴も一緒に登る。
チリンと音が聞こえる。
「アンちゃん!ボコぉ~」
澪の叫びは
散って行ったクラゲだけが聞いていた。
「アンちゃん!」
「ごめんて…」
「もー知らない!」
「ごめんなさい」
ラウンジのソファでぐったりする澪に
アンちゃんが平謝りになっていた。
あれからアンちゃんの思うがままに
[超特急]に付き合わされた澪は
足もガクガク、
手すりを握り締めすぎた指はジンジンしている。
ボコも楽しんだのか、疲労困憊なのか
澪達を降ろしたあと
振り返る事もせず
ツイーッツイーッと泳いで塔へ戻って行った。
「まぁまあ、アンちゃんは澪さんを
元気つけたかったちゅう事で…」
カラカラとワゴンを押して乙女がやって来た。
ワゴンの上のは、大きなカップに入ったスープ。
焼き上がったばかりのパンが入った籠
小麦とバターの香りが広がった。
「疲れすぎた時は 軽ーくなんか食べるんや。」
確かにお腹は空いている。
ただ食欲があるかと聞かれると
…ないと答えるほど疲れていた。
小さな丸いパンを口に入れる。
バターの香りと香ばしい小麦…甘いカスタード。
「ちっちゃいクリームパンやで」
「…美味しい」
「カロリーの塊だね。美味しいけど」
甘いカスタードが口の中で溶けて行く。
疲れた身体に染みていくようだ。
「アンちゃん…そんな夢のない事いわん」
…夢のない事…その言葉が妙に引っかかる。
アンちゃんの次の言葉で
引っかかった言葉が消えていく。
「甘い甘い甘すぎるぅ~乙女の恋も甘すぎだ~」
そう言いながら次のパンもパクっと食べるアンちゃん。
乙女は真っ赤になりながら大きく頷く。
「しゃーないやん。気持ちが入るんやもん。」
「落ち込んどったら、パンもしょんぼりするし。」
「嬉しかったら、よう膨らむ。
「膨らんだ時の恋はあっついで~」
「ほんまやで?」
「パンで惚気られた~」
三人の笑い声がラウンジに流れて行った。
厨房のスイング扉から
スーツにエプロン姿のまやっちが
コック姿の旦那さまと一緒に覗きながら
笑っていた。
アンちゃんが部屋まで送ると言うのを断り
自力で澪は部屋に戻った。
思った以上に身体がギシギシ悲鳴を上げていた。
バスタブのお湯を張り ゆっくりと浸かる
「ふぅぅぅ」
手足を伸ばして天井を見上げた。
バスタブの縁の腕がポチャンと湯船に落ちた。
「眠いや…」
お湯で身体がほぐれていく。
心も…
夢…
澪はその情景を上から見ていた。
水辺
湖だろうか
夕闇が近づいている。
空には満月…
「水草だぁ~」
「あぁ、みずはこべだね」
「なんでも知ってるね」
「澪よりちょっぴり長く生きてるからね」
澪と顔の見えない誰か…
背にした低木の茂みから
小鳥が顔を出した
「あー見て!青い鳥よ!」
「あーヒヨドリだね」
「夢なさすぎ~
絶対に幸せの青い鳥だから!」
「満月を眺めに来たのかも」
「…私達と一緒だね」
誰かが笑う。
水面に浮かぶみずはこべ
風に揺れる薄紫のカワジシャの花
細波が広がる
波を彩る月の光
湖に浮かんだ月も
朧に揺れる。
「…綺麗…」
「あぁ 本当に…」
彼は水面を見つめる澪を見て言う。
澪の瞳も髪も、月色に染まっている。
「…綺麗だね。」
「また丘に行ってたんだね」
「バレてる?」
「香りでバレてるよ。」
ギュっと抱きしめる腕
「甘い匂いだ つい抱きしめたくなる」
「うふふ 狙ってるもん」
「……。」
何かを囁いた。
風が吹き、
金木犀の香りだけが澪を包む。
言葉は聞こえなかった。
でも――
とても大切な言葉だった気がした。
「……私も、愛してる。」
誰に向けた言葉なのか、
澪にもまだわからない。
それでも涙は静かに海へ溶けていった。
金木犀の香りだけが、
優しく澪を包んでいた。




