小さなため息
「寒っ」
澪をバスタブで目を覚ました。
温くなったバスタブのお湯でバシャンと顔を洗う。
「やっば!よっぽど疲れてたんだ私…」
「だけど…心地良かったな…ダメダメ!こんなんじゃ」
熱めのシャワーを全身に浴びてから部屋へ戻る。
髪の毛を拭きながらベッドに腰掛ける。
アンちゃんの「ヒャッホー」を思い出して
クスクスと笑った。
「それにしても…」
『昔からの癖だよね』
「私…アンちゃんも忘れてるの?」
澪はポーチからスマホを取り出した。
どんな仕組みかわからないが、充電が減ってない。
「そう、思い出したんだ…思い出しちゃった…」
胸が詰まる。
大好きだったべにこ。
まるで絵本の「べにこのいちにち」のようなべにこ。
澪と一緒に広遠で過ごし
澪と一緒に散歩をし
澪と一緒に眠った。
涙は枯れた。
小さくため息をつく。
失いそうになったとき
べにこを失った。
まるでその代わりのように…。
「何を忘れてるの?」
待ち受けのべにこはもういない。
フォルダーにも残っていない。
「きっと辛いから自分で削除したんだね…私」
指先は、
何度も何度も画面をなぞった。
消したのは私なのに、
どんな写真だったのかさえ思い出せない。
胸が痛い。でも涙は出ない。
「じゃあ……
一年前の写真も……
私が消したの?」
ズキン!
「痛い!」
ズキン!
澪は気を失うようにベッドに倒れ込んだ。
心地よい夢の記憶すらもう忘れていた。
また金木犀の香りがしたような気がした。
…コンコン
「おはよう澪さん、起きてる?」
アンちゃんの声がして澪は身を起こした。
「あのまま寝ちゃったんだ…」
「はーい」掠れた声で返事をして身支度をする。
「早くね~なんとパンが焼きたてよ。焼きたてだから急いで~」
「…それっていつもじゃない?」
「アンちゃん、パンは逃げませーん」
うふふと笑って大きく返事をする。
「恋は逃げるけど、パンは冷めるの!」
アンちゃんがドアの向こうで楽しそうに笑う。
その笑い声につられ、澪も自然と笑っていた。
スマホをそっと伏せる。
消えた一年。
忘れている誰か。
答えはまだ見えない。
それでも今は、その続きを探すように部屋の扉を開けた。
焼きたてのパンの香りが、澪をラウンジへと誘っていた。
「んで、今日はどない?」
テーブルには乙女も座り
三人での朝食になった。
「もう一度花時計公園へ行きます。」
澪の言葉を聞いて
乙女はアンちゃんの顔をじっと見る。
その視線を受け止め
「歯車がね~花時計のじゃないかって
ブンさまが言うのよ。」
ベーコンをパクっと咥えてアンちゃんが答える。
「何があるのかわからへんのやな~」
乙女が俯いた。
「せや!」
何かを思いついたように乙女が立ち上がり奥へ行く。
戻って来た時は紙袋を抱えていた。
「ほい、持ってき。」
思わず受け取る澪。
ほんのり暖かい紙袋には 焼きたてパンが入っている。
「良いんですか?」
「いい、いい 旅のお供には焼きたてパンやで」
「ありがとうございます。」
「無事に戻っておいでや」
アンちゃんを見つめる乙女。
フォークをくわえたまま、
アンちゃんはひらひらと手を振る。
「テヘヘ、ほな、行ってきまーす。」
その笑顔を見つめる乙女は、
小さく、本当に小さく息をついた。




