記憶の扉
「…必要なところに現れる…
本当だったんですね…。」
ブンさまが封筒を見つめたまま呟いた。
澪もじっと封筒を見つめた。
徐にひっくり返し封蝋を見る。
指でそっと触れる。
温かい…
「…この紋…すごく懐かしい」
ブンさまがペーパーナイフを
澪に渡した。
ペーパーナイフとブンさまを
かわるがわる見て
澪は……封をあけた。
漂う金木犀の香りが強くなった。
〔最奥の部屋へのご招待〕
再び扉が開きます。
よろしければ
ぜひお越しください。
カランとペーパーナイフが落ちる。
「…再び…開く…」
「本が澪さんを呼んでいるんでしょうね。」
ペーパーナイフを拾い上げて
ブンさまが言う。
「…どうなさいますか?…選ぶのは澪さんです…」
澪はコクリと頷いた。
「…行きます」
「案内します。」
「…私も…私も着いていっていい?」
アンちゃんが小さく聞く。
再びコクリと頷く澪。
「…心強いわ。」
二人は、滑るように歩くブンさまの後をついて
本の棚の道を進んだ。
ジーンと耳の中で音がする。
身じろぎもしない本達。
ページを捲る音も
三人の足音も聞こえない。
全ての音が
この建物の中から消えたようだった。
澪が立ち止まって振り返る。
ボコが立ち上がって
こちらを見ていた…
まるで行くなと言うように
アンちゃんの背中を睨みつけるように
ただ見ていた。
「…澪さん」
ブンさまが声をかける。
澪は慌ててアンちゃんの横に並んだ。
光るスズランの通りを過ぎ
月明りの灯るドアの前に立つ。
「大丈夫?」
アンちゃんが澪の顔を覗き込んだ。
「…うん……ううん、ちょっと不安…かな。」
「…正直でよろしい…」
アンちゃんがそっと背中に手を当てる。
「でも行くんでしょ?」
「…うん」
そっと手で押される。
「…行こう」
澪はドアを開けた。
ゆらゆら揺れる花達
呼吸している本達
演台の周りがぼんやり光っている。
一冊の絵本がそこにあった。
【べにこのいちにち】
「…これ…」
ゆっくりと本を開く。
まるで実家の猫のような
茶トラの猫が広縁で丸くなっている。
横には籐の籠
大好きだった絵本
ただひたすら赤ちゃんの傍で
寝てばかりいる猫の1日
「くるみさんの描いた絵本ですね。」
寝ている赤ちゃんが起きれば覗き込み
泣けば籠を揺する。
母親がミルクをあげる時は
その前足をそっと赤ちゃんの膝にかけている。
そして夜が更けて行く。
「不思議ですね、くるみさんの本が呼吸しています。
息を吹き返したかのように。育っています」
本棚から一冊の重そうな本を開いてブンさまが言った。
見開いた本の中には
寄り添う三人の挿絵。
「…再会できたのかな。きっとそうだね。」
パラパラパラパラとページが走り
くるみの本が宙をまい本棚に収まった。
「これを伝えたかったのかな…」アンちゃんが囁く。
澪はもう一度絵本に目をやる。
「違う…」
その声が合図のように
ガタガタと本達が震え
一斉に本棚を飛び出し宙に踊った。
それぞれが演台をかすめ、
元居た場所を変え移動して行く。
オレンジ色の小さな本が
ページを蝶のように羽ばたかせて
澪の前を横切って行った。
絵本のページがパタリと閉じる
…金木犀の香りが、ふわりと濃くなる。
「…違う…べにこはもう居ない…あの日…」
ズキンっと頭の奥が痛い。
思わず澪はしゃがみ込んだ。
目を閉じ痛みに堪える。
「澪さん!」
瞼の奥に広がる映像
どこかで見た並木道。
夕焼け色に染まる坂道。
笑い声。
風に揺れる髪。
誰かが振り返る。
顔だけが、
どうしても霞んで見えない。
胸が苦しい。
会いたい。
誰に?
その人に。
どうしても会いたい。
でも――
その瞬間、さらに頭の奥を鋭い痛みが走った。
思い出してはいけない。
そう誰かが囁いた気がした。
違う。
思い出したい。
私は……
私は誰を……
その誰かを呼ぼうとした、
その瞬間だった。
演台の上で、小さく何かが弾けるような音がした。
カタン。
足元で小さな音がした。
見下ろすと、珊瑚の歯車が落ちていた。
「…どこから?」
小さな歯車だった。
赤い珊瑚の古びた歯車。
澪が拾い上げた瞬間。
カチリ。
遠くで時計の針が動いた。
それは時計の音ではなかった。
閉ざされていた記憶の扉が、
ゆっくりと噛み合い始めた音だった。




