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涙の海  作者: 黒米 紅子
ブンさまの海
33/48

空気

柔らかい時間が流れた。

ブンさまはそっと席を立つ。

彼の邪魔をしないように。

自分の鼓動を彼に聞かせないように。


彼はページをめくっている。

ブンさまが立ち上がる時に目を上げたが

何も言わなかった。


戻ってくるとブンさまが

澪に目を向けて言った。

「何かが変わったんでしょうか?」

マグカップをカウンターに置き

彼を見て またマグカップに視線を戻す。


「何も変わらないよ。」

アンちゃんがソファに戻りながら言う。

「二人の間を流れる空気が変わっただけ」


「…」


「二人で居た時

居心地悪かったのですが?」

澪が尋ねた。


「最初は緊張しました。

でも彼が話し出したらそれも溶けました。

でも最後でまた緊張しました」


ポスっと小さく音を立ててアンちゃんが座った。


「でも居心地は悪くなかった。」

「はい、悪くなかった…です。」


視線はまだマグカップに置いたまま。


「これからだね、

ブンさまの自己分析はまだ続くって事」

「アンちゃんお行儀悪いよ」

アンちゃんはソファに横になる。

澪が嗜めた。


「…分析…自分を分析する…ですか…」

「そう、わからないままにしとけないんでしょ?」


ブンさまは空になった4つのマグを

そっと片隅に押しやった。

アンちゃんは身体を横倒しにして言った。


「居心地は良かった。なぜか…

ちゃんと分析してあげれば良いよ」


窓の外のボコが首をもたげ

アンちゃんの様子を見て呆れたように


ボボッ

ボボッ


と空気の輪を吐き出した。

白い大きな輪が いくつも海面へ登っていく。

小魚達が その輪に向かって集まって行った。

楽しそうに輪をくぐり抜けては

散らして行った。


「彼の前に座って、

ページをめくる音を聞いて……。

何も特別なことはありませんでした。」


少しだけ笑う。


「でも、不思議なんです。

あの時間が、とても自然で。

また過ごしたいと思いました。」


澪は静かに頷いた。


「空気みたいだった?」


ブンさまは顔を上げる。


「空気……。」


その言葉を何度か心の中で転がす。


「……そう、なのかもしれません。」


「居なくなると困る。

居てくれると安心する。

そんな存在なんでしょう?」


ブンさまは何も答えなかった。


けれど、

頬が少しだけ赤くなっていた。


アンちゃんが目を閉じたまま笑う。


「分析、終わった?」


ブンさまは照れたように首を振る。


「……まだです。」


まるでその声が聞こえたかのように

ガタリと椅子を引く音がした。

本を持って彼が立ち上がり、

カウンターに向かって来た。


読み終えた本を差し出しながら

照れくさそうに言う。


「泥…掃除してくれたんだね。ありがとう…

それに…コーヒーも」


「この本も…」


ペコリと頭を下げる。


「いえ、お役に立てたなら…それで良いんです」


受け取った本を大事に抱えて、

ブンさまは答えた。

彼はドアの方へ歩きかけ、

慌てて戻ってきた。


「……あの…また…時々でいいんで

ご一緒してくれませんか?」


「!!!…は、はい」


「よかった~やった!」

彼が声を大きくした。


「静かに!」

「す、すみません。嬉しくてつい…

で、ではまた………明日」


早口でそう言うと

逃げるように扉を開けて出て行った

彼の顔は真っ赤だった。


そしてブンさまの顔も真っ赤だった。


「ぶっ…不器用ねぇ」


足をバタバタさせて

アンちゃんが小さく笑った。


「アンちゃん、お行儀悪い!」


澪も思わず吹き出した。


普段の図書館では

聞くことができない笑い声が響いた。


ボボッ

ボボッ


ブンさまは抱きしめた本を

そっと下ろし表紙を撫でた。

そして二人を見て頭を下げた。


「私も彼にとって

空気のような存在になれたら…

嬉しい…です。」


小さくつぶやいたその時

パラパラとページが捲れ

一枚の青い封筒が吐き出された。


ふよふよと舞いながら

差し出された澪の手の中に降りて来た。


金木犀の香りが漂った。



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