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涙の海  作者: 黒米 紅子
ブンさまの海
32/51

波紫

パラリ

本を捲る音に、より静けさを感じる

ブンさまは モップを手に汚れた床を

ゆっくり拭いた。


男性は夢中で本を読み

カサカサとメモを取っている…。

ブンさまが見つめているのにも気づいていないようだった…

目元を親指と人差し指で挟んでグイっと押し

また改めててページを捲る。


ブンさまはカウンターに戻った。

アンちゃんは冷えてしまったコーヒーマグを

手持ち無沙汰にクルクルと回していた。


「声をかけないの?」

「なぜ?なんの為に?」

「だって疲れていそうだよ。何度も目をシバシバさせてるよ」

アンちゃんがトンとカップを置いた。


ブンさまは答えなかった。


カウンターの一輪挿し。

波紫の花弁を、そっと指先でつつく。


花は小さく揺れ、

また静かに元の場所へ戻った。


小さく息を吐く。


「……最初は、本当に何も感じなかったんです。」


最初は何も感じなかった。

大勢いる利用者の一人。

「おはよう」

「おはようございます。」


ただ要領の悪い人なんだと思った。

本を何冊もかかえ 調べ物をし

その本を脇に置く。…肘が当たって落とす。

拾う…落とす…繰り返す。

なぜ、自分の前に置かないんだろう。

それが始まりだった。


そのうち、

寒いのに厚着をしてこないで震えながら本を読む。

眠そうなのにうつらうつらしてでも調べてる。

空咳をして喉の渇きを誤魔化してでも

席を立たない。


「おはようございます。」

「あぁおはよう」

「今日は良い波間ですね」

少しずつ会話が増えるにつけ ますます気になった。


何を調べてるんだろう。

何を書いてるんだろう。


何か発見するとガシガシと頭を掻く。

嬉しそうに指で行を追って行く。

眠くなると足をつねる。


植物学者だと知った。

食事も取らない事もあると知った。

寝るのも忘れるのを知った。

コーヒー好きなのも知った。


「おはよう」

「おはようございます。

今日は『失敗しないドライフラワー』が入りましたよ」

「わー助かる。希少な植物は残しておきたいからね」


本棚を散歩するように歩く彼

カウンター越しに目が合うと微笑む彼

そして

「美味しいコーヒーだった。ありがとう」

そう言ってカップを返す時に触れた指先。


何かが流れ込んで来る。

分析ができない。

利用者として接すれば良いだけなのに…。


来ない日は気になってしまう。

来てくれれば、安心してしまう。

だからここに来てくれるだけで

素のままの姿を見せてくれるだけで

そこに居てくれるだけで

ヨシとしよう。そう思った。


でも本当は

ブンさまは俯いた。


「怖いです。この気持ちが分析できない事が…」


沈黙が続く。

アンちゃんがあっけらかんと答えた。

「じゃ、本人に聞けばいいじゃない?」

『あなたを分析できません。』

『ご一緒していいですか?』って。

「それだけだよ。」


澪は黙って、2つの新しいマグカップに

ポットからコーヒーを注いだ。

スッとカウンター越しにブンさまに押す。

「暖かいうちに…」


ブンさまはカップを二つ手にして

彼を見ながらホッとため息をついた。

彼は夢中でページをめくっている。


それからカウンターのスイング扉を開けて

彼の方へ近づいた。


深呼吸を一つ


「…ご一緒していいですか?」


コトリ

カップを置く音がした。


「あ、ありがとう。ちょうど一息入れたかった。」

彼はそういってマグカップを手にした。

「よかったら座って飲まないか?」


肩の力はフッと抜け

ブンさまは彼の前に腰掛けた。


「花…好きなんですね…」

「あぁ、特にこの波紫が好きだな。…」

「…」

「この花の特徴は この紫の花びらが顎だって事。

花はこの中の小さな実なんだ…」

図鑑を広げ嬉しそうに語り出す。

「…そうなんですか。実に見えて花なんですね」

「そうそう、面白いだろう?どうやって受粉するのか

不思議でならない」

ゴクゴクとコーヒーを飲む。

「固そうに見えるけど、実は柔らかく

だけど誰もこれが開いたのを知らないのに

…ちゃんと花になる。不思議だよね」


彼はじっとブンさまを見つめた。

ブンさまは遠くに視線を置いた。



「……まるで君のようだ」


ブンさまの肩が跳ねる。

彼は自分で何を言ったかわからない様子で

ぼんやりと外を見ている。


「ここは本当に居心地がいい。」


何事もなかったかのように時間だけが過ぎて行く。

ページを捲る音

カリカリとメモを取る音。


図書館は、いつもと何も変わらない。


けれどブンさまには、

自分の鼓動だけが

誰よりも大きく聞こえていた。







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