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涙の海  作者: 黒米 紅子
ブンさまの海
31/54

分析です

澪は日誌をさらに読み進めた。


日を追うごとに

利用者への配慮が増えて行く。


海底月 40日目

本日の入荷

心を落ち着かせる本

食せる花々

今日は寝ぼけているのか、何度も本を落としている。

慌てて出て来たのだろう。寝癖もついていた。

何冊も植物図鑑を広げてブツブ言っているが

ノートの文字は進んでいない様子だ。

時折 ガシガシと頭を両手でかいている。


今日は練習したコーヒーを淹れてみた。

少し苦い。私の口には合いそうにない為

勧めてみた。「ありがとう」と言われた。

※自分で飲もうとしたが、忙しく飲めないので

無駄になるからときちんと説明した。



「これって…」

「分析です」

「恋ではありません。利用者の為の分析です。」

ブンさまは耳をほんのり赤くさせた。


演台の日誌が

パラパラとめくり終わり

パタリと閉じた。

そしてふるふると揺れると

ブンさまの腕の中へ戻って行く。

薄紫の光が次第に消えて行った。


「ありがとうございました。」

ブンさまが頭を下げると

ザワザワと本達が囁き出す。


花達がまた

ゆらりゆらりと揺れ出した。

静かだった最奥の部屋が、

また呼吸を始めた。


日誌を抱きしめ

「戻りましょう」と

早歩きで演台から離れる。


澪も辺りを見回して

そっと頭を下げた。


心は見えない。

でも本達は知っている…

ドアの前でブンさまが待っている。

月明りのドアを開ける。

スズランが

一つ一つと花を咲かせるように光が灯った。

扉を閉めるともう月明りは見えなかった。


ドアの向こうにもう一度頭を下げた。

「私も自分の心を…読みたい」

小さくつぶやいてブンさまの後を追った。


本棚の道が次第に明るくなって行く。

囁き声は聞こえない。

ただ 誰かが開くページの音だけが聞こえていた。


慌てたようにカウンターに戻るブンさま。

時計をチラリと見て、

台帳を開き

カウンター越しに澪に声をかけた。


「アンさまを起こしてくれますか?」

振り返ると窓際の大きなソファから

足を半分だけ落として

胸の上に本を置いたままアンちゃんが寝ていた。

窓の外では、ボコが半眼でじっとこちらを見ていた。


澪が


「アンちゃん。」と肩を揺する。

「アンちゃん起きて」


「……ふぇ?」

寝ぼけまなこでアンちゃんが答えた。


「コーヒー淹れましょうね。」

アンちゃんがニヤニヤ…。

澪もクスクス。


「……利用者の為ですから」

ブンさまが慌ててカウンター内に戻った。

既にシューシューと言うお湯の沸く音がしている。


ゆっくりと身を起こしてアンちゃんが大きく伸びをした。窓の外のボコがびっくりしたように

大きな目を開いた。


澪は胸の本を指さして聞いた。

「もう読まなくていいの?」

すると腕を上に上げたままの

アンちゃんがにっこりと笑った。

「今日は読まない。」

「今日はブンさまを読めたから。」


コポコポとコーヒーを入れる音がする。

「こちらへどうぞ」と

L字になったカウンターの端を示した。

マグカップ入ったコーヒーを二人の前に置く。

マグを手にしてコーヒーの香りを

胸いっぱいに吸い込んだ。

「いい匂い」「美味しそう」

苦味と酸味が口の中に広がった。


ドアがゆっくりと開いた。

ボサボサの頭がのぞき、男性が顔を出した。

人の良さそうな丸い顔、

ちょっと猫背気味で首をすくめるように辺りを見回す。

カウンターのブンさまを見つけると

「居た!」と嬉しそうに

パタパタと走り寄って来た。


「ブンさま、こんにちは」

「はい」

「やっと学説が仕上がったんです!ありがとうございます。」

「私は何も…」

「眠い時コーヒーをいただいたり、ボタンをつけたりしてくれたでしょう。僕は自分に無頓着なんで助かりました。」

コクコクと頷きながら話男性。

植物を弄って来たのか袖口には青い葉っぱが付いている。

靴の先には泥汚れもある。


ブンさまは少し顔を顰めた。

「ご利用される方によりよく過ごして頂きたいので

その一環です」

丸いメガネの縁に指を置き 

クイっとあげながら話した。

「靴の汚れは入り口で落として下さいね」


「あ!すみません、ちょっと実験してみたく…て

と言葉を尻すぼみに言ったあと


「これは!波紫!」

「はい」

「どうしてここに!実物を見るのは初めてです。」

「たまたまです」

ブンは答えた。

「こ、これに関する本ってありますか?」


「はい、ございます」

ブンさまはカウンターの下から本を取り出して

手渡した。

「ありがとうございます」

男性はウキウキしながら、長テーブルに向かって行った。


床には泥が落ちていた。


床には泥がぽつりぽつりと落ちていた。


ブンさまは小さく息をつき

雑巾へ視線を向けた。


「分析が必要ですね…。」




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