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涙の海  作者: 黒米 紅子
ブンさまの海
29/32

最奥の扉

サクサクと足元の砂がほどけた。

ホテルのラウンジから

図書館に向かう。

途中、ボコが直した?

塔を通り過ぎる。


見上げるほど高い塔。

窓からはひっきりなしに

魚達が出入りしている。


大きなエイが最上階から飛び出して行った。

立ち止まって見上げた。

背に誰かを乗せているんだろうか?

目を凝らすように見上げて探した。


【誰を?】


行き過ぎるエイを振り返って見ていると

アンちゃんに袖を引かれた。


「どうかした?」

澪は首を振った。

自分でも何を探しているのかわからなかったから。

気を取り直しアンちゃんに尋ねた。


「涙の海の図書館ってどんな感じ?」

「涙の海の図書館にはね、本がいーっぱいあるの。」


…アンちゃんそれって図書館だから当たり前。

そう笑って返そうとした澪は

あまりのアンちゃんの真剣な様子に

言葉を飲み込んだ。


「でも、一番奥には特別なお部屋があるんだ。」

「特別なお部屋?」

「うん。」


アンちゃんは人差し指を一本立てた。


「あの扉はね、その人に必要な本を図書館が選ぶの。」


「必要な本?」


「そう。」


「誰でも入れるわけじゃないの。」


「扉が開くのは、選ばれた本人だけ。」


「だから……。」


アンちゃんはにっこり笑う。


「今回は澪さんだけの一室。」


「澪さんだけに必要な本が、待ってるんだよ。」


澪はもう一度、手の持った招待状へ目を落とした。


〔最奥の扉を開放いたします。〕


その一文だけが、不思議な重みを持って胸に残る。


まだ知らない誰かの物語なのか。


それとも――。


忘れてしまった、自分自身の物語なのか。


金木犀の香りが、もう一度ふわりと漂った。


後ろからボコが

なぜだか[やれやれ…]と言うように

のっしのっしと着いてきた。



大きな重そうなドア。

ドアにはペンと封筒の装飾が施されている。

少し黒ずんだ金色のドアノブ。

澪は息を呑んだ。


…澪だけの一冊


このドアを開けてしまえば

本当に後戻りはできなくなる。

そう確信に近い思いが込み上げてくる。


自分自身に問いかけた。

【良いの?澪…

何かが変わってしまうかもしれないのよ?】


オレンジ色の並木道

懐かしい金木犀の香り

『また丘に行ってたんだね?』

心を温める誰かの声。


ここまできたのだ。

もう後戻りはしない。

澪は大きく頷き、ドアノブに手を伸ばした。


図書館の扉が音もなく開く。

紙の香り。

木の香り。

少しだけインクの匂い。

思わず深呼吸したくなる空気が広がっていた。


思わず目を閉じ

息を整える。

ページをめくる音だけが、

どこからともなく聞こえる。


「ようこそ。」

優しい女性の声が響く。

澪が目を開けると本を抱えた女性が微笑んでいた。


ゆるくまとめた栗色の髪。

丸い眼鏡。

生成り色のワンピースに、長いカーディガン。

胸元には、小さな栞を模した銀色のブローチ。

年齢は三十代にも四十代にも見える。


本と一緒に年を重ねてきたような、

穏やかな人だった。


彼女の奥には


高い天井まで届く本棚が広がっていた。

本棚へ続く通路を

避けるように配置された長いテーブル。

窓脇にはゆったりとしたソファ。


カウンターには

小さな一輪挿し。

紫の花がひと枝さしてあった。


本棚には、淡白い光が

窓から差し込んでいる。

その様子は

まるで本が小さく息をしているようだった。


本達が迎え入れてくれた。

澪はそんな気がした。


「私は文。」

「皆さんには『ブンさま』と呼ばれています。」


彼女の腕の中には

小さな本が抱きしめられるように

収まっていた。


「図書館長さん……ですか?」


澪が尋ねると、女性は少し照れたように笑う。


「館長というより、本のお世話係ですね。」


「本は、自分で行きたい人を決めるので。」


澪は思わず本棚を見上げた。


本たちは静かに並んでいるだけなのに、

今はみんながこちらを

見つめ返しているような気がした。


「それでは参りましょうか」


右手をどうぞと差し出し

ブンさまが促した。


「澪さんを待っている一冊のところへ」


一歩踏み出す。


本棚の間を抜ける空気までが、

澪を奥へ誘っているようだった


ブンさまは黙って本棚の奥へ歩き出す。

ついて行きかけ

アンちゃんを振り返った。


「いってらっしゃい」

声を出さずにアンちゃんが言った。


澪は頷き、ブンさまの後を追う。


奥へと続く

本棚の間へ…。




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