二人の約束
夜のホテルラウンジ。
宿泊客の笑い声も静まり、窓の外では海月がゆっくりと漂っていた。
まやは温かな紅茶を両手で包みながら、小さく笑った。
「私ね。」
「ちゃんと伝えているつもりだった。」
夫も苦笑する。
「俺も。」
二人は顔を見合わせる。
「でも、伝わってなかった。」
澪は静かに耳を傾けていた。
夫がぽつりと話し始める。
「仕事を頑張ることが、まやを大切にしていることだと思ってた。」
「疲れて帰っても、そばにいるだけで伝わるって。」
まやは首を横に振る。
「私はね。
傍に居るだけで幸せだって自分に言い聞かせてた。」
「でも、本当は違った。」
少し照れながら笑う。
「寂しかった。」
夫はゆっくりとうなずく。
「その一言が聞きたかった。…言ってほしかった。」
「言わなくてもわかるって、勝手に思ってた。」
まやはテーブルの上に手を伸ばく。
夫もそっとその手を包む。
「だから約束しよう。」
二人は顔を見合わせて笑った。
「悲しいときは、『悲しい』って言おう。」
「寂しいときは、『寂しい』って言おう。」
「ぎゅっとしてほしいときは、『抱きしめて』って言おう。」
「頭を撫でてほしい日は、『撫でて』ってお願いしよう。」
「褒めてほしい日は、『今日は褒めて』って笑って言おう。」
夫が少し照れくさそうに続ける。
「ありがとうは、その日のうちに。」
まやも頷く。
「ごめんねも、その日のうちに。」
「嬉しかったことは、ちゃんと口にする。」
「好きも、恥ずかしがらない。」
夫は照れ笑いを浮かべた。
「……それ、結構難しいな。」
「だから約束なの。」
まやはいたずらっぽく笑う。
「伝えることと、伝わることは違うから。」
「言葉だけでも足りない。」
「行動だけでも足りない。」
「言葉と行動が一緒になって、やっと心に届くんだと思う。」
澪は隣のテーブルから
二人の繋がれた手を見つめていた。
伝えること。
伝わること。
その間には、小さな勇気が必要なのかもしれない。
窓の外では、穏やかな海が月明かりを映して揺れている。
まるで二人の約束を祝福するように、静かな波紋がどこまでも広がっていった。
「閉じ鍋に割れ蓋の夫婦だね~
あ…違った割れ蓋に閉じ鍋…だったわ」
「アンちゃん!!言い方!」
小さなクスクス笑いが
静かなラウンジに流れて行った。
部屋に戻り
澪は金木犀の香りが
まだ微かに残る招待状を胸に抱き、
小さく息を吸った。
忘れているはずの記憶。
それでも確かに心に残っているぬくもり。
その答えは、まだ海の底深くで静かに眠っていた。
「閉じ蓋ってアンちゃんてば。」
思い出し笑いをしながら静かに澪は横になった。
【夢…みれるかな】
朝、小鳥のさえずりで澪は目を覚ました。
「……鳥?」
海の底なのに。
思わずカーテンを開ける。
窓の外には、どこまでも青い海。
色とりどりの魚が朝日に照らされ、
きらきらと泳いでいる。
なのに確かに、小鳥の声が聞こえた。
「ここ、本当に不思議。」
昨夜はいつ眠ったのかも覚えていない。
夢を見たかも覚えていない。
ふかふかのベッドから降り、
身支度を整えると、
朝食の香りに誘われるように部屋を出た。
ホテルのレストランには、
柔らかな光が差し込んでいた。
白いクロスのかかったテーブル。
焼きたてのパン。
色鮮やかなサラダ。
湯気の立つ黄色いオムレツ。
そして、皿の横には深い青色の封筒が一通。
「また……。」
澪は自然と封筒を手に取る。
そっと鼻先へ近づけ、大きく息を吸い込んだ。
ふわり。
甘く優しい香り。
「……金木犀。」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
会いたい。
誰に?
わからない。
でも、この香りを吸い込むたびに、
胸のどこかが切なくなる。
「会いたい……?」
自分の口からこぼれた言葉に、澪自身が驚いた。
その隣では、
アンちゃんがフォークで
オムレツを細かく切り刻んでいる。
ぷす。
ぷす。
ぷす。
黄色いオムレツは見る見るうちに小さくなっていく。
「……アンちゃん?」
返事はない。
「どうしたの?」
「別にぃ。」
口を尖らせたまま、さらにオムレツを刻む。
「オムレツが何かした?」
「してない。」
「じゃあ、どうしたの?」
アンちゃんは大きくため息をついて、
ようやく顔を上げた。
「だってぇ……。」
「今日は図書館なんでしょ?」
「図書館?」
澪は招待状を開く。
そこには流れるような美しい文字が綴られていた。
〔図書館へのご招待。〕
最奥の扉を開放いたします。
「最奥の……ドア?」
アンちゃんの表情がぱっと明るくなる。
「最奥のドア!
あー! ブンさまだね!」
「ブンさま?」
「図書館長さん!理知的で憧れなの!」
アンちゃんは嬉しそうに身を乗り出した。
「ブンさまは推しよ!推し」
オムレツを口に入れながら澪が問いかける。
「それならなんで不機嫌だったの?」
「……寝ちゃうのよ。活字読むと。」
「だから毎回、ブンさまに起こされるの。」
「起こされる?」
「『アンさん、閉館です。』って。」
「……閉館まで寝てるんですか。」
「えへ。」




