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涙の海  作者: 黒米 紅子
まやっちの海
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必要な時

「何!?いつの間に?」


指先で封筒の縁をなぞりながら

澪が呟く。

ハタと気づいて

「アンちゃんなの?」と問いかけた。

ゆっくり首を横に振り

「私じゃないわ。」

「招待状は必要時にやって来るだけ」


 窓の外に長く伸びた

 オレンジの光を遮るように

 大きなエイが翻って泳いで行く。


トクン…

澪の胸の中が音を立てた。

なんだろう…開けないといけない気がする。

開けないと後悔するような

そんな想いが込み上げる。


封筒を手にし

封蝋を割る。

立ち昇る金木犀の香り。


「あ…」

目の前のアンちゃんの姿がゆらゆらと揺れ

オレンジ色の並木が浮かんだ。


『また丘に行ってたんだね』

『香りでバレてるよ』


誰かが何かを言っている

澪には聞こえない。

陽炎のように消えていく景色。


胸の奥がきゅっと締めつけられた。


懐かしい。

そう思った。

ーでも、何が懐かしいのか分からない。


夕暮れ。

笑い声。

誰かの横顔。


一瞬だけ浮かび上がった景色は、

海へ落ちた雫のように静かに消えてしまう。


「澪さん!澪さんてば!」

アンちゃんが心配そうにこっちを見ていた。

「どうしたの?ボーっとして…

大丈夫??」

「あ、大丈夫です」


「そう…ならいいけど。」

アンちゃんは微笑んで、

澪が手にしている

青い封筒へ視線を落とした。


「招待状、開けないの?」


澪は黙って招待状を開いた。

カードには、整った文字でこう記されていた。


【招待状】


 当ホテルをご利用いただき、

 ありがとうございます。


 特別に、

 オーナーとのディナーへ

 ご招待いたします。

 午後6時

 ラウンジでお待ちしております。


澪は思わず息を呑んだ。


「オーナーと……ディナーなのね?」


アンちゃんは、いたずらっぽく笑う。


「ふふっ。

このホテルで一番予約の取れない相手なのよ。」



一旦 部屋で一呼吸置く事にし

アンちゃんと別れた。

ドアの開くと 部屋がオレンジ色に染まった。

ベットの端に腰掛けて

澪は招待状を、再び開いた。

金木犀の香りはもうしない。

でも胸のどこかに残像だけが残っていた。


誰かが私に何かを伝えていた。

何を?

答えを私は知らない。

そっと目を閉じる。


うつらうつらするうち

澪は眠ってしまったようだった。

夢の中で澪は泣いていた。

『心配しないで、澪』

頬を撫でられた気がした。


「澪さん時間よ~」ドアをノックする音で目覚めた。

夢はすっかり澪の頭から消え去っていた。

「あれ?いつのまにか寝ちゃってた」


夢の記憶はないが

夢を見た記憶だけが残っていた。

…なぜか切ない。

ドアを開けるとルンルン気分が隠せないように

早く早くとアンちゃんが手を引く。



海の中だということを忘れてしまいそうな、

小麦の甘い匂い。

木目の大きなテーブルがゆったりと並び、

天井から吊るされた貝殻の照明が、水面の揺らぎとともに静かな光を落としている。

窓の向こうでは、色とりどりの魚が群れをなし、

その間をボコがゆっくりと泳いでいた。


「こちらよ。」

アンちゃんに案内され席へ着く。

丸いテーブルに

椅子が3つ

「まやっちさん 忙しいんですって。」

「先に召し上がってて下さいですって」

ちょっと膨れっ面でアンちゃんが言った。


運ばれてきた夕食は、驚くほど質素だった。

丸い木皿の上には、小ぶりな魚料理。

湯気の立つ濃い色のスープ。

そして、焼き色のついた丸いパンが二つ。

豪華さはない。

けれど、一つひとつに丁寧な仕事が感じられる。

澪は焼きたてのパンを手に取った。

指先へ伝わる温もり。

半分に割ると、ふわりと湯気が立ち、小麦の甘い香りが広がる。

一口かじる。

「……甘い。」

砂糖の甘さではない。

噛むほどに広がる、小麦そのものの優しい甘みだった。

外は香ばしく、中は驚くほどしっとりしている。

「おいしい……。」

「ホント乙女さん 幸せなんだね~」

二人とも思わず頬が緩む。


続いてスープを口へ運ぶ。

見た目よりもしっかりとした味。

野菜の甘みの奥に、海の旨みが重なり、

身体の芯から温まっていく。

そしてメインの魚へフォークを伸ばしたところで、澪の手が止まった。

「……。」

窓の外を泳ぐ魚たち。

皿の上の魚。

見比べる。

「海の中で魚を食べるって……いいのかな。」

ぽつりと呟く。

アンちゃんは吹き出した。

「あははっ!」

「気にした人、澪さんで三人目!」

「三人もいたんですか。」

「安心して。」

アンちゃんは胸を張る。

「この子たちは食用のお魚。」

「外を泳いでる子たちはホテルのお客様。」

「なるほど……。」

「だから、お客様は食べちゃ駄目よ。」

「食べません。」

思わず笑ってしまう。






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