表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
涙の海  作者: 黒米 紅子
くるみの海
21/32

揺れるブランコ

どこからか

懐かしい香りがしている。

ミクが、ツンツンと澪の膝を突きテーブルを指差した。


湯気を立てている琥珀色のお茶

ガラスのティーポットには金色の花が開いている。


「金木犀…」

澪の言葉を聞き取ったのか

くるみが続けた。

「はい、金木犀の紅茶です。召し上がって」


カップを手にして目を閉じて甘い香りを吸い込む。

目の前に金木犀の並木が見えた。

…オレンジの小さな花々が風に揺れている


まただ。

懐かしいのに思い出せない。


「澪さん?」


慌てて目を開け残像を追い払う。

そっと口に含んで紅茶は思ったより苦かった。


「苦いね」アンちゃんが小さい声でクスっと笑って言った。

「うん」そう返事をして澪はもう一口、 口をつける。


甘い香り…思い出の中に

苦味…切なさの味がした。


ミクは、サクサクっとクッキーを食べていた。

時々 隣のブランコを見て手を振る。

海に揺れるブランコは止まることを知らない。

澪はぼんやりと揺れるブランコを眺めていた。


「話を聞いて下さいますか?」

コトリとカップを置く。


ミクがくるみの顔をじっと見つめている。


くるみは優しくミクの頭を撫でる。

そして少しだけ俯いた。


次の言葉が続かない。


ミクは母親の袖を握った。

小さな手。

くるみはその手を包み込むように握り返した。

「私は……」

視線が自然と噴水の向こうへ向いた。

誰もいないブランコが、ゆっくり揺れている。

まるで見えない誰かが座っているみたいに。

「主人を亡くしているんです。」


波が止まったような気がした。


ミクは黙ったまま膝の上を見つめている。


くるみは少しだけ微笑んだ。

泣かないようにする人の笑顔だった。


「もう三年になります。」

そう言いながら。

視線はずっと、あの空っぽのブランコへ向けられていた。


キィ…ブランコが小さく音を立てた。

ミクは一瞬ブランコを見て

弾かれるように、くるみの膝に登り

母親の頬をそっと撫でた。


「ありがとう、ミク。大丈夫よ」

ぎゅっとミクを抱きしめた


ただ、くるみの肩越しにブランコを見つめている。


その視線を追うように澪も振り返った。

ブランコは相変わらず揺れていた。

海流のせいだろうか。

それにしては不思議な揺れ方だった。


前へ。


後ろへ。


まるで誰かが足で地面を蹴っているように。


「主人は海洋調査の仕事をしていました。」

くるみが静かに話し始める。

「三年前、海外で事故があったんです。」


キィ…キィ


「船が嵐に遭って……」


そこで言葉が途切れた。

ミクの背中を撫でる指先が少し震えている。


「捜索は続けられました。でも――」


その先は言わなかった。

言わなくても分かる。


見つからなかったのだ。

くるみは一度目を閉じた。


「だから私は、きっともう……」

言葉を飲み込む。


亡くなった。


そう言おうとして。

言えなかった。

ミクがいるから。


それとも。


自分自身がまだ認められないから。

澪には分からなかった。

その時だった。


ミクが、首を大きく横に振った。

くるみの袖を引き ブランコを指差す。

何度も何度も

同じ動作を繰り返す。


「もう良いのよ、ミク」

ゆっくりとミクの手を袖から外し

泣き笑いで言った。

「もういいの…」



ミクの表情が一瞬だけ怒りに

そして泣きそうな顔になった。


「ミク。」


優しく諭すような声。

けれどミクはまた首を横に振った。


そして小さな指をブランコへ向けた。


波が揺れる。

ブランコが大きく揺れた。


キィ――。

澪は思わず目を凝らした。

誰もいない。

誰も。

いないはずなのに。

ほんの一瞬だけ。

揺れるブランコの後ろに、人影が立っていた気がした。


澪は息を呑む。

瞬きをした。

もうそこには何もない。


ただ…

ブランコだけがゆっくりと揺れている。


キィ……


キィ……


まるで誰かを待ち続けるように。


「おかわりどう?」

アンちゃんの明るい声が響く。

いつの間にか立ち上がり、

皆の空いたカップへ紅茶を注いでいる。


とくとく、とくとく。


金色の花がポットの中で踊った。

張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。

甘い香りが 

くるみを

ミクを優しく包んだ。


アンちゃんは何も聞かなかった。

何も言わなかった。

ただミクの前に小さなクッキーを一枚置く。

亀の形をしたクッキーだった。


「ボコ 食べちゃっていいよ」

ミクは、アンちゃんの顔をポカンとした様子で見上げた。

大きなボコの姿と

クッキーを順番に見る。

「飲み込めない事は

バクバクって食べてやっつけちゃお」


ミクは少しだけ唇を尖らせ

そのクッキーを見つめていた。

手に取り怒ったように、ザクっと噛んだ。


噴水の光が揺れる。


ブランコも揺れる。


その向こうで。


ほんの一瞬だけ。


誰かがクスリと笑った気がした。








評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ