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涙の海  作者: 黒米 紅子
乙女の海
17/32

小さな手の招待状

「戻りましょう」


そう言って澪の腕を取った。


「乙女さんは?」


「彼が送るでしょう…」


手を引かれて振り返ると 二人が向かい合っていた。

「大丈夫かな」


シャン!

手綱が鳴った。


「あの二人、どうなるんでしょう。」


「乙女さんがよく言ってたわ。

パンも恋も同じ。嬉しいと膨らむ。

悲しいと固くなる。」


「明日のパンの出来栄えでわかるかもね」


クスクスと笑ってアンちゃんはまた手綱を鳴らした。


「今夜はホテルに泊まって

明日は早くから迎えに行くわ。

パンの結果を食べたいでしょ?」


ホテルに到着するとアンちゃんが部屋まで送ってくれた。


「ちゃっーんと寝る事」


「はい」


ドアを閉めると部屋の電気が点いた。


あまりの眩しさに目を細めて窓の外を見る。


部屋の明るさのせいか、より暗くなっている外。


澪はそっと照明を落とし、外を眺めた。


窓に手をつくと、その冷たさが心地よかった。


窓ガラスに


泣きながら笑う乙女の姿が見えた気がした。


好きって言ってた。


好きなのをやめられないとも…。


私には好きな人が居たんだろうか。


…胸がチクリと痛んだ。


首を振り、ベッドに服のまま横たわる。


瞼を閉じると 白い手袋が思い浮かんだ。


【どうして?】


目をあける。


天井が僅かな光を浴びてゆらめく。


オレンジ色の輪が揺れる。


不意に金木犀の香りがした。


『また丘に行ってたんだね。』


笑い声が聞こえる。


声を追いかけるように、澪は瞼を閉じた。


翌朝。


ホテルのラウンジには、

焼きたてのパンの香りが静かに漂っていた。


窓の向こうでは、

朝の光が海をやわらかく照らし、

小魚たちが光の柱をくぐり抜けて泳いでいる。


「こっちよ澪さん!」


澪に気づくと、アンちゃんが

大きく手を振る。


厨房のスイングが大きく開き


「おはよう!」と乙女が飛び出して来た。


その笑顔は変わらない。

いや、少しだけ違っていた。


昨日まで胸の奥に沈んでいた重さがほどけたように、

肩の力が抜けている。


「今日は自信作やで。」


そう言って差し出されたパンは、

昨日より少し小ぶりだった。


焼き色はやさしく、表面はふっくらと膨らみ、

指で触れるだけでふわりと押し返してくる。


澪は両手で受け取り、ひと口かじった。


香ばしい表面を抜けると、中は驚くほど軽い。


噛むほどに、小麦の甘みがゆっくりと口いっぱいに広がる。


「……甘い。」


思わず目を閉じる。

昨日も甘かった。

でも今日は違う。

甘さが残らない。


ふわりと溶けて、やさしく消えていく。


「口当たりまで変わった……。」


そう呟くと、乙女は照れくさそうに笑った。


「少しだけ焼き方変えてん。」


アンちゃんがパンをちぎりながら微笑む。


「恋の味も変わったのかもね。」


「もう、アンちゃん。」


乙女は困ったように笑う。


「すぐそうやって茶化す。」


けれど、その頬はどこか嬉しそうだった。


澪はもう一口、パンを口へ運ぶ。

昨日までの乙女なら、このパンはもっと重かった気がする。


胸へ沈むような甘さだった。

恋を諦めようとして。

忘れようとして。

苦しみを押し込めたまま焼いていたパン。


今は違う。


苦しみは消えていない。

恋も終わっていない。

それでも乙女は、自分の「好き」を否定することをやめた。

その想いを、心の中に居場所を作ってあげた。


だからこんなにも軽い。

こんなにもやさしい。

澪は窓の向こうの海を見つめた。


ゆらゆら揺れる光。

静かに泳ぐ魚たち。

そして、自分の胸へそっと手を当てる。


「私は……。」


小さく呟く。


「乙女さんみたいに。」

「ちゃんと、自分の気持ちを受け入れて生きてきたんだろうか。」


その問いに答える人はいない。


けれど、その瞬間。

胸の奥が、ずきりと痛んだ。

忘れた?

そうじゃない。

失くした?

それとも。

どこかへ置いてきた。

そんな感覚。


思い出そうとすると、目の奥が熱くなる。


胸が締めつけられる。


苦しい。


涙が出そうなのに、一滴も流れない。


「何を……忘れてるんだろう。」


その言葉は、自分でも驚くほど寂しい声だった。


思い出せそうで思い出せない。


その"あと少し"が、一番苦しかった。


心の奥に誰かがいる気がする。


大切だった誰か。


思い出したら、きっと泣いてしまう誰か。


なのに、その顔だけが、白い霧の向こうへ隠れている。


胸が痛い。


こんなにも痛いのに、名前すら思い出せない。膝の上で手を握り締め、目を閉じた。


「どうして……。」


その時、

暖かい小さな手が澪の硬くなった手に触れた。


「はっ?」


横には4、5歳くらいの女の子が立っていた。


彼女の小さな指が澪の拳をトントンと突く。


ゆっくりと手のひらを開くと、

にっこり笑って青い封筒を置いた。



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