震える声
乙女は答えない。
グラスの中のハーブティを見つめる。
氷が、からりと鳴った。
「……会いたいよ。」
ぽつり。
「そんなん毎日思っとる。」
「今は……会うん、怖い。」
ラウンジの窓の向こうでは、小魚の群れが静かに流れていく。
「もし、本当に奥さんがおって……。」
「子どもがおって……。」
「私だけが何も知らんかったら。」
焼酎の入ったグラスを握る手が、小さく震えていた。
「全部終わってしまう気ぃする。」
澪はゆっくりと首を振る。
「終わるかどうかは、会ってから決めてもいいと思います。」
乙女は顔を上げる。
「今の乙女さんは。」
「想像で苦しんでいます。」
「本当の彼は、まだ何も話していません。」
アンちゃんも静かに頷いた。
「恋はね。」
「答えを想像し始めると、心が一人で走っちゃうの。」
「だから、ちゃんと会うの。」
「ちゃんと見るの。」
「ちゃんと聞くの。」
遠くからボコの優しい声が聞こえた。
「ボア……。」
乙女は目を閉じ、小さく笑った。
「……せやな。」
「会わな、終われへん。」
「会わな、始まらへん。」
「じゃ行きましょう!」
「今から?」澪も驚く。
「アンちゃん 急がば回れって言うやん」
「乙女さんの場合は【好機逃すべからず】だわ」
すくっと立ったアンちゃんが言う。
「それにね、ボコがもう待ってる」
顎で示した窓の外には
ソリを背負ったボコがゆったりと待ち構えていた。
「あれって澪さんの帰り用ちゃうの?」
コソコソっと乙女が呟いた。
それでも決心したのだろう。
「行くわ、行こう!行くしかない。」
涙の海は静かに揺れていた。
ボコの背に揺られながら、
乙女は一度も後ろを振り返らなかった。
向かった先は、彼が今も担当している営業先の展示場だった。
展示会場の片隅。
少し色褪せた営業バッグ。
見慣れた背中。
「……。」
彼は乙女に気づくと、驚いたように立ち尽くした。
「乙女……?」
何かを言おうとして、言葉が出ない。
乙女も同じだった。
会いたかった。
聞きたかった。
責めたかった。
違う。
そんなことじゃない。
ただ、会いたかった。
その一言だけが、喉の奥で何度もつかえていた。
「…会いに来ちゃった」
「うん。」
「会いたかってん」
「俺も…。会いたかった。」
乙女は広げた彼の胸に飛び込んだ。
彼はそっと乙女を抱きしめた。
ポロリと涙が溢れ落ちた。
「会えへんし、電話も減るし
なんでなんで?嫌われた?って思った」
彼の抱きしめる力が強くなった。
「ごめん」
乙女は彼の目を見る。
「電話も減るし」
「会えへんし」
「私なんかしたんかな?って」
「してない」彼が首を振る。
「嫌われたんかいなって」
「違う!」
「ほななんで?」
「好きなパンも。」
「好きなコーヒーも。」
「笑い方も。」
「知っとるし気になっとった。」
「せやけど。」
「帰る家も。」
「守る人も。」
「あんたの現実は何も知らんかった。」
彼が目を伏せる。
「……うん」
それ以上彼は何も答えなかった。
抱きしめる手が
小さく震えていた。
乙女は深く息を吸う。
「でもな。」
「それでも。」
「好きや。」
涙が一粒こぼれる。
声が震える。
「好きになった気持ちは。」
「嘘やなかった。」
「誰にも返されへん。」
彼も目を赤くして乙女を見た。
「俺も。」
「お前が好きだ。」
「会うたびに。」
「会わない方がいいんだと思っても。」
「好きや。」
二人とも声を殺して泣いた。
誰かを奪うためではない。
誰かを責めるためでもない。
好きになってしまった心を、
ようやく二人で認められた涙だった。
しばらくして二人は離れた。
手だけは繋げている。
「…どうしよ、好きなのやめられへん」
彼は小さく笑った。
また泣きそうな顔で。
「知ってる…知ってるよ。」
乙女の肩が震える。
「俺もやめようと思ったんだ。」
「何回も。」
「電話もしないようにして。」
「仕事も他の奴に頼んで。」
「会わなかったら、そのうち忘れるかなって。」
声が詰まる。
「……無理だったから。俺も。」
「なぁ。」
乙女が顔を上げる。
「なんで言わんかったん。」
彼が目を閉じる。
長い沈黙。
「嫌われたくなかった。」
彼は乙女を引き寄せた。
「俺は、お前を騙そうと思ったことは一度もない。」
「でも……話せなかった。」
「話したら、お前が離れていくと思った。」
乙女は苦笑する。
「離れるやろ普通は。」
彼が苦笑いで言う。
「だから、言えなかった。」
乙女が鼻を啜った。
「アホやな」
「そういう乙女だって」
「なん?」
「姫さんじゃ無くなってるよ。」
乙女が真っ赤な目を見開いた。
「い、いつから?」
彼が肩を震わせた。
「最初から」
「嘘や」
「ほんと、電話でもちょくちょく出てたよ。
『ほんま』って」
乙女が固まる。
「ほんなら な、なんで黙っとったん。」
「……一生懸命だっただろ?姫さんやってるのが」
乙女が泣きながら笑った。
泣きそうな笑顔だった。
彼はその頬に触れる。
「知ってると思うけど」
「好きやで、乙女」
そして二人でもう一度抱きしめあった。




