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涙の海  作者: 黒米 紅子
乙女の海
15/36

電話の向こう側

「何か作ってこよっか」


不意に立ち上がったアンちゃんが言う。


「とてつもなく しょっぱい物が

食べたくなったわ」


「アンちゃん!


人がシリアスになっとるのに~

でもアンちゃんのアテは美味しいから許す」


そう言う乙女の頬は


真っ赤になっている。


「大丈夫ですか」


澪が言うと 手をチチチっと振りながら


「案ずる事はないぞよ」


と椅子にふんぞり返った。


「あんな、彼と最近会えてないねん」


…酔った勢いなのか、乙女さんがぼやく。


電話が間遠になった事。


納品に違う人が来た事。


だけど突然訪ねて来て嬉しかった事。


この間は二人でカンパーニュを焼いた事。


彼が帰る時「次いつ会える」って聞いてしまった事。


「すっきやねんな」


コトリ


「出来上がってるわね~」


運ばれてきたのは、白和えだった。


鉢の中にこんもり盛られた


白、オレンジ、緑


「これ冷たくって美味いわぁ~柿の白和」

「柿?」

「甘ーい話に冷たいツマミね」


…チャラら~チャラ 着信音が鳴る。


「あ!彼からや、ちょい話して来る」


ドタバタと乙女が柱の影に走って行った。


「まるで恋する乙女ねぇ」


「…アンちゃん、それそのまんま」


二人でクスクス笑った。


喉元を過ぎる熱い焼酎と


甘くてしょっぱく冷たい白和。


柱の影から声が聞こえる。


「ほんま!」


「…うんうん、めっちゃいいやん」


「今から?大変やなぁ」


…楽しそうな声に、笑顔の乙女の姿が


見えるようだった。


「乙女さん、もう彼の前では関西弁なんですね」


「酔ってるから無意識じゃないかな」


ふふふとアンちゃんが笑った。


「バレてないと本人だけが思ってるのよ」


「あれで?」


「そう、あれで」


カラリ、グラスの氷を溶かしながら

澪はもう一口グラスに口をつけた。


ドン!


箸を空に浮かしてアンちゃんが固まる。


澪も音のした方を見る。


乙女が柱にもたれズルズルと座り込んでいた。


「あ、うん、ほなまたな」


澪が立ち上がって乙女の方へ行こうとするのを、

アンちゃんがそっと手で制した。


またグラスの氷がカラリと揺れた。


黙ってアンちゃんが乙女のグラスに

琥珀を注いでいた。



「お待たせ~」


泣き笑いのような笑顔で


ゆっくりと戻って来た乙女の頬は


すっかり白くなっていた。


ポスンと椅子に腰掛け目の前のグラスを

グイっと飲み干す。


「うんまい!」


残っていた芋を食べる。


黙って琥珀を注ぐアンちゃん


「たまらんわ~」一口飲む。


グラスを握り締めたまま呟いた。


「子どもやって」


「彼の?」


グラスに注ごうとするアンちゃんに


もういいと言うようにグラスに手で蓋をする。


「知らん」


残りを飲み干した。


「電話の向こうでパパ~って呼ぶ声が聞こえた」


「その声聞いた彼が『悪い、切るな』ってさ」


沈黙が三人を包む。


「考えたら私 彼の事なんも知らん」


好きなパンも知ってる。


コーヒーはブラック派の事も


笑うと左側だけエクボができる事も


一緒に眠る時は右側に寄り添う事も


思い出せない時は

指先をクルクル空で回して考える事も


知ってるのに知らない。


知ってるつもりでいただけ…。


「ちゃうな聞くのが怖かったん」


「そっか」


アンちゃんがティーポットを持ちあげた。


「ハーブティ飲む?」


「草のお茶なんか飲まないわい」


そして背もたれにドッともたれて

腕を頭の後ろに回して言った。


アンちゃんは何も言わず、グラスを引き寄せた。


とくとく、とく。


淡い琥珀色のハーブティが静かに注がれていく。


グラスに残っていた氷が


揺れながら、みるみる小さくなっていった。


「……ほら。」


乙女の前へ、そっと置く。


「お飲み。」


「スッキリするわよ。」


乙女はしばらくグラスを見つめていた。


それから、小さく鼻を鳴らす。


「……アンちゃん、そういうとこズルいねん。」


ラウンジのオレンジ照明が先程より


ほんの少し色合いを変え 


淡い琥珀色になっていた。


「会いに…会いに行きましょう」


澪は唐突に言った。


言ってから、自分で驚いた。


こんなふうに誰かに何かを勧めたのは、


いつぶりだろう。


乙女もアンちゃんも、


同時に澪を見た。


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