恋する乙女
乙女の持っていたグラスが止まった。
「あ。」
自分でも気づいたらしい。
アンちゃんが口元を押さえる。
「バレた。」
「アンちゃん黙って。」
「無理。」
澪は首を傾げた。
「隠してたんですか?」
乙女はしばらく天井を見上げたあと、
観念したように笑った。
「……まぁ。」
グラスの縁を指でなぞる。
「好きな人の前ではな。」
コトリとグラスを置く。
「昔からこの外見やろ?
勝手にイメージ作られるんや」
カラリ…
グラスの氷が音を立てた。
アンちゃんが、黙って氷を追加し
焼酎を注いだ。
金色の髪をふわりと揺らし、
小柄な身体の背筋を伸ばして座る姿は、
どこかお姫様のように見える。
パン教室を始めた時から
イメージを崩さないよう生きて来た。
「先生って、本当に優しそう。」
「癒やされるよねぇ。」
そんな言葉を掛けられることには慣れていた。
だからこそ、乙女はいつも同じ笑顔を浮かべる。
「ありがとうございます。」
柔らかな標準語。
少しゆっくりめの話し方。
落ち着いた所作。
それが"パン教室の先生・乙女"だった。
生徒たちを見送ったところで、入口のベルが鳴る。
カラン。
「こんにちは。」
背の高い男性が大きな営業バッグを抱えて立っていた。
胸元には会社のロゴ。
「パン工房フロンティア営業部」と書かれた名札が揺れている。
「先月ご注文いただいた強力粉と、新商品の発酵バターをお持ちしました。」
「あ、ありがとうございます。」
乙女は笑顔で迎え入れた。
彼は慣れた手つきで段ボールを運び込みながら、
教室を見回す。
「今日もいい香りですね。」
「ありがとうございます。」
「……この香り、仕事忘れそうになる。」
思わず漏れた本音に、乙女はくすりと笑った。
営業の人にしては珍しい。
商品の説明より先に、パンを褒めた。
「こちら、新しい発酵バターです。」
「香りがかなり変わります。」
乙女は包装を手に取り、じっと表示を見つめる。
「油脂分……少し増えたんですね。」
彼は驚いたように目を丸くした。
「見ただけで分かるんですか?」
「はい。」
「焼き色も変わりそう。」
「……その通りです。」
営業らしい笑顔ではなく、
パン好き同士が見せる嬉しそうな笑顔だった。
それが最初だった。
それから毎月、彼は教室へやって来る。
新しい小麦粉。
発酵機。
オーブン。
パン型。
包材。
営業として商品を紹介しながらも、
話題はいつしかパンそのものへ変わっていた。
「先生なら、この粉どう焼きます?」
「そうですね……湯種にしたら面白いかもしれません。」
「なるほど!」
「じゃあ次、試してみます。」
「営業さんなのに?」
「いやぁ……。」
彼は照れくさそうに頭をかいた。
「パン見ると、つい。」
ある日、乙女が何気なく尋ねた。
「営業さんって、お料理もされるんですか?」
彼は少しだけ黙ったあと、小さく笑う。
「実は。」
「元パン職人なんです。」
乙女の手が止まる。
「え?」
「店も出してました。」
「でも潰しました。」
言葉は軽かった。
けれど、その奥には簡単には語れない時間が滲んでいた。
「それでもパンは嫌いになれなくて。」
「今は材料や機械を届ける仕事をしています。」
「形は変わったけど。」
「パンに関わっていたかった。」
その言葉に、乙女は自然と笑っていた。
「素敵ですね。」
彼は首を横に振る。
「全然ですよ。」
「先生みたいに焼ける人の方が、ずっとすごい。」
それからだった。
営業に来る日は、
仕事が終わると二人で焼きたてのパンを食べるようになった。
「今日の塩パン、どうです?」
「底の焼き色、最高。」
「ほんま……あ。」
乙女は慌てて口を押さえた。
「失礼しました。」
「今の……。」
彼が笑う。
「関西の人?」
「えっと……。」
乙女は照れたように笑った。
「少しだけ。」
本当は「少し」ではない。
生まれも育ちも関西だ。
けれど、この見た目のせいで何度も軽く見られ、
騙されそうだと言われてきた。
だから社会人になった日、自分で決めた。
標準語で話そう。
ゆっくり話そう。
落ち着いて見せよう。
それが自分を守る方法だった。
彼はそれ以上何も聞かなかった。
ただ焼きたてのパンを一口食べて言う。
「先生。」
「そのパン。」
「めちゃくちゃうまいです。」
その一言だけで十分だった。
乙女は、自分でも気づかないうちに、
営業の日が来るのを楽しみに待つようになっていた。




