夜のお茶会
アンちゃんは慣れた手付きで
カウンターの奥へ引っ込むと、
鼻歌まじりに食器を並べ始めた。
コトン。
コトン。
「お待たせ」
木のテーブルへ置かれたのは、
濃い青のお皿に並べられたチーズ。
チーズには山葵が添えられている。
もう一皿には湯気の立つジャガイモが
ポッテリと盛ってあった。
トンと置かれたのは琥珀色の瓶。
「はい、お待たせ~。」
その声と同時に、乙女が目を輝かせた。
「わ!焼酎 今日は芋?」
「もちろん。」
「やったぁ!」
子どものように嬉しそうな笑顔で、
乙女はグラスを受け取る。
アンちゃんは手慣れた様子で焼酎を注ぎ、
澪へも小さなグラスを差し出した。
「澪さんは少しだけね。」
「じゃあ……少しだけ。アンちゃんは?」
立ち上がったアンちゃんは
カウンターの上に置かれたティーポットを手にして戻った。
「私はこれ。ハーブティよ」
乙女は待ちきれない様子でグラスを掲げる。
「かんぱーい!」
2つのグラスとティーカップが、小さく音を立てた。
乙女はパクリっと芋を口にいれ
グイっと飲み干した。
「W芋、たまらないわぁ」
澪はそっと口をつける。
焼酎のやわらかな香りが鼻を抜け、
身体の奥がじんわりと温かくなっていく。
向かいではアンちゃんが両手でティーカップを包み、
ふぅふぅと息を吹きかけていた。
その姿を見た乙女が吹き出す。
「アンちゃん、またお茶なの?」
「そうよ。」
「飲んでみましょお酒。」
「飲んでるわよ。」
「それ、お茶じゃん。」
「お茶もお酒も飲み物でしょ?」
澪は思わず笑ってしまう。
乙女は再びグイっとグラスを空にして
身を乗り出した。
「人生、一回くらい飲まな損やで?」
アンちゃんは困ったように肩をすくめる。
「私ね、一滴も飲めないの。」
「えっ?」
澪が驚く。
「体質なの。」
「昔、ひと口だけ飲んだら真っ赤になって、
そのまま二日寝込んじゃった。」
乙女は机を叩いて笑った。
「飲めそうな面構えしとるのになぁ!」
アンちゃんも笑う。
「それ、よく言われるの。」
「『絶対強そう』って。」
「実際はハーブティーが限界。」
「詐欺やん、それ。」
三人で声を上げて笑う。
その笑い声は、
海の中へ溶ける泡のように柔らかく広がっていった。
澪はふと気づく。
現実では、
こんなふうに誰かと笑ったのはいつだっただろう。
休職してから、人と会うことが怖くなった。
「元気?」
その一言さえ、何を返せばいいのかわからなくなった。
心配されることも苦しかった。
励まされることもつらかった。
だから少しずつ、人との距離を自分から遠ざけてきた。
気づけば、誰かと食卓を囲むことすらなくなっていた。
なのに、このホテルでは違う。
アンちゃんは何も聞かない。
「どうして休んでるの?」
「何があったの?」
そんなことは一度も尋ねない。
乙女もそうだ。
初めて会ったはずなのに、
昔から知っている友達のような距離で笑ってくる。
その遠慮のなさが、不思議と心地いい。
澪はグラスを見つめ、小さく微笑んだ。
「……なんか。」
「ここにいると、肩の力が抜けます。」
アンちゃんは嬉しそうに頷いた。
「よかった。」
「涙はね。」
ティーカップから立ち上る湯気を見つめながら、
静かに続ける。
「一人で流すより、
誰かと笑ったあとに流した方が、少しだけあったかいの。」
澪はその言葉を胸の中で繰り返した。
一人で泣く涙。
誰かと笑ったあとの涙。
同じ涙でも、少し違うのかもしれない。
その時、乙女が焼酎をひと口飲み、
「ぷはぁ」と満足そうに息を吐いた。
「染みるわぁ。サビチーズともよう合う」
「パン職人さんなのに、お酒好きなんですね。」
澪が尋ねると、乙女は照れくさそうに笑う。
「仕事中は飲まへんよ?」
「終わってからのお楽しみ。」
「パンと焼酎って、ちょっと意外です。」
「よう言われる。」
乙女はグラスをくるりと回した。
「甘いもん作る人ほど、甘くないもん欲しなるんよ。」
アンちゃんが意味ありげに微笑む。
「それだけ?」
乙女の笑顔が、ほんの少しだけ止まる。
グラスの中で焼酎が静かに揺れた。
「……それだけやったら、ええんやけど。」
ぽつり、とこぼれた一言。
さっきまでの賑やかな空気が、少しだけ静かになる。
乙女は窓の向こうを眺め、小さく笑った。
「待つのってな。」
「案外、喉渇くねん。」
澪は自然とグラスを置いていた。
「……待ってる人が、いるんですか。」
乙女はすぐには答えない。
海の向こうを見つめたまま、ゆっくりと頷いた。
「おる。」
「ずっと。」
その短い言葉に、何年もの時間が詰まっている気がした。
アンちゃんはハーブティーをひと口飲み、
澪へ優しく微笑む。
「澪さん。」
「今夜のお客様はね。」
「パンを焼きながら、
大切な人を待ち続けてる、とびきり不器用な乙女なの。」
「アンちゃーん!」
乙女は真っ赤になって立ち上がる。
「そういう紹介、ほんま反則やってぇ!」
その様子がおかしくて、澪はまた笑った。
気づけば、その笑顔は少しだけ自然になっていた。
「乙女さんって関西の人なんですねぇ」
何気なく呟いた言葉に
一瞬 音が無くなった。




