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涙の海  作者: 黒米 紅子
乙女の海
12/32

女子会


スイング扉が勢いよく開き


ぱたぱたぱた。


軽い足音と一緒に、小柄な女性が現れる。


ふんわりとした金色の髪を後ろでひとつに束ね、

小麦粉のついたエプロンを身につけている。


少しぽっちゃりとした丸い頬は、

焼きたてのパンのようにほんのり赤く、

くりっとした大きな瞳はよく笑っていた。


胸元には小さな麦穂のブローチ。

両腕には大きな籠を抱えていた。


「焼きたて持ってきたよぉ!」


そう言った瞬間。

「おぉっと!」

何もないところでつまずいた。


「あっ」


澪が声を上げる。


籠が浮く。


パンが飛ぶ。

アンちゃんが飛ぶ。


「危なーい!」


しかし。

パンは落ちなかった。


ふわり。


まるで海流に乗ったみたいに宙へ浮かび、

くるりと一回転して籠へ戻る。

「おおー。」

澪は思わず拍手した。


「セーフ!」


金髪の女性は胸を撫で下ろし

漂う籠を引き寄せた。


「乙女さん……。」


アンちゃんが仁王立ちになり

呆れたように言う。


「またですか。」

「またとは失礼な。」


女性は胸を張った。


「今日は三回しか転んでない。」


「もう三回も。」


「少ない方よ。」


「比較対象がおかしいの」


その会話に笑いを堪えて窓を見ると


「あははは」


堪えきれず澪は噴き出した。


アンちゃんも、女性も笑い出す。


そこには ガラスに前足をつけ


口をあんぐり開けたボコが


恨めしそうに貼りついていた。


「気を取り直して!乙女って言います」


湯気と一緒に甘い小麦の香りがラウンジいっぱいへ広がる。


3人はテーブルを挟んで座り直した。


「今日はええ感じに焼けたの。」


乙女は籠をテーブルへ置くと、

自分でも一つ頷いて満足そうに笑った。


アンちゃんが目を細める。


「今日はいつもよりふっくらねぇ。」


「でしょ?朝から何回も焼き直したのよ。」


「こだわったのね。」


「もちろん!

澪さんに一番美味しいの食べてもらいたいじゃない」


乙女は胸を張る。


「恋とパンは同じ。

ふっくら香ばしく焼けて初めて

幸せって感じるでしょ?」


アンちゃんがくすっと笑う。


「だから乙女ちゃんが恋すると、パンが甘くなるの。」


「アンちゃん!」


乙女は頬を赤くして抗議する。


「そういうこと言わないでぇ!」


「図星?」


「ち、違うもん!」


「違わへん!じゃなく?」


「アンちゃん!」


二人のやり取りが漫才のようで、

澪は思わず声を出して笑ってしまった。


さっきまで胸を締めつけていた苦しさが、

少しずつほどけていく。


【違ったって…私は誰に会いたいんだろう】


ふと、ラウンジの奥へ目を向ける。


ソファー席には男性が一人


窓の外を眺めながら座っていた。


先程の親子はもういない。


男性の前には、飲みかけのカップと


ジュースの残ったグラスが置きっぱなしになっていた。


窓際の席。


さっきまで向かい合っていた二人のうち、

残っているのは女性だけだった。


紺色のスーツ姿。


背筋を伸ばしたまま、

湯気の消えかけたコーヒーを静かに飲んでいる。


向かいの席はもう空いていた。


男性がいつ席を立ったのか、澪は気づかなかった。


女性はカップをゆっくりソーサーへ戻す。


小さく息を吐き、椅子を引いて立ち上がる。


表情は変わらない。


仕事へ向かう時のように凛としている。


けれど、その背中だけが少し寂しく見えた。


「……。」


澪はなんとなく目で追ってしまう。


女性は誰にも声をかけず、

静かにラウンジを後にした。


その背中を見送っていると、

乙女がいつの間にか隣へ来ていた。


「ねぇ。」


「え?」


「今夜は飲も!」


乙女はにこっと笑う。


「パンにはワインでもええし、ハーブティーでもええし。」


「今日は仕事終わったし。」


アンちゃんもすでにカウンターの奥から瓶を抱えて

戻ってきている。


「賛成~。」


「夜はまだ長いもの。」


「あれ?もうそんな時間?」


澪は目をぱちくりさせた。


大きな窓は全てがオレンジ色で覆われていた。

切り取られた窓枠の光と一体化している。


魚影だろうか、透き通った黒い影が

横切って行く。

澪の胸が心なしか跳ねた。


「い、いつの間にそんな話になったんですか?」


そぞろになった気を戻すように澪は視線を

戻した。


「さっき。」


アンちゃんはあっさり答える。


「澪さんが、ぼーっと窓の外見てる間。」


「もう多数決も終わったで。」


乙女が得意げに笑う。


「二対一。」


「私、参加してないんですけど。」


「いいのいいの」


乙女は澪の肩をぽんと叩いた。


「悩みがある日は、一人で飲んだらダメよ。

三人くらいがおもろい。」


アンちゃんはいつの間にかグラスを三つ並べながら、

いたずらっぽく笑う。


「ようこそ。」


「涙の海、夜の部へ。」」


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