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第3話 後編【幕間】妖精ベル・ロウの観察日誌(第一日)

 ベルは、女神ティア様から直々に任務を受けた。


「あの子を、見ていてあげてね」


 ティア様の手のひらの上で、ベルは大きく頷いた。


「了解、ティアちゃ……ティア様! ばっちり監視するよ!」


「監視じゃないよ。観察、ね」


「カンサツ! 了解!」


「報告は月に一度でいいよ。面白いことがあったら、それ以外でも教えてね」


「面白いこと! 了解!」


「それと、ミアちゃんの見え方については、ユリナが自分で気づくまで余計なことを言わないこと。いい?」


「了解! 余計なこと、言わない!」


 そういう経緯で、ベルが地上に降り立った場所は、白い大きな屋敷の庭だった。


 目的の対象は、庭で木の棒を振っている銀髪の小さな少女。


 女神ティア様が「あの子」と呼んだ、ユリナティーネ・ソーマだった。


---


 ベルは、観葉植物の葉の影から観察を始めた。


 七歳くらいの女の子。銀色の髪。エメラルドグリーンの目。頭には猫耳、腰にはしっぽ。


 その子は「ふっ、ふっ」と小さな声を出しながら、木の棒を振っている。


 ……素振り?


 ティア様の話だと、あの子の中身は「漢前世」らしい。だから剣を振るのは自然かもしれない。

 問題があるとすれば、振り方がものすごく素人なことだった。


「……ふっ」


 ぴょこ。


「……ふっ」


 ぴん。


 少女が木の棒を振るたびに、猫耳としっぽが真面目に反応している。


 身体は、すごくやる気。棒は、すごく素人。ベルは葉っぱの影で口元を押さえた。


 これは、報告書に書けるやつだ。


---


 数分後、屋敷の方から、もうひとりの小さな少女が現れた。


 銀髪。エメラルドグリーンの目。同じ顔。


 ……のはずなのに。


 ベルの目には、その髪が深い黒に見えた。瞳はルビーみたいな赤。猫耳としっぽも、見当たらない。


 見間違いではない。


 ベルは、口をきゅっと結んだ。


 ……なるほど。これが、ティア様の「余計なこと」だ。


 観察対象の少女は、もうひとりに「ミア」と呼びかけていた。


 その顔は、びっくりするくらい誇らしげだった。


 ベルは頷いた。


 お姉ちゃん、ちゃんと妹のこと大切に想ってるんだな。


 それだけ分かれば、まずは十分だった。


---


 その後、屋敷からエプロン姿のメイドが現れた。メイドは、木の棒を振るユリナを見て、目を潤ませた。


「剣の舞を……? ミアお嬢さまへの愛を、剣の舞でお示しになろうと……っ!?」


 ……これ、ただの素振りだよ?


「いえ、あの、リサ。これは、ただの素振りで……」


 お姉ちゃんは訂正したけれど、リサさんはもう聞いていなかった。


「奥様ーっ! ユリナお嬢さまが、ミアお嬢さまへ、剣の舞を捧げにっ……!」


 声が、屋敷中に響く。ベルはたまらず飛び出した。


「リサさん、違うよ! あれはただの素振りだよ! 舞じゃないよ!」


 反応は、ない。

 リサさんはベルの真横を走り抜けていく。


 ……あ、そっか。

 ベルの姿は、普通の人間には見えないんだった。


 ベルが空中でしょんぼりしていると、銀髪の少女がぽかんとこちらを見ていた。


 ……あ。

 ……見えてる。


 目が、合った。


---


「ねえ、お姉ちゃん」


 ミアが、ベルを指差した。


「……あれ、なに、ですの?」


 ……えっ。この子も見えてる?


「……ちっちゃい人。羽、生えてる、ですの」


 お姉ちゃんが、ベルをまじまじと見た。


 ベルは観念して、二人の前にふわっと降り立つ。


「は、はじめまして! ベル・ロウ! 女神ティア様より監視、もとい観察役として、地上に派遣された妖精です!」


「……女神ティア」


「ベル、来たよ! 月に一度、ティア様に報告するの! 基本的にお姉ちゃんとミアちゃんにしか見えないし聞こえないから、安心してね!」


 お姉ちゃんは、深い、深いため息をついた。


「……女神ティアめ、なんで先に言わなかったのですか」


「大きくなってからにしようって、ティア様が言ってたかな……ベル、忘れちゃった!」


「……」


 その横で、ミアがベルに手を差し出した。


「……ベル、かわいい、ですの」


「ありがとう!」


 ベルはミアの手のひらに降り立ち、そっと見上げた。


 深い黒に見える髪。

 赤く見える瞳。

 静かで、まっすぐで、ずっとお姉ちゃんだけを追いかけている子。


 ……うん。とても、きれいな子だ。


 でも、それは口にしなかった。

 余計なことは、言わない。


---


 その夜、お姉ちゃんはベルに、釘を刺してきた。


「リサの誤解で騒がないこと」


「えっ。いいの?」


「よくはありませんわ。でも、訂正すればミアがしょんぼりします」


 お姉ちゃんは天井を見上げた。


「ミアは、私がミアのために剣を振っていると思っています。実際はただの素振りですわ。ただし、ミアのために強くなりたいのは、本当です」


 小さな声だった。

 けれど、その奥にすごく硬いものがあった。


「だから、名目は剣の舞で構いません。私は強くなります。ミアが喜ぶなら、それでいいですわ」


 ベルは、こくんと頷いた。


「わかった。ベル、騒がない。でも、報告書には書くよ?」


「……女神ティアに?」


「うん。ベル、観察役だから!」


 ユリナは、ものすごく嫌そうな顔をした。


「……あの女神、絶対笑いますわね」


「たぶん笑う!」


「そこは否定して」


---


 ベルは、観察日誌の最初のページに書いた。


 【ルール1:リサさんの誤解で騒がないこと】


 【ルール2:ミアちゃんの見え方について、余計なことを言わないこと】


 ユリナちゃんが自分で気づくまで、絶対に教えない。

 気づくべき時が来るから、それまで見守る。


 ティア様は、そう言っていた。


 理由はまだ分からない。

 でも、守る。

 観察役だから。


 それに、ユリナちゃんがミアちゃんを見る目は、ちゃんと本物だった。


 ベルは、日誌の端っこに小さく書き足した。


 【今日の感想:リサさんの誤解は、すごい速さで伝わる】


 ……これ、ティア様が言っていた「面白いこと」を引き起こすトラブルメイカーってやつだ。


---


 その誤解は、屋敷の中だけでは止まらなかった。


 リサが奥様へ伝えた「剣の舞」の話は、後日、社交界の手紙にも混じっていった。


 最初にそれを受け取ったのは、エリオラの古い親友であるカトリーナ・ディーテだった。


「……ユリナティーネ嬢が、妹君へ、剣の舞を?」


 ディーテ公爵家の一室で、カトリーナは手紙を読み終えた。


 手紙の主はエリオラである。


 文面は、いつものように明るく、どこか浮かれていた。


 娘が妹のために木剣を握り、リサがそれを剣の舞だと受け取った。ミアが喜んでいて、ユリナは、少し困っているらしい。


 エリオラの手紙は、だいたいそんな内容だった。


 普通に読めば、面倒見のいい姉の話だ。妹を大切にする、優しい姫、家の中で、妹に寄り添う子。


 そう受け取ることもできた。


 けれど、カトリーナは、リサのようにユリナティーネを「姫」とは見なかった。


 まだ成人の儀も迎えておらず、加護の行方など、誰にも分からない。


 それでも、妹を守るために、剣を手に取った。


 その一文だけで、カトリーナの中の何かが静かに動いた。


 これは、ただの優しい姉ではない。妹を守ろうとする、騎士の気質だ。


 エリオラとは、いつか互いの子で家同士の縁を結びましょう、と話したことがある。


 正式な約束ではない。女神の前で交わした誓いでもない。


 けれど、カトリーナにとっては、長く胸の中に置いてきた夢だった。


 その夢が、もし、ソーマ家の姉妹だけで閉じてしまうのなら。


 姉が妹へ、生涯を捧げるような縁へ進んでしまうのなら、困る。非常に、困る。


 カトリーナは、手紙をそっと畳んだ。


 不思議なことに、その時、妹のミアティーネをアリアンドラの相手に、とは少しも思わなかった。


 理由は分からない。ただ、違う。そう感じた。戦略家ディーテ家の勘、とでも言うべきものだったのかもしれない。


「アリアンドラ」


 カトリーナが呼ぶと、部屋の隅で刺繍の練習をしていた金髪の少女が顔を上げた。金色の猫耳が、ぴんと立つ。


「はい、お母様」


 呼ばれた。ただ、それだけで、アリアンドラの胸が小さく跳ねた。


 暗影厄災のあいだ、母は前線後方にいっており、不在だった。


 廊下で大人たちがささやくたびに、父も母も帰ってこないのではないかと考えて、それでも一人で寝台の端に座っていた。


 だから、母が自分の名を呼ぶだけで、アリアンドラの体は先に喜んでしまう。


「ソーマ家に、ユリナティーネという子がいます」


「ゆりなてぃーね?」


「ええ。とても優秀な子です」


 カトリーナは、娘の前に膝を折り、アリアンドラの小さな手を、そっと取る。


 母の手は、少し冷たかったけれど、握られている。あの夜、誰にも握ってもらえなかった手を、今は母が握っている。


「あなたは、その子に負けてはいけません」


「……勝つ、のですか?」


「そうです。勝つのです。姫として、誰よりも美しく、誰よりも賢く、誰よりも強く支えられる子になりなさい」


 アリアンドラは、真剣な顔で考え込んだ。


 その顔は、まだ幼い。


 母の言葉の意味を、きっと半分も分かっていない。


 けれど、「ソーマ家の子」「同じくらいの年の子」「勝つ」という言葉だけは、受け取ったらしい。


 勝てば、母はまた見てくれるのだろうか。


 勝てば、その子も一緒にいてくれるのだろうか。


 その問いが、幼い胸の中で、競争心より先に灯った。


「勝ったら……一緒に、遊んでよろしいの?」


 カトリーナは、一瞬だけ言葉に詰まった。


「……ええ」


「遊べるの?」


「勝てば、きっと、その子はあなたを見るでしょう」


「見てくれる?」


「ええ。あなたを、特別な子として」


 アリアンドラの金色のしっぽが、ぱた、と小さく揺れた。


「お母様も、見ていてくださる?」


「ええ。あなたが努力するなら、わたくしも見ています」


 しっぽが、もう一度揺れた。勝つ、という言葉の意味はまだ遠い。


 でも、見ていてくれる、という言葉は、温かかった。


「わたくし、勝ちます」


「ええ」


「ユリナティーネに勝って、一緒に遊びます」


 カトリーナは、その幼い解釈を訂正しなかった。


 ただ、娘の髪をそっと撫でた。まだ、この時のアリアンドラは知らない。


 その名前の少女が、やがて自分の前に立ちはだかることを。


 そして、立ちはだかるたびに、目を離せなくなっていくことを。


---


 月末の報告。


 ベルは、ティア様に、こう書き送った。


> ティア様

>

> ベルです。地上に着任しました。

>

> ユリナティーネ・ソーマちゃんは、確かに転生者でした。木の棒を振っていました。本人は素振りのつもりですが、屋敷では「妹のための剣の舞」になっています。

>

> ミアちゃんは、ベルの目には黒髪赤目に見えました。ご指示どおり、見え方についてはユリナちゃんには話していません。

>

> ベルのことは、ユリナちゃんとミアちゃんにだけ見えるようです。リサさんの誤解は、ユリナちゃんの指示で騒がないことになりました。

>

> ユリナちゃんは、ミアちゃんをとても大事にしています。面白い案件です。継続観察します。

>

> ベル


 報告を書き終えたあと、ベルはベッドの上を見た。


 ユリナは、ミアの手を握ったまま眠っている。

 ミアは、その隣で静かに寝息を立てていた。


 今日の観察は、ここまで。


 明日も、きっと面白いことが起きる。

 なにせ、この屋敷では。


 ただの素振りが、剣の舞になるのだから。


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