第27話 その詩は重すぎますわ
次の古典の授業まで、わたくしは胸の痛みについて考え続けておりました。
実技で胸が苦しくなるのは分かります。走れば息が上がりますし、ユリナの隣で歩幅を合わせて歩けば、精神の修行が過ぎて心臓にも負荷がかかります。けれど、座って詩を読んだだけで胸が痛むというのは、どう考えても不合理でした。
結論から申し上げます。
これは勝負心です。
勝負相手のユリナに先を行かれている気がする。だから胸が苦しくなるのであって、決してそれ以上のものではございません。わたくしはアリアンドラ・ディーテ。勝つべき相手を前にして胸がざわめくのは、当然のことです。
そう自分に言い聞かせて、古典の教室へ入りました。
先生は前回と同じように教壇へ立ち、教室を見渡しております。階段状の席には、姫候補も騎士候補もそろっておりました。前回の、サリナが言うところの涙腺崩壊事件があったせいでしょうか、皆どこか、期待と警戒の混じった顔をしております。
「本日は、前回お伝えした通り、二人一組で朗読を行います」
古典担当の先生が、黒板に小さく題を書きました。
相手へ届ける詩。
「古い星月恋歌を一首選び、その形を借りて、自分の言葉に直しなさい。大切なのは、相手の心を縛ることではありません。相手を尊び、言葉を丁寧に差し出すことです」
なるほど、詩を作る授業ですのね。
……前回より、危険度が上がっておりませんこと?
「組み合わせは、近い席の者同士で構いません。無理に普段と違う相手を選ぶ必要はありません」
「ミアはお姉さまと組みますの」
先生の言葉が終わるより早く、ミアティーネがユリナの袖をつまみました。
早い。
あまりにも早いです。実技ではユリナの相手を譲ってくださいましたのに……。
しかも、誰も驚きませんでした。教室中が、そうでしょうね、という顔をしております。ユリナも当然のように頷き、ミアティーネの方へ教本を少し寄せました。
「うん。一緒に考えようね、ミア」
「はい、ですの」
ユリナの声は、穏やかでした。
ただそれだけのやり取りですのに、また胸の奥が妙に苦しくなります。違います、これは勝負心です。わたくしは赤い手袋の指先をきゅっと握り、隣に座ったサリナへ視線を向けました。
「サリナ、あなたはわたくしと組むのでしょう」
「はい。授業の記録と並行して、参加いたしますわ」
「授業の記録は、いったん置きなさい」
「善処いたします」
置く気がありませんわね。
ヨシアーナとアキミリアは二人で組み、なぜかこちらをちらちらと見ております。見守っているつもりなのでしょうが、その顔は完全に観客のものです。寄子とは、何だったのでしょう。
少し離れた席では、奨学生のナナが、教本と周囲を交互に見比べておりました。貴族の詩作の授業に放り込まれた平民出身の彼女は、貴族の世界は難しすぎます、とでも言いたげな顔をしております。言ってもよろしいのですよ。今日ばかりは、わたくしも少しだけ同意いたしますから。
「では、最初に。ユリナティーネさんと、ミアティーネさん」
先生が言いました。
なぜ、最初にその組を選びますの。
いいえ、分かっております。前回のユリナの朗読とわたくしの解釈で、教室が妙な方向へ温まってしまった以上、先生としても、まずは優秀な組を手本にしたいのでしょう。けれどあの組は、手本と呼ぶには破壊力が高すぎます。
「はい」
ユリナが立ち上がり、ミアティーネも少し遅れて立ちました。教本を両手で抱えたミアティーネの眠たげな瞳は、いつもより少しだけ真剣に見えます。
「どちらから読みますか」
「ミアが読みますの」
ミアティーネはそう言って、ユリナを見上げました。
当時のわたくしには知る由もないことでしたが、後になって思えば、あの子は本能のどこかで理解していたのでしょう。自分の命が、ユリナから流れ込む力に支えられていることを。もっとも、それを言葉として知っていたわけではありません。だからミアティーネは、難しい理屈ではなく、自分にとって一番近い感覚を、そのまま詩にしたのです。
「あなたという星が空から遠くなったら、
わたしの月は、どこへ昇ればいいのか分かりません。
あなたの声が朝に聞こえないなら、
パンも水も、ただの影になってしまいます。
だから、どうか先に遠くへ行かないでください。
あなたがそばにいないのなら、わたしはきっと、息を止めてしまうでしょう」
教室から、音が消えました。
ミアティーネの声は小さく、けれど不思議なほどよく届きました。詩として整っているかと問われれば、古典の先生が採点するには素直すぎるのでしょう。けれど、その素直さが、かえって恐ろしいのです。
お姉さまがいなければ、月は昇れない。
声が聞こえなければ、朝の食事さえ、ただの影になる。
はたから聞けば、それはもう、お姉さまがいなければ生きていけないという宣言でした。いえ、宣言どころではありません。もしユリナがこの世から消えるなら、自分も同じ夜へ向かう、と言っているようにすら聞こえます。
女神ティアの教えは、愛こそを最上といたします。けれど、騎士が戦地に散ったからといって、姫が後を追うことをよしとはしておりません。そもそも騎士が戦へ赴くのは、愛する者の平穏な暮らしを守るためです。自分が死んだら愛する人にも死んでほしいと願う騎士など、どこにおりましょう。だからこそ姫は、たとえ愛する騎士を喪っても、祈りを捧げながら生涯を全うする。それが、この世界の愛の作法です。
ですからミアティーネの詩は、その作法の少し外側に立っておりました。
教室中の姫候補と騎士候補が、息を呑みました。
「これが……姉妹の誓約……」
誰かが、ほとんど吐息のように呟きます。
姉妹の誓約。血を分けた姉妹が、一生寄り添うと誓うもの。結婚でも、契約でもない。それでも魂の奥に、結び目をひとつ作るような誓い。その言葉を知っているはずのわたくしたちでさえ、あの誓いの深さを見誤っていたのだと、思い知らされました。
重い。
あまりにも重い。けれどその重さを、本人は少しも飾っていないのです。
ミアティーネは、ただユリナを見ておりました。
ユリナはというと、教室中が凍りついている中で、少し困ったように、けれどとてもやわらかく笑ったのです。
「ありがとう、ミア」
「はい、ですの」
「それなら、お姉ちゃんも健康でいなくてはね。ミアも朝ごはんをちゃんと食べて、よく寝ること。二人で元気にいようね」
「はい。ミア、よく寝ますの」
ひょうひょうとしております。
あまりにも、ひょうひょうとしております。
周囲の目には、あれほど重い想いを眉ひとつ動かさず受け止めた、器の大きな方に見えたことでしょう。実際、何人かの騎士候補は顔を見合わせ、姫候補たちは胸元へ手を当てております。ヨシアーナとアキミリアなど、完全に固まっておりました。
「え……それで返事、終わりなんですの……?」
どこかから、小さな声が聞こえました。
お気持ちは分かります。わたくしも、同じことを思っておりましたから。
けれど、ユリナにはユリナの事情があったのでしょう。後に知ったことを踏まえれば、あの方にとってミアティーネの言葉は、恋歌というより健康の確認に近いものだったのかもしれません。だからこそ、返す言葉が、健康でいなくてはね、になるのです。
なるほど、分かります。分かりますけれど、その事情は、周囲には何ひとつ伝わっておりません。
サリナの羽根ペンが、すさまじい速さで動いておりました。
『ミアティーネ様、姉妹の誓約を詩で再宣言。ユリナ様、当然のように受理。健康管理へ着地』
健康管理へ着地。
合っております。合っておりますが、そこではありません。
「ミアティーネさん」
先生が、ゆっくりと口を開きました。さすがは古典の担当です。あの詩を聞いてもなお、授業を続ける意思を失っておりません。
「とても素直な詩でした。古典の形としては、比喩をもう少し整える余地がありますね。それから、あなたがいなければ息を止めてしまう、という言い方は、聞きようによっては相手を縛る言葉にもなります。そばにいられるから生きていける、と伝える形に直せると、もっと良くなりますよ」
「はい、ですの」
「ユリナティーネさん」
「はい」
「受け止め方は、あなたらしいですね」
「ありがとうございます?」
疑問形で返すのは、おやめなさい。
先生は少しだけ笑いました。
「では、ユリナティーネさんも返歌を」
返歌。
教室中が、再び息を詰めました。
ミアティーネの詩を受けて、ユリナが何を返すのか。それはもう授業というより、式典の一場面のようでした。
ユリナは少し考えてから、ミアティーネの方へ向き直ります。
「あなたが迷わないように、
わたしは灯を消さずにおります。
朝ごはんの匂いも、窓から入る風も、
二人で笑えるようにしておきます。
ですから、あなたが遠くへ行くのなら、
わたしを、手の届くところにおいてください」
静かな返歌でした。
派手ではありません。恋歌として甘く飾ったものでもありません。けれど、ミアティーネが差し出した重い言葉を、ユリナは日常へ連れ戻して受け止めました。朝ごはんの匂い。窓から入る風。手の届くところ。命がどうとか誓いがどうとかではなく、明日も一緒に過ごすための言葉です。
先に行かないでください、とミアティーネは詠いました。それをユリナは、行くのなら連れていってください、と返したのです。離れた場所で祈るのではなく、手の届くところまでついていく。その想いを、アッティーネ様を追って、暗影厄災の前線に野戦病院を築いたエリオラ様の娘らしい、と感じたのは、きっとわたくしだけではなかったでしょう。
それ以前にこの歌にふさわしい行動をエリオラ様がとっているのですが、また、別のお話です。
そして、胸に来ました。
またです。
また、胸が痛みます。
これは勝負心です。断じて、それ以外のものではございません。
それなのに、わたくしの胸の奥では、ユリナの詠んだ、手の届くところ、という一節だけが、いつまでも残っておりました。
「……強すぎますわ」
思わず、呟いてしまいました。
「アリアンドラさん?」
サリナがこちらを見ます。
「何でもありません。相手が強敵すぎると申し上げただけです」
「記録しておきますわ」
「しなくてよろしい」
先生が、黒板の前で教本を閉じました。
「では次に、アリアンドラさんとサリナさん」
わたくしは、固まりました。
今の、後に。
今の後に、わたくしが読むのですか。
赤い手袋の指先を握りしめながら、わたくしはゆっくりと立ち上がりました。胸はまだ苦しいままです。けれど、これは勝負心です。それならば、逃げる理由には、なりません。
王立加護学園の古典は、実技より危険です。
なぜなら、転んで折れるのは足ではなく、心なのですから。




