第28話 勝負の詩ですわ
立ち上がってから、教本を開くまでの、ほんの数瞬のあいだに、わたくしは生まれて初めての感情と向き合っておりました。
ミアティーネの詩と、ユリナの返歌。あの二つの後に、わたくしが読む。ただ順番が回ってきただけのことですのに、胸の奥が、嫌だ、と小さく申したのです。
嫌。
わたくしが、勉学に対して、そのような言葉を抱いたことがあったでしょうか。座学はディーテ家の誇りを示す場であり、礼法は積み重ねた研鑽を映す鏡であり、ユリナとの勝負は毎朝の紅茶と同じくらい当たり前の日課です。試験も朗読も暗唱も、わたくしにとっては嫌うどころか、勝ちにいくための舞台でしかありませんでした。
それなのに、今は。
分かっていたことです。あの二人が、世界の誰よりも深く想い合っていることなど、入学式の日から、いいえ、九歳のあの誓約式の日から、分かっていたことです。今さら詩の一つや二つを聞かされたくらいで、胸を痛める必要など、どこにもないはずでした。
「アリアンドラ様、大丈夫ですか」
「ご気分がすぐれないのでは……」
斜め後ろの席から、ヨシアーナとアキミリアが小声で囁いてきました。観客の顔はどこへやら、二人とも本気で心配そうな目をしております。わたくしはそんなに、ひどい顔をしていたのでしょうか。
「少し、胸が痛んだだけですわ。ご心配には及びません」
「胸が、ですか……それは……」
「授業中ですわ。前をご覧なさい」
教壇では先生が静かにこちらを待っており、隣ではサリナが羽根ペンを置いて、聞く姿勢を取っておりました。組んだ相手に向けて詩を届けるのが本日の課題ですから、わたくしの詩は、形の上ではサリナへ差し出されるものです。
詩は、昨夜のうちに用意してございました。古い星月恋歌から品のよい一首を選び、形を借りて、当たり障りのない言葉へ直した、減点のしようのない詩です。教養が示せて、女神ティアの教えにも適い、誰の心にも波を立てない。ディーテ家の令嬢として満点の、完璧な詩でした。
あとは、それを読むだけの、はずでしたのに。
顔を上げた時、視界の端に、あの二人が入りました。ユリナの椅子はまだ少しだけミアティーネの方へ寄せられたままで、ミアティーネの指は、当然のようにユリナの袖をつまんでおります。先ほどの返歌の余韻が、あの席の周りにだけ、静かな灯りのように残っておりました。
あなたという星が遠くなったら、月はどこへ昇ればいいのか分からないと、ミアティーネは詠いました。
それなら手の届くところにおいてほしいと、ユリナは返しました。
あの空には、最初から、星と月が揃っているのです。
気づいた時には、用意していた完璧な詩は、頭のどこを探しても見つからなくなっておりました。代わりに、口が勝手に動いていたのです。
「あなたという星のかたわらには、初めから月が寄り添っておりました。
わたくしの朝が、ほんのひと呼吸だけ早く明けておりましたら、
あの光の隣に立っていたのは、わたくしだったのでしょうか。
女神ティアよ、その答えはどうか、お隠しくださいまし。
あなたがわたくしのものにならないのなら、それで構いません。
ただ、あなたの光の届く野に、わたくしを立たせてください」
読み終えて教本を閉じる音が、自分の耳にも、やけに大きく響きました。
教室が、静まり返っております。
前回の、聞いてはいけないものを聞いたという静けさではありません。ミアティーネの詩の後の、凍りつくような静けさとも違います。誰もがそっと胸の前で手を組み、わたくしと、どこか遠くの空とを、交互に見ているような静けさでした。
最初に口を開いたのは、隣のサリナでした。
「まあ。わたしにいただくには、ずいぶんと熱のこもった詩ですわね」
「あなたにではありません!」
言ってから、しまった、と思いました。
形の上ではサリナへ向けた詩です。あなたにではないと否定してしまえば、では誰に向けた詩なのかという問いが、当然のように教室中へ生まれてしまうではありませんか。
ざわめきが、さざ波のように広がりました。
「星のかたわらの、月……」
「先ほどのミアティーネ様の詩と、同じ空ですわ……」
「最後の一節、ユリナ様の返歌と、同じ形……」
おやめなさい。符合を読み解くのをおやめなさい。あなた方は少々、古典の成績が良すぎます。
「アリアンドラ様、その歌って……」
ヨシアーナが、震える声で言いました。
はっ、といたしました。
わたくしとしたことが、なんという歌を詠んでしまったのでしょう。先に出会っていたら。ものにならなくてもいい。せめて光の届く野に。これではまるで、わたくしが、誰かに叶わぬ恋をしているようではありませんか。
ち、違うのです。
「しょ、勝負の詩ですわ!」
気づけば、そう叫んでおりました。
「ミアティーネとユリナの詩があまりに見事でしたので、わたくしも本気を出しただけのことです。詩とは技巧、技巧とは感情の再現。より真に迫った感情を作り上げた者が勝つ。それだけの、ただの勝負ですわ!」
我ながら、苦しい理屈でした。けれどディーテ家の令嬢たるもの、苦しい時ほど胸を張るものです。わたくしは扇の代わりに教本を持ち直し、精一杯、顎を上げました。
先生が、ゆっくりと頷きました。
「アリアンドラさん」
「はい」
「よい詩でした。すでに寄り添う相手のいる方への想いを、奪う言葉にせず、縛る言葉にもせず、それでも偽らずに、そばにいたいとだけ差し出す。前回あなたが解釈で述べた、想いを憎しみや嫉妬へ変えずに抱えるという慎みが、今日は詩そのものに宿っていましたね。女神ティアの教えに適った、良い歌だと評価いたします」
……勝負の詩だと、申しましたのに。
わたくしは別に、秘めた想いなど、抱えてなど。
抗議の言葉を探して、視線が勝手にさまよいました。そして、よりにもよって、一番見てはいけない方を見てしまったのです。
ユリナと、目が合いました。
銀色の猫耳をこちらへ向けて、緑の瞳が、まっすぐにわたくしを見ております。逸らせばよかったのです。けれど、あいにく手元には口元を隠す扇もなく、教本一冊では、顔のどこも隠せそうにありませんでした。
「素敵な詩でしたわよ」
ユリナが、静かにそう言いました。
お世辞ではありませんでした。からかいでもありませんでした。ただ本当に良いものを聞いたという顔で、あの方は、やわらかく笑ったのです。
急に、目頭の奥が熱くなりました。
あなたが。
あなたが、それを言うのですか。
この詩の星が誰なのか、教室中の誰もが察しておりますのに、星ご本人だけが、素敵な詩でしたわ、で済ませてしまうのですか。いっそ気づいてくださらない方が楽だと思いましたが、いいえ、気づかれていたら、わたくしは今ごろこの教室におられなかったでしょうから、これでよかったのです。よかったのですけれど。
わたくしは奥歯を、静かに噛みしめました。
泣くものですか。ディーテ家の娘が、古典の授業ごときで、泣くものですか。
「……詩の勝負は、引き分けで、よろしいかしら」
声は、思ったよりも普通に出ました。
「そうですわね」
ユリナは、少しも迷わずに頷きました。
引き分け。ユリナは同意してくださいました。けれど、勝負を挑んだ側にしか分からない種類の敗北感が、胸の奥で静かにうずいておりました。
「アリアンドラ、目、あかい、ですの」
「夜更かしのせいですわ」
この子はやはり、眠たげな顔で急所だけを正確に突いてきます。けれど不思議なことに、今の一突きには、ほんの少しだけ救われました。涙は、引っ込みましたから。
「では、サリナさん。あなたの詩を」
先生に促され、隣のサリナが静かに立ち上がりました。組んだ相手はわたくしですから、この詩はわたくしへ向けられるものです。サリナは白い紙を手に、いつものおっとりとした声で読み始めました。
「星々の想いを、わたしは頁のこちら側から見ております。
語られなかった言葉ほど、インクは深い色になるのです。
あなたが今日、空へ差し出したものを、
わたしは、美しい慎みとして書き留めておきますわ」
教室のざわめきが、すっと引いていきました。
誰に向けた詩かと詮索する余地のない、記録する者の詩でした。けれど、わたくしには分かりました。これは授業の形を借りた、わたくしへの言葉です。あなたの詩は醜聞ではなく慎みとして記す、だから安心なさい、と。
……この方には、本当に敵いませんわ。
「よろしい。お二人とも、相手を尊ぶ姿勢のある朗読でした」
先生が教本を閉じ、次の組を呼びました。わたくしは席へ戻り、ようやく息を吐きます。隣でサリナが、小さな紙片へ何かを書き留めているのが見えました。盗み見るつもりはなかったのですが、目に入ってしまったのですから仕方ありません。
『詩の勝負、両者引き分け。ただし、記録者の見立てでは――』
そこから先は、書かれておりませんでした。
なぜ、途中でおやめになりますの。
途中でやめられると、続きが気になって仕方がないではありませんか。けれど問い詰める気力は、その日のわたくしには、もう残っておりませんでした。
勝負は引き分け。先生の評価は上々。取り巻きたちの視線はどこまでも生温かく、ミアティーネは眠たげで、ユリナは最後まで、何ひとつ分かっていない顔をしておりました。
帳尻だけを見れば、わたくしは、何も失ってはいないのです。
それなのに、座学とは、これほどまでに胸を抉るものだったのでしょうか。
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……という、入学して間もない頃の古典の授業を、わたくしは今でも、一字一句たがわず覚えております。
ディーテ家の私室で、わたくしは机の上の書状へ視線を戻しました。王家からの物言い。第一夫人候補の順に、再考の余地あり、という一文。
あの日、光の届く野に立たせてほしいと詠んだ十四歳のわたくしに、教えて差し上げたいものですわ。あなたはいずれ、野に立つどころか、あの星のいちばん近くへ迎えられる日が来るのです、と。
ですから、王家が何と仰ろうと、あの場所だけは誰にも譲りません。
更衣室で隣の仕切りを譲らなかった時から、わたくしは、そういう姫なのです。
すると、コンコン、と私室の扉を叩く控えめな音がしました。王家からの物言いについて、何か続報が届いたのかもしれないと顔を上げた、次の瞬間です。
バンッ、と扉が開きました。
「アリアンドラ!」
「お、お母様!? どうなさいましたの?」
踏み込んでいらしたお母様は、社交界の微笑みをどこかへ置き忘れたようなお顔で、わたくしをまっすぐに見据えました。
「王家と戦争よ! 準備なさい!」
「戦争……はぁああああ!?」
王家からの物言いを解決してくださると信じておりましたのに、考えられる筋書きの中で、いちばん望ましくない知らせが、いま目の前へ投げ込まれてしまいました。
後にセレスティアル王国正妻戦争と呼ばれる騒動は、どうやら、わたくしの私室の扉を蹴破る勢いで始まったようでございます。
ユリナ……わたくしたち、どうなってしまいますの……?
~ 第2部 完 ~
次は第3部「正妻戦争編」です。




