第26話 座学でも気を引くあの子
姿勢と舞踏歩行については、多くを語らないでおきます。
ユリナは、歩幅を合わせるのが上手すぎました。肩が触れそうで触れない距離を、まるで当然のように保ってくるのです。ナンブリア先生は「よい距離です」と頷いておりましたが、わたくしからすれば、よい距離どころか心臓に悪い距離でした。
それでも授業は終わりました。
更衣室で実技服から制服へ戻った時、わたくしはようやく淑女としての尊厳を半分ほど取り戻した気がいたしました。残りの半分は、ユリナに胸元へ顔をうずめた時点でどこかへ落としてきたようです。拾いに戻る予定はございません。
次は座学です。
座学であれば、さすがに心を乱されることはありません。身体の接触もなければ、吐息がかかるほど顔が近づくこともなく、走っている最中に前を見るべきか横を見るべきかで人生を試されることもないのです。
わたくしは、そう信じておりました。
教室は階段状になっており、前列ほど低く、後列ほど高くなっております。先生の声が通りやすく、黒板も見やすい造りです。つまり、後ろの席からは前に座る者の姿がよく見えるということでもありました。
ユリナは前の方に座っておりました。
その左隣にはミアティーネ。右隣にはサリナ。あまりにも自然に三人で並んでおりますので、まるで最初からその席だけ、そうあるべき形で用意されていたように見えました。
わたくしの席は、ユリナの少し後ろです。階段状の教室ですから、左斜め下にユリナの後ろ姿が見えます。銀の髪は光を含んでやわらかく流れ、猫耳は先生の声に合わせてかすかに向きを変えておりました。
実技であれば、あれは危険です。
けれど座学です。座っているだけです。見えているだけなら、淑女として耐えられるはずです。
そう自分に言い聞かせている時点で、すでに耐えられていない気もいたしますが、それは考えないことにいたしました。
教室のあちらこちらから、同じような視線がユリナへ集まっております。ヨシアーナなどは、教本を開いているふりをしながら、完全にユリナの後ろ髪を見ておりました。アキミリアも同じです。あなた方、わたくしの取り巻きではありませんの。
ただし、当の本人は何ひとつ気にしていない様子でした。
おそらくユリナのことですから、「漢ですから視線は気になりませんわ」とでも言うのでしょう。漢だからという理由で、すべてを受け流そうとするのは、そろそろやめていただきたいものです。
「本日の古典は、星月恋歌の朗読と解釈です」
古典担当の先生が、静かに教室を見渡しました。
「女神ティアの教えは、愛こそを最上の理とすること。けれど愛を最上とするからこそ、乱暴に奪わず、相手の心を尊ぶ姿勢を学ばねばなりません。古い恋歌は、そのための教本でもあります」
古典。
つまり、愛の詩の朗読会です。
座学なら安全などと考えた、数分前のわたくしを叱りたい気持ちになりました。身体は触れなくても、言葉は心の奥に触れてくるのです。むしろ逃げ場が少ない分、こちらの方が危険かもしれません。
「では最初に、ユリナティーネさん」
「はい」
ユリナが、まっすぐに立ち上がりました。
その瞬間、教室中の空気が少しだけ変わります。誰かが姿勢を正し、誰かが息をひそめ、誰かが手元の羽根ペンを握り直しました。サリナは最初から記録する気満々の顔で、白い紙を広げております。
「一つ目の詩を朗読し、その後に解釈を述べなさい。題は、袖を振る恋」
「承知いたしました」
ユリナは教本を持ち、視線を紙面へ落としました。
ただそれだけの所作なのに、妙に絵になります。本人に自覚はないのでしょう。ないからこそ、余計に困るのです。
そして、ユリナは詩を読み始めました。
「茜の光が紫の野をほどくころ、
あなたの袖が、遠く星の尾のように揺れました。
野守の目を恐れるより先に、
わたくしの月は、あなたを見つけてしまったのです。
どうかその一振りを、ただの風とは呼ばないでください」
静かな声でした。
甘く作った声ではありません。飾り立てた声でもありません。ただ、言葉を大切に置いていくような声でした。茜の野も、紫の草も、遠く揺れる袖も、すべてがユリナの声の中でそっと光を持ちます。
問題は、その光の向かう先です。
ユリナは授業として朗読しているだけなのでしょう。けれど、聞いているこちらには、どうしてもミアティーネへ向ける眼差しのように聞こえてしまうのです。
隣で眠たげに目を細めているミアティーネを、ユリナはいつも自然に見つけます。人混みの中でも、教室でも、実技場でも。誰かが声を上げるより先に、ミアティーネが転ばないよう手を伸ばす。
あの方にとっては、それが当たり前なのです。
だから詩の中の「わたくしの月は、あなたを見つけてしまったのです」という一節が、恐ろしいほど似合ってしまいました。
胸がきゅっと痛みます。これは何なのでしょう。悔しさに似ておりますが、礼法で負けた時の悔しさとは少し違い、胸の奥だけが妙に苦しくなるのです。
いいえ、いけません。これは勝負です。勝負は始まってもいないのに、勝手に敗北を認めるなど、アリアンドラ・ディーテにあるまじきことです。戦うべき相手として不足はありません。むしろ強すぎるくらいです。強敵です。強敵すぎます。少しは手加減していただきたい。
「ユリナティーネさん、解釈を」
「はい」
ユリナは教本を閉じ、少しだけ考えるように目を伏せました。
「これは、人目を恐れながらも、相手の小さな合図を見つけてしまう恋の詩だと思います。袖を振るという所作は、ただの挨拶にも見えますが、恋する者にとっては、世界でただ一つの呼び声になるのでしょう」
教室が静まり返ります。
ユリナはさらに続けました。
「ですからこの詩は、愛がどれほど慎ましく隠されていても、心だけはそれを見逃さないという歌なのだと思います。ただ、見つけたからといって相手を縛るのではなく、その一瞬を大切に受け止める。その慎ましさが、女神ティアの教えに通じるのではないでしょうか」
先生は満足そうに頷きました。
「よろしい。合図を見つける喜びだけでなく、相手を縛らない慎みまで読めています」
先生の言葉が終わる前に、どこかから小さなため息が漏れました。
「今の、お茶会でも読んでいただきたいですわ」
「袖を振られた気がいたしました……」
「あの姉妹の誓約の何気ない日常が、目に浮かぶようですわね」
あちこちから囁きがこぼれます。
ヨシアーナがうっとりした顔で頷き、アキミリアはなぜか自分の袖を見つめておりました。あなた方、今すぐその袖を下ろしなさい。授業中に古い恋の符牒を試すものではありません。
ミアティーネは、詩の難しい部分までは分かっていない様子でしたが、ユリナの声が心地よかったのか、ほんの少しだけユリナの方へ寄っておりました。ユリナは気づくと、当然のように椅子の位置をずらしてミアティーネが寄りやすくします。
そういうところです。
そういうところなのですわ、ユリナ。
わたくしが心の中で身悶えしていると、サリナの羽根ペンがさらさらと紙の上を走りました。何を書いているのか、少しだけ見えます。
『朗読。周囲への影響大。本人に自覚なし』
今回は珍しく、正確でした。
「では次に、アリアンドラさん」
「……はい?」
思わず間の抜けた声が出ました。
先生がこちらを見ています。教室中の視線も、いつの間にかわたくしへ集まっておりました。逃げ場はありません。階段状の教室とは、逃げる者をよく見える位置に置くための構造だったのでしょうか。
「二つ目の詩を朗読し、解釈を述べなさい。題は、契りある人への恋」
題を聞いた瞬間、胸の奥が嫌な音を立てました。
契りある人への恋。
よりによって、それをわたくしに読ませますの。
いいえ、先生に悪意はないはずです。これは古典の授業で、順番に当てているだけ。たまたまです。たまたま、ユリナの次にわたくしが当たり、たまたま、詩の題が勝負心の急所を突いたように聞こえただけです。
たまたまにしては、女神ティアの采配が鋭すぎます。
わたくしは立ち上がり、教本を開きました。
視線の先には文字があります。けれど、どうしてもその向こうにユリナの後ろ姿が見えてしまいました。銀の髪。まっすぐな背。隣にいるミアティーネへ自然に傾く、やさしい気配。
息を整えます。
礼法で負けるわけにはまいりません。
「紫草の香に染まるあなたを、
憎める心がわたくしにあるなら、
契りある身と知りながら、これほど恋い焦がれはしなかったでしょう。
女神ティアよ、罪と呼ぶならお呼びください。
それでもこの想いは、愛の名でしか息をいたしません」
読み終えた瞬間、教室は先ほどとは違う静けさに包まれました。
ユリナの朗読の後に訪れた静けさは、うっとりとした余韻でした。けれど今の静けさは、誰もが聞いてはいけないものを聞いてしまったような、妙な緊張を含んでおります。
失礼ですわね。
わたくしは授業をしただけです。
たぶん。
「アリアンドラさん、解釈を」
「はい」
ここで動揺してはいけません。胸が苦しいからといって、それを顔に出してはなりません。淑女とは、胸に矢が立っているような気分でも、微笑みながらお茶を注げる生き物なのです。
「これは、すでに契りある相手を想ってしまう、苦しい恋の詩です。けれど、単に許されぬ恋を美しく見せている詩ではございません」
自分の声が、思ったより落ち着いていたことに少し驚きました。
「憎めるなら恋などしない、という逃げ場のなさを歌っております。この世界では、契約や誓約は重いものです。だからこそ、それを越えてしまいそうになる心の痛みも、強く響くのだと思います」
ユリナが、わずかにこちらを向きました。
目が合います。
ほんの一瞬です。
それだけで、続きを言うための息が少し乱れました。
けれど、わたくしは言葉を飲み込みませんでした。
「女神ティアの教えに照らすなら、愛は奪うための言い訳ではございません。契りある相手を想ってしまったとしても、その契りを壊すことを望むのではなく、自分の中に生まれた想いを、憎しみや嫉妬へ変えないように抱える。その苦しさを、愛の名で息をする、と表しているのだと思います」
言い切りました。
その瞬間、自分の視界がほんの少しだけにじんでいることに気づきました。
泣いてなどおりません。これは、自分の解釈が思った以上に胸に響いてしまっただけのことです。胸が苦しいのも、ユリナに先を行かれている気がして、勝負心が騒いでいるだけに違いありません。
けれど、わたくしだけではありませんでした。教室のあちらこちらで、姫候補たちがそっと目元を押さえ、騎士候補の中にも、うつむいて息を整えている方がおります。おそらく、ユリナに想いを寄せる方々には、今の詩が同じ場所へ届いてしまったのでしょう。
わたくしは違います。これは勝負です。胸が苦しいのも、負けたくないからです。
サリナの羽根ペンが静かに紙の上を走り、そこには『古典授業、涙腺崩壊事件』と記されておりました。
事件ではございません。
教室は、また静かになりました。
今度の静けさは、少しだけあたたかいものでした。先生は深く頷き、教本を閉じます。
「大変よろしい。苦しい恋を、奪う恋としてではなく、慎みを学ぶ詩として読めています」
「ありがとうございます」
わたくしは優雅に一礼し、席へ戻ろうとしました。
「アリアンドラ」
ユリナの声に、足が止まります。
「今の解釈、とても分かりやすかったですわ」
やめてください。
今それを言われると、わたくしの慎みが試されます。
「当然ですわ。古典は教養の基本ですもの」
わたくしは涼しい顔で答えたつもりでした。けれどヨシアーナとアキミリアが、こちらを見て小さく頷き合っております。何ですの、その「よく耐えましたね」という顔は。
「アリアンドラは、詩が上手ですの」
ミアティーネが、ユリナの袖をつまんだまま言いました。
「でも、声、少しふるえてた、ですの」
「ふるえておりません」
「そうですの?」
「そうですわ」
ミアティーネは不思議そうに首を傾げました。ユリナは何か言いたげでしたが、そこでサリナの羽根ペンがまた動きます。
『アリアンドラさん、胸の痛みを勝負心として処理』
「サリナ」
「はい」
「見せなさい」
「授業記録ですので」
「見せなさい」
「あとで清書いたします」
清書しなくてよろしいですわ。
先生が軽く手を叩き、教室のざわめきを収めました。
「二人とも良い朗読でした。次回は、各自で一首を選び、二人一組で相手に向けて朗読してもらいます。詩を読む時に大切なのは、自分の感情を押しつけることではありません。相手の心を尊び、言葉を届ける姿勢です」
二人一組。
相手に向けて朗読。
教室中の空気が、また少し変わりました。
ミアティーネは当然のようにユリナを見上げ、サリナは記録係の顔で周囲を観察し始めます。ヨシアーナとアキミリアは、なぜかわたくしの方を見ております。見なくてよろしい。
わたくしは席に戻りながら、ゆっくりと息を吐きました。
座学なら安全。
そんな考えは、古典の一時間で音もなく崩れました。
王立加護学園とは、実技では身体を、座学では心を転ばせにくる場所なのです。




