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第25話 走るだけでも礼法がありますわ

 実技の本番は、軽い走行確認から始まりました。


 王立加護学園の前期課程における姫候補の実技は、騎士候補の訓練とは性質が異なります。剣を振り、盾を構え、敵を倒すための授業ではございません。ランニング、体操、姿勢、舞踏歩行、ダンスなどを通して、式典や夜会で美しく見える身体の使い方と、長い社交を最後まで崩れず乗り切るための基礎体力を整えるものですわ。


 もちろん、剣を学びたい者のために選択教科はございます。姫であっても家の方針や本人の希望によって、木剣を持つことはできるのです。ただし、それはあくまで選択であり、姫候補全員が戦場へ出るために鍛えられるわけではありません。


 ですから、走るだけなら問題は起こらない。


 わたくしは、そう思っておりました。


「皆さん、外周へ移動なさい。今日は基礎体力作りと姿勢の確認から始めます」


 実技担当のハルマリア・ナンブリア先生が、よく通る声で告げました。ナンブリア先生は、背筋の伸びた落ち着いた方です。厳しい声を出さずとも、全員のしっぽが自然に静まるような、不思議な圧がございました。


「姫候補の実技は、美しく見せるためだけの飾りではありません。美しく立つには、崩れない足腰が必要です。美しく歩くには、呼吸が乱れても姿勢を保つ力が必要です。まずは軽く走り、身体を温めましょう」


「はい」


 返事が揃います。


 走るだけ。


 ええ、走るだけですわ。


 先ほどまでの準備運動では、ユリナの実技服姿に周囲がざわつき、ミアティーネの飛び込みで不可抗力接触案件まで発生しました。けれど、走るだけなら互いに触れることもありませんし、礼法を乱す余地などほとんどございません。


 ございません、はずでした。


「ミア、無理に速く走らなくて大丈夫ですわ。息が苦しくなったらすぐ言ってくださいね」


「うん、ですの。ミア、ゆっくり走る、ですの」


「サリナ、ミアをお願いします」


「承知いたしました、ユリナ様。ミアティーネ様、わたくしと一緒に参りましょう」


「サリナちゃんと走る、ですの」


 ユリナはいつものようにミアティーネの歩幅を気にしておりました。こういう時のユリナは、本当に自然です。自分が前へ出ることより、ミアティーネの歩調を先に考える。その姿勢だけ見れば、姫候補として美しい配慮と言えなくもありません。


 けれど、わたくしは知っております。


 この方は、その配慮のまま身体を動かすと、妙なところで騎士のようになるのです。


「ユリナ」


「はい、アリアンドラ」


「せっかくですから、少し競争いたしませんこと?」


 言ってから、わたくしは自分の言葉に少しだけ驚きました。走るだけなら問題ないと思った矢先に、わざわざ問題を起こしにいくような発言です。けれど、ここで引くわけにはまいりません。実技服姿に心を乱されたままでは、ディーテ家の名が泣きます。


「競争ですか?」


「ええ。もちろん、授業の範囲でですわ。あなたがどれほど走れるのか、見て差し上げます」


「私はミアに合わせて走るつもりでしたけれど……」


「ミアはサリナちゃんと走る、ですの」


 ミアティーネが、ユリナの袖を離してサリナの手を取ります。


「お姉さま、アリアンドラと走って、ですの」


「ミア、本当に大丈夫ですか?」


「大丈夫、ですの。サリナちゃん、いる、ですの」


「はい。ミアティーネ様の歩幅に合わせますわ」


 サリナが穏やかに頷きました。その袖の内側に、また紙片が見えた気がいたします。走る授業で何を記録するつもりなのか、今のわたくしにはまだ分かっておりませんでした。


「では、アリアンドラ。無理のない範囲で」


「その言葉、そっくりお返しいたしますわ」


 外周の線に並ぶと、ナンブリア先生が手を上げました。


「競争する者は、周囲にぶつからないこと。速さより姿勢を優先しなさい。走る時も、姫候補は見られているものです」


 その言葉に、わたくしは小さく頷きました。見られているなら、なおさら負けるわけにはまいりません。ヨシアーナとアキミリアも、少し離れたところで期待に満ちた顔をしております。期待の方向が、わたくしの勝利ではなくユリナの走る姿に向いている気がするのは、きっと気のせいです。


「始めなさい」


 先生の合図で、わたくしたちは走り出しました。


 最初の数歩で分かりました。ユリナは、速い。


 全力で飛び出しているわけではありません。むしろ、こちらの呼吸を見ながら合わせております。それなのに、足音が乱れず、肩が上下せず、実技服の袖と銀色の髪だけが走る風に合わせて流れました。猫耳は前を向き、しっぽは大きく揺れず、まるで身体全体が一本の線で支えられているようです。


 姫候補の走りではございません。


 いえ、姫候補でも走れます。走れますけれど、これは少し違います。舞踏の姿勢に、騎士の足運びが混じっているような、不思議な走りでした。


「アリアンドラ、ペースは大丈夫ですか?」


「問題ありませんわ」


 ユリナは、自然とわたくしの隣に並びました。競争を申し込んだのはわたくしですから、肩を並べて走ること自体は当然です。けれど、当然だからといって、平静でいられるとは限りません。


 近い。


 実技服の白が、視界の端で揺れます。銀色の髪、猫耳、しっぽ、背筋、足運び。そこまではよろしいのです。問題は、走るたびに実技服越しの正面が、わたくしの視界の端で、非常に主張してくることでした。


 見ておりません。


 見えてしまうだけですわ。


 横並びで走っている以上、視界に入るのは物理的に避けられません。これはわたくしの不作法ではなく、位置関係の問題です。ええ、位置関係です。つまり、原因は競争です。競争を申し込んだのはわたくしですが、それは今は考えないことにいたします。


「アリアンドラ?」


「何でもありませんわ」


「少し顔が赤いような」


「走っているのですから当然です」


「そうですか?」


「そうです」


 ユリナは納得したような、していないような顔をしました。どうしてそこで素直に心配そうな顔をするのですか。余計に視線が外せなくなるではありませんか。


 前を見なさい、わたくし。


 足元を見なさい、わたくし。


 いいえ、足元を見すぎても姿勢が崩れます。前方を見るのです。けれど前方には少し前に出たユリナがおり、その実技服がまた揺れる。逃げ場がありません。学園の外周に、これほど高度な精神修行が隠されていたとは思いませんでした。


「ユリナ、少し上げますわよ」


「はい」


 負けていられないという気持ちで、わたくしは足を速めました。ユリナも無理なくついてきます。むしろ、こちらが上げたぶんだけ自然に合わせ、また肩を並べてくるのです。


 なぜ並ぶのですか。


 競争とは、片方が前へ出るものではありませんの。


 そんなことを考えた瞬間、視界の端で、また白い布地が揺れました。


 駄目です。


 意識してはいけません。


 意識した瞬間、脚がもつれました。


「あっ」


「アリアンドラ!」


 わたくしの身体が前へ傾いた瞬間、少し前に出ていたユリナが振り返りました。反応が早すぎます。まるで、最初からこちらが転ぶ可能性を見ていたかのように、ユリナの腕が伸びました。


 支えられた。


 そこまではよかったのです。


 けれど、走っていた勢いは急に止まりません。ユリナが受け止め、わたくしが踏みとどまろうとし、二人分の動きが妙な形で重なりました。次の瞬間、わたくしの顔は、ユリナの胸元へ完全に埋まる形になっておりました。


 やわらかい。


 思ってはいけない言葉が、頭の中に浮かびました。


 柔らかいのです。


 実技服越しです。もちろん、実技服越しです。直接どうこうではございません。けれど、先ほどの不可抗力接触案件とは比べものにならないほど近く、逃げ場のない柔らかさが、わたくしの顔の正面にございました。


「アリアンドラ、大丈夫ですか?」


 ユリナの声が、頭の上から降ってきます。


 大丈夫ではありません。


 主に、精神が。


「……やわらか」


「え?」


「い、いえ、何でもありませんわ!」


 わたくしは慌てて顔を離しました。顔を離したつもりでしたが、ユリナはまだわたくしの肩を支えております。しかも本気で心配しているだけの顔です。恥じらいも、動揺も、妙な意識もありません。


 ありませんでした。


 なぜですの。


「本当に痛くありませんか? 足をひねっていたら」


「痛くありません。それより、ユリナ」


「はい」


「あなた、恥じらいはございませんの?」


 ユリナは、心底分からないという顔をしました。


「恥じらい、ですか?」


「ええ。今の状況ですわ。わたくしが、あなたの、その、正面に……」


 言えません。


 言えるわけがありません。


 ディーテ家の令嬢として、これ以上具体的に説明するのは不可能です。けれどユリナは首を傾げたままで、まったく通じていない様子でした。


「事故ですし、アリアンドラが怪我をしなければそれでよいのではありませんか」


「だから、その無防備さを問題にしておりますの」


「漢ですから、別に」


 出ました。


 また、出ました。


 この方は、困った時にその謎の称号を持ち出せば何でも通ると思っていらっしゃるのですか。


「ユリナ。以前から疑問でしたけれど、漢とは、痴女という意味でしたの?」


「ち、違いますわ!」


「では、なぜ恥じらいがないのですか」


「恥じらいがないわけではありません。ただ、転びそうな人を助ける時に、そこまで気にしていられないというか」


「正論を混ぜるのはおやめなさい」


「ええと、すみません?」


 謝られると、それはそれで困ります。


 わたくしが悪いような気がしてくるではありませんか。いえ、脚がもつれたのはわたくしですから、悪いのはわたくしなのかもしれません。けれど、脚がもつれた理由の何割かはユリナの実技服にもあるので、完全にわたくしだけの責任とは認めたくございません。


「お姉さま」


 少し遅れて、ミアティーネとサリナが駆け寄ってきました。ミアティーネは息ひとつ乱れておらず、サリナは穏やかな顔のままです。


「アリアンドラ、顔あかい、ですの」


「走ったからですわ」


「さっきより、あかい、ですの」


「日差しです」


「ここ、屋根、ありますの」


「ミアティーネ」


「はい、ですの」


 この子は時々、眠そうな顔で急所だけを正確に突いてきます。恐ろしい子ですわ。


 その横で、サリナが紙片を取り出しておりました。


「サリナ」


「はい、アリアンドラさん」


「今、何を書きましたの?」


「走行中の安全確認についてですわ」


「本当に?」


「もちろんです。転倒未遂時、ユリナ様の反応は迅速。アリアンドラさんの意識は前方ではなく、少し別の方向へ向いていた可能性あり、と」


「そこまで書く必要はありませんわ!」


「では、短くいたします」


「短くすればよいという話では」


 サリナは、さらさらと何かを書き直しました。


 後に知ったことですが、その紙片には、ただ一言。


『ラッキースケベ』


 そう記されていたそうです。


 聞き慣れない言葉ですが、おそらくユリナの口から出た語彙を採集したのでしょう。意味は分からずとも、なぜか無性に腹立たしい響きでした。


 短くしすぎですわ。


「皆さん、止まりなさい」


 ナンブリア先生の声が響きました。


 わたくしは背筋を伸ばし、ユリナも慌てて手を離します。ヨシアーナとアキミリアは少し離れた場所で、見てはいけないものを見た顔をしておりました。いいえ、あなた方は見てはいけないものなど見ておりません。見ておりませんわよね。


「アリアンドラさん、怪我はありませんか」


「ございません」


「ユリナティーネさん、支えた判断は悪くありません。ただし、走行中に急停止すると、支える側も巻き込まれます。声をかける余裕がある時は、先に声をかけなさい」


「はい」


 ユリナは素直に頷きました。


「そしてアリアンドラさん」


「はい」


「競争すること自体は構いません。互いに意識して走ることも、姿勢を整えるよい訓練になります。ただし、最低限、転ばないように前を見なさい」


 正論でした。


 あまりにも正論でしたので、わたくしは何も言い返せませんでした。


「……承知いたしました」


「よろしい。実技服を見る授業ではありません」


「見ておりません!」


 思わず声が出ました。


 ナンブリア先生が、ほんの少しだけ眉を上げます。


「そうですか」


「はい。見ておりません。見えてしまっただけですわ」


 言ってから、しまったと思いました。


 ヨシアーナとアキミリアの猫耳がぴんと立ち、サリナの筆先がまた動きます。ミアティーネは不思議そうに首を傾げ、ユリナだけが本当に分かっていない顔でこちらを見ておりました。


 なぜですの。


 なぜ、あなたが一番分かっていないのですか。


「では、走行確認はここまで。次は姿勢と舞踏歩行に移ります」


 ナンブリア先生が手を叩きました。


「走る時に乱れた呼吸を、歩きながら整える練習です。隣の相手と歩幅を合わせ、美しく並んで歩くこと。互いの距離を見失わないように」


 隣の相手と、歩幅を合わせる。


 美しく並んで歩く。


 互いの距離を、見失わない。


 わたくしは、静かに息を吸いました。走るだけでこれほど礼法を試されるのです。ユリナと並んで歩く授業など、もはや実技ではなく精神修行ではございませんか。


「アリアンドラ、次もよろしくお願いします」


 ユリナが、何も分かっていない顔で手を差し出します。


 わたくしは赤い手袋の指先を握りしめ、それから、できる限り優雅に顎を上げました。


「よろしくてよ。次こそ、前だけを見て差し上げますわ」


「前だけ?」


「何でもありません」


 更衣室では、わたくしが礼法で勝ちました。


 準備運動では、判定不能でした。


 走行確認では、転びかけました。


 そして次は、ユリナと並んで歩くのです。


 わたくしはその時、王立加護学園の実技というものが、想像していたよりずっと危険な授業なのだと、深く理解し始めておりました。


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