第24話 実技服は反則ですわ
更衣室の騒動が終われば、あとは授業に集中するだけ。
わたくしは、そう思っておりました。
王立加護学園の実技場は、姫候補と騎士候補が同じ基礎を学べるように造られております。床には転んでも怪我をしにくい厚い敷物が並べられ、壁際には木剣や訓練用の棒、舞踏歩行の目印に使う細い板が整然と置かれておりました。剣を持つための場所というより、身体を知り、姿勢を整え、いざという時に自分や家族を守るための場所ですわ。
ですから、実技場に入った瞬間、わたくしの中の礼法は少し静かになります。
立ち方。呼吸。足の置き方。相手との距離。
どれも社交と同じくらい重要で、どれも嘘をつけません。着替えの最中にどれほど常識を揺さぶられようとも、授業が始まってしまえば勝負です。わたくしはディーテ家の娘として、そして王家に名を知られる者として、ユリナに負けるつもりなどございませんでした。
ございませんでしたのに。
実技服のユリナは、凶悪でした。
いえ、物騒な意味ではございません。剣を振り回したわけでも、誰かを威圧したわけでもございません。ただ、白を基調とした実技服を着て、少し眠そうなミアティーネの袖を直しながら、こちらへ歩いてきただけです。
それだけなのに、実技場の空気が一段変わりました。
「えっ、うそ……」
「素敵ですわ……」
「細いのに、しなやかで……」
「あれは、普段のお召し物が隠しすぎですわね……」
周囲の姫候補たちが、小さく息を呑みます。わたくしは聞こえていないふりをしましたが、猫耳は正直です。あちらこちらで、ぴくり、ぴくりと揺れておりました。
もちろん、わたくしは揺らしておりません。
たぶん。
ユリナに感じていた妙な印象。姫らしい愛らしさと、騎士めいた凛々しさが同居している理由を、わたくしはずっと不思議に思っておりました。けれど実技服は、普段の制服やドレスが上手に隠していたものを、あまりにも正直に見せてしまいます。
まっすぐ伸びた背筋。無駄のない足運び。細いのに頼りなくはない腰の軸。肩から腕にかけての線も、ただ華奢なだけではなく、日々きちんと身体を使っている者のそれでした。
姫候補の中にも、成人の儀で騎士の加護を授かる方はおります。幼い頃から気配がそれらしい方もいて、本人も周囲もなんとなく覚悟しているものです。たとえば、ヨシアーナ・モガミリアやアキミリア・シムリアのように、姫候補でありながら鑑賞の視線だけが妙に騎士寄りの方々など。
「ヨシアーナ、口元が緩んでおりますわ」
「はっ。申し訳ございません、アリアンドラ様。あまりにも見事なお姿でしたので」
「アキミリアもです。淑女の顔に戻りなさい」
「戻しているつもりでございます、アリアンドラ様」
「では、戻っておりませんわ」
二人は同時に背筋を伸ばしました。けれど視線は、どうしてもユリナの方へ戻ってしまうようです。まったく、わたくしの寄子だというのに困った方々ですわ。あとでお母様に相談した方がよろしいかもしれません。姫候補として育てられているはずなのに、見る目だけが、あまりにも不埒です。
とはいえ、ユリナに限っては、それだけで済ませることもできません。
候補どころか、すでに姫となられた方々まで、ユリナに心を奪われると聞いたことがあります。最初は大げさな噂だと思っておりましたが、今なら少しだけ、ほんの少しだけ理解できる気がいたしました。少しだけです。わたくしは違います。ユリナは勝負の相手であって、見惚れる相手ではございません。
ええ、見ておりません。
ただ、実技服というものは、時に正直すぎる衣装なのだと理解しただけです。普段のお召し物では柔らかく隠されていた輪郭が、動きやすさを優先した布地の下で、妙に存在を主張しておりました。何が、とは申し上げません。申し上げませんが、ヨシアーナとアキミリアが黙っていられなくなる理由は、淑女として認めたくない程度には分かりました。
「……実技服にも、礼法が必要ですわね」
わたくしが低く呟くと、隣にいたサリナが穏やかに微笑みました。
「アリアンドラさん、何かおっしゃいましたか?」
「何でもありませんわ。わたくしは今、学園制度の盲点について考えていただけです」
「それは有意義ですわね」
「あなた、何か知っている顔をしておりますわ」
「気のせいですわ」
サリナは、あくまで淑やかに目を伏せました。その袖の内側に小さな紙片が隠れていることを、わたくしは見逃しません。更衣室で記録帳を持っていなくても記録していた方です。きっと、今この瞬間も何かを書き留める機会をうかがっているのでしょう。
油断できない方ですわ。
「皆さん、整列なさい」
実技担当のハルマリア・ナンブリア先生が手を叩きました。
「今日は基礎体力と姿勢の確認を行います。まずは二人一組で準備運動をしてください。無理に力を入れず、相手の呼吸を見ながら身体を伸ばすこと。相手を支える時は、声をかけること。よろしいですね」
「はい」
返事が実技場に揃います。
二人一組。
ヨシアーナとアキミリアは、当然のように並びました。二人は寄子同士で息も合いますし、実技の時はいつも組んでおります。となると、わたくしは別の相手を探す必要がありました。
どなたがよろしいかしら、と周囲を見たところで、ユリナがこちらへ歩いてきました。
「アリアンドラ」
「ユリナ、どうしましたの?」
「よかったら、サリナと組んでいただけませんか。ミアは私が見ますので」
「ええ、よろしくってよ。ちょうどわたくしも相手を探しておりましたの」
向こうから声をかけてくださるなら、話は早いです。サリナなら動きも丁寧でしょうし、相手として不足はございません。そう考えて頷いた瞬間、ミアティーネがユリナの袖をきゅっと引きました。
「ミアがサリナちゃんと組む、ですの」
「ミア?」
「お姉さまは、アリアンドラと組んで、ですの」
空気が止まりました。
いえ、止まったのはわたくしだけかもしれません。サリナは何事もない顔でミアティーネの前に立ち、ヨシアーナとアキミリアは露骨にこちらを見ております。先生は他の組を見ていて、まだこの小さな異変には気づいていません。
「ミアティーネ。あなた、何を言っておりますの?」
「サリナちゃんと手を組む、ですの」
「そうではなくて、なぜユリナとわたくしが組む話になるのですか」
「お姉さま、アリアンドラに実技を見てもらうって言ってた、ですの」
「見てもらうとは、そういう意味では……」
ユリナが困ったように笑いました。
困ったように、です。
いつもの堂々とした笑顔でも、更衣室で見せた素直すぎる顔でもありません。少し眉を下げ、銀色の猫耳を控えめに伏せて、こちらの機嫌をうかがうような顔でした。
「アリアンドラ、私では駄目ですか?」
反則ですわ。
そんな顔をなさるなんて、反則ですわ。
なぜあなたは、勝負の相手に向かってそういう顔をするのですか。こちらが断りにくいと分かっていてやっているのなら相当な策士ですし、分かっていないのなら、もっと厄介です。
「……そのお顔は何なのです?」
「この顔が、ですか?」
「ええ、その顔がです」
「こんな顔ですわ」
ユリナは、今度はわざとらしく眉を上げ、得意げに笑ってみせました。
これは分かります。どや顔ですわ。
「急に分かりやすくならないでくださいまし」
「では、組んでいただけますか?」
「仕方ありませんわね。組みますわ。組めばよろしいのでしょう」
「ありがとうございます」
いちいち表情が素直で腹が立ちます。腹が立つので、心臓の鼓動が少し早くなっているだけです。もちろん、他に理由などございません。
隣では、ミアティーネがサリナの手を取っております。
「サリナちゃん、こう、ですの」
「はい、ミアティーネ様。力を入れすぎないようにお願いいたしますね」
「ミア、力いれないですの」
「それはとても助かりますわ」
サリナがさらりと返しましたが、わたくしは聞き逃しませんでした。ミアティーネは普段、眠そうでふわふわしておりますが、あの子の力加減についてはユリナが常に気を配っております。つい先日も、机を少しだけ押したつもりで、大きな音を立てていたのを見ておりますから。
ただの妹ではありません。
ユリナが常に気にかけている理由は、そこにもあるのでしょう。
「アリアンドラ、手を」
「ええ」
ユリナが両手を差し出します。わたくしはそれを取り、先生の掛け声に合わせて横へ身体を倒しました。指先を組み、片側ずつ脇を伸ばし、呼吸を合わせます。ユリナの手は姫らしく細いのに、握ると妙にしっかりしておりました。無駄に力を入れているわけではなく、相手を支える場所を分かっている手です。
「力の入れ方が、上手ですわね」
「そうですか?」
「ええ。姫候補の握り方ではありませんわ」
「ソーマ家では、ミアが転びそうな時に支えることが多いので」
「それだけで、こうはなりませんわ」
ユリナは一瞬だけ目をそらしました。
何かを隠した、というほどではありません。ただ、真正面から褒められることに慣れていない方の反応でした。こういうところがまた、周囲を勘違いさせるのです。本人は何気なくしているつもりでも、受け取る側の心臓にはよろしくございません。
「次、背中を合わせてください」
先生の声が響きました。
背中合わせ。
わたくしは一度、礼法の心を取り戻すために呼吸を整えました。これは準備運動です。授業です。相手の身体を支え、交互に背を伸ばすだけの、ごく一般的な実技です。そこに余計な意味を持ち込む方が不作法ですわ。
「先に私が下になりますね」
「よろしいの?」
「はい」
「では、遠慮なく」
背中を合わせ、ユリナが少し膝を曲げます。わたくしは息を吐きながら体重を預けました。背中越しに伝わる温度は、思っていたよりも高く、実技服越しでもユリナがしっかりと立っているのが分かります。
悔しいことに、安定しておりました。
わたくしが身体を伸ばしても、ユリナはほとんど揺れません。細いのに、支え方が上手い。足裏で床をつかみ、腰で受け、背中全体で重さを散らす。まるで、誰かを守るために身体の使い方を覚えた人のようでした。
「ユリナ」
「はい」
「あなた、本当に姫候補ですの?」
「たぶん、そうですわ」
「たぶんで済ませる話ではございませんわ」
「でも、成人の儀までは分かりませんもの」
その答えは正しい。正しいのですが、ユリナが言うと、なぜか少しだけ違う響きに聞こえました。自分が何者であるかを、まだはっきり定めていないような。けれど、ミアティーネの隣に立つことだけはもう決めているような。
そういうところが、厄介です。
「次は交代です」
「ええ」
今度は、わたくしが下になる番でした。
屈辱ではありません。準備運動です。実技の一環です。ええ、そうですとも。
背中にユリナの重さが預けられます。思ったより軽く、けれど存在感ははっきりしておりました。実技服越しの温度が肩口から伝わり、耳のあたりでユリナの呼吸が微かに聞こえます。わたくしは前を向いたまま、できる限り平静を装いました。
見ているわけではありません。
背中に感じているだけです。
それも授業の一部です。
「アリアンドラ、痛くありませんか?」
「ありませんわ。あなたこそ、力を抜きすぎて落ちないようになさい」
「ええ、承知いたしましたわ」
素直な返事。
またそれですわ。
礼法に疎いところがあるかと思えば、相手を気遣う声だけは自然です。無防備なのに、優しい。抜けているのに、肝心なところではまっすぐ。だから周囲が騒ぐのだと分かってしまうのが、非常に腹立たしいところでした。
背中合わせの運動が終わると、わたくしは一歩離れ、呼吸を整えました。
「ありがとうございます、アリアンドラ」
「礼はいりませんわ。お互いさまですもの」
「でも、動きが整っていました」
「当然ですわ」
当然です、と答えながら、少しだけ頬が熱くなりました。褒められたからではありません。実技場が少し暑いだけです。そういうことにしておきます。
このまま準備運動が終われば、まだ良かったのです。
「お姉さま」
ふわりとした声が、後ろから聞こえました。
「ミア?」
ユリナが振り向いた瞬間、ミアティーネが小走りでこちらへ来ました。小走り、と申し上げましたが、あの子の場合は距離の詰め方が妙に速いのです。気づいた時にはもう、ユリナの背中に抱きつくような形で飛び込んでおりました。
「お姉さま、終わった、ですの」
「わっ、ミア、危ないですわ」
「きゃっ」
ユリナが受け止める。けれど勢いを殺しきれず、二人分の動きがそのまま前へ流れました。
目の前にいたのは、わたくしです。
避ける時間はございませんでした。
どん、と正面から衝撃が来ます。
ただ、その衝撃は硬いものではありませんでした。実技服越しに伝わったのは、転倒を防ぐために必死で踏みとどまるユリナの腕と、ミアティーネをかばおうとする身体の動きと、そして淑女として口に出してはいけない種類の、とても柔らかな何かです。
ぷにっ。
「……っ」
危なかったですわ。
声が出かけました。
出かけた声を、ディーテ家の誇りで飲み込みました。
「アリアンドラ、大丈夫ですか?」
ユリナが慌てて離れようとします。けれど背中にはミアティーネがくっついたままで、動きが少しぎこちない。銀色の猫耳が本気で焦ったように伏せられていて、普段なら少し面白いと思えたかもしれませんが、今のわたくしには余裕がありませんでした。
「だ、大丈夫ですわ」
「本当に? 痛くありませんか?」
「痛くは、ありません」
「よかったですわ」
痛くはありません。
痛くは、ありませんでした。
ただ、痛くないことと平静でいられることは別問題です。先ほどの衝撃を思い出してはいけません。どこがどうとは申し上げません。実技服は防具ではないのですから、柔らかいものは柔らかい。ただそれだけの話です。はい、終わりです。
「もう、ミア。アリアンドラにぶつかってしまったでしょう。危ないから、走って飛びついてはいけません」
「ごめんなさい、ですの」
「ミアも怪我をしたら困りますからね」
「ミア、気をつける、ですの」
ユリナがミアティーネの頭を撫でます。ミアティーネは素直に頷き、それからこちらを見上げました。
「アリアンドラ、ごめん、ですの」
「お気になさらないで」
「柔らかかった、ですの?」
「っ」
ミアティーネの問いに、わたくしは一瞬だけ固まりました。
なぜ、そこを聞くのですか。
なぜ、その言葉を選ぶのですか。
まさかこの子、分かっていて言っているのではありませんわよね。いえ、ミアティーネですから、たぶん分かっておりません。分かっていないからこそ、真正面から聞いてくるのです。恐ろしい子ですわ。
「ミア、その聞き方は少し違いますわ」
ユリナが慌てて止めました。
「ごめん、ですの。痛くなかったか聞きたかった、ですの」
「ええ、痛くありませんでしたわ。ご心配なく」
「よかった、ですの」
ミアティーネはほっとしたように笑いました。
その横で、サリナがいつの間にか近づいております。
「アリアンドラさん、本当にお怪我はございませんか?」
「ええ。何でもありませんわ」
「それなら安心いたしました。先ほどの接触は、不可抗力でしたものね」
「ええ、不可抗力ですわ」
「柔らかい不可抗力でしたか?」
「ええ、とても柔らか……」
言いかけて、止まりました。
サリナが微笑んでおります。
袖の内側から、小さな紙片が見えております。
「サリナ」
「はい」
「今のは誘導ですわね」
「いいえ。安全確認ですわ」
「安全確認に、柔らかさは必要ありませんわ」
「衝撃の種類を把握することは、実技において大切かと」
「それらしい言い方で誤魔化さないでくださいまし」
サリナは否定も肯定もせず、さらりと紙片を袖へ戻しました。後に知ったことですが、その紙片には『不可抗力接触案件。アリアンドラさん、発言寸前で踏みとどまる』とだけ記されていたそうです。
なぜ記録するのですか。
そして、なぜ評価されているのですか。
「皆さん、準備運動は終わりましたか?」
先生の声が実技場に響きました。
わたくしは慌てて姿勢を正しました。ユリナもミアティーネをそっと離し、サリナは何事もなかったように自分の位置へ戻ります。ヨシアーナとアキミリアは、見てはいけないものを見た後のような顔をしておりました。
「ヨシアーナ、アキミリア」
「はい、アリアンドラ様」
「何も見ておりませんわね?」
「はい。何も」
「見事な不可抗力など、何も」
「アキミリア」
「申し訳ございません」
やはり、この二人の教育も必要ですわ。
「では次に、基礎体力の確認へ移ります。まずは外周を軽く走ります。速さを競う時間ではありません。呼吸、姿勢、足運びを整え、転ばずに走ることを第一に」
呼吸を整える。
姿勢を崩さない。
その言葉を聞いた瞬間、ユリナの表情が少しだけ変わりました。先ほどまでの無防備な笑みが引き、目の奥に静かな集中が宿ります。ミアティーネを見る時の柔らかさは残したまま、それでも身体の軸だけが、すっと実技の方へ向いたのです。
わたくしは、そこでようやく思い出しました。
この方は、更衣室ではとんでもなく無防備でした。実技服でも、こちらの心を乱すほど危険でした。けれど、身体を動かす時のユリナは、ただの天然な姫候補ではありません。
ミアティーネを守るために、無意識のうちに鍛えられてしまった姫です。
「アリアンドラ」
「何ですの?」
「次も、よろしくお願いします」
ユリナがこちらへ手を差し出しました。
その手を見て、わたくしは小さく息を吐きます。
「よろしくてよ。ただし、実技では負けませんわ」
「はい。私も、ミアに格好悪いところは見せられませんから」
また、それですわ。
この方は本当に、全部の理由がミアティーネなのです。
腹が立つほど真っ直ぐで、呆れるほど分かりやすくて、そのくせ目を離すと何をしでかすか分からない。
走行確認が始まる前、わたくしは自分のしっぽが静かに揺れていることに気づきました。認めたくはありません。けれど、ディーテ家の令嬢として、事実から目をそらすわけにもまいりません。
更衣室では、わたくしが礼法で勝ちました。
準備運動では、判定不能でした。
そして実技の本番は、ここからでした。




