第23話 更衣室にも礼法がありますわ
王立加護学園には、座学だけでなく実技の授業もございます。
加護学、礼法、政治、経営といった机上の学びはもちろん大切です。けれど、騎士候補は身体を動かせなければ話になりませんし、姫候補であっても、最低限の身の守り方と加護の扱いを学ばなければなりません。王国を支える家の子女が集まる学園である以上、上品に椅子へ座っていればそれでよい、というわけにはいかないのです。
その日の午後は、実技の授業でした。
前の授業が終わると、教室の空気がいつもより少し浮き立ちました。普段の制服から実技服へ着替える必要があるため、皆、教科書や筆記具をしまいながら、そわそわと更衣室へ向かう支度を始めます。わたくしも扇を閉じ、ヨシアーナ嬢とアキミリア嬢を連れて廊下へ出ようとしたのですが、その二人が妙に熱を帯びた顔でこちらを見ておりました。
「アリアンドラ様、ユリナティーネ様とも実技がご一緒だなんて、光栄ですわね」
「ええ。ユリナティーネ様が同じ更衣室にいらっしゃると思うだけで、胸が高鳴りますわ」
……何を高鳴らせておりますの。
ディーテ家とソーマ家は、表面上は同じ王国の名門として礼を尽くしつつ、内側では家格、実績、社交の影響力を競い合う関係です。少なくとも、わたくしはそう教えられて育ちましたし、ユリナとは良きライバルとして、正々堂々と競い合うつもりでおります。
それなのに、わたくしの周りにいるはずの寄子たちは、いつの間にかユリナの姿を見つけるたびに猫耳をぴくぴくさせるようになっておりました。いえ、気持ちは分からなくもありません。分からなくもありませんが、それとこれとは別です。
「お二人とも、実技の前から浮かれすぎではなくて?」
「浮かれてなどおりませんわ」
「ただ、ユリナティーネ様の立ち居振る舞いを近くで学べる機会ですもの」
学ぶ。便利な言葉ですわね。
けれど、ここで叱りつけても逆効果でしょう。わたくしはディーテ家の令嬢として、寄子たちの行き過ぎた憧れも、品よく整える責任があります。そう、責任です。ユリナの周囲が無秩序になるのを見過ごせないだけで、別に、わたくしがユリナを特別に気にしているわけではございません。
ございませんったら、ございません。
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更衣室は、実技場へ続く廊下の奥にありました。
壁際には衣類をしまうためのロッカーが並び、奥には一人ずつ使えるカーテン付きの仕切りが整えられております。前期課程の生徒はまだ十四歳。成人の儀を迎えるまでは、姫になるか騎士になるか確定してもおりません。だからこそ、姫候補同士であっても、むやみに肌を見せないのが礼法でした。
同じ姫候補しかいないからといって、何もかも無防備でよいわけではありません。むしろ、誰もが姫候補だからこそ、距離感と身支度の作法は細かく決められております。社交界とは、見えているものだけでなく、見せないものによっても品位を測る場所なのです。
わたくしがその当然の常識を胸の中で確認していた、その時でした。
「……え」
「よろしいのかしら……」
「あ、あの、どなたか……」
ざわめきが、更衣室の片側から細く広がりました。
何事かと思って目を向けると、ユリナがロッカーの前で制服の上着に手をかけておりました。あまりにも自然な所作だったので、一瞬、わたくしの理解が追いつきませんでした。見れば、ユリナの隣ではミアティーネが実技服を抱えて立っており、周囲の生徒たちは目を逸らすべきか、止めるべきかで固まっております。
「ユリナ! あなた、何をしていらっしゃいますの!」
「えっ、びっくりしましたわ。何って、着替えに決まっているではありませんか」
「ロッカーの前で着替える淑女が、どこにおりますの!」
「え? 女の子同士ですし、別に良いのではありませんか?」
「どこの博愛主義者ですか、あなたは!」
思わず声が大きくなりました。けれど、これは仕方のないことです。目の前で、社交界の常識と更衣室の礼法が、銀色の猫耳を揺らしながら無邪気に踏み越えられようとしていたのですから。
わたくしは周囲の生徒たちを見回しました。
「あなたたちも見ていないで、注意なさいませ」
そう言ってヨシアーナ嬢とアキミリア嬢を見ると、二人はそろって視線を泳がせました。
「えっ、ですが……」
「ユリナティーネ様のお支度のご様子を拝見できると思うと……」
「拝見してどうするおつもりですの」
二人は姫候補です。少なくとも、家の扱いとしては姫候補です。けれど今この瞬間、わたくしの中で、二人の肩書きの横に小さく「隠れ騎士疑惑」と書き足されました。しかも、かなり不埒な方向に好奇心の強い騎士です。今後のお付き合いの仕方を、少し考え直したほうがよいかもしれません。
もちろん、わたくしは違います。
わたくしは純粋に礼法上の問題として止めているだけです。
「ですって、ミアティーネ。カーテンの中へ入りましょう」
「……お姉さま、こっち、ですの」
ミアティーネが、当然のようにユリナの袖を引きました。ユリナも「あ、そうですわね」と素直に頷きます。素直です。素直なのですが、なぜ最初からそうなさらないのですか。
そこで、少し遅れてサリナが更衣室へ入ってきました。手にはいつもの記録帳ではなく、実技用の小さな鞄を持っております。おそらく先生に何かを届けていたのでしょう。
「遅れて申し訳ありません、ユリナ様」
わたくしは、ほんの少し安堵しました。サリナなら、ユリナの非常識な行動を静かに止めてくれるはずです。昼休みの件で少々油断ならないところはありますが、彼女は基本的に常識人で、ユリナの身の回りを整える役目を担っているのですから。
「では、ユリナ様、ミアティーネ様、失礼して……」
「お待ちなさい!」
わたくしの声が、また更衣室に響きました。
ユリナとミアティーネとサリナが、三人そろってきょとんとこちらを見ます。周囲の生徒たちの猫耳も、つられるようにぴくりと動きました。
「何ですの、アリアンドラ」
「何ですの、ではありませんわ。なぜ三人で一つの仕切りに入ろうとしておりますの?」
「なぜって、ねえ?」
ユリナがミアティーネを見ると、ミアティーネは小さく頷きました。
「ミア、お姉さまと一緒がいい、ですの」
「わたくしは、いつもユリナ様のお支度をお手伝いしておりますわ」
「ミアは、お姉ちゃんでないと手元が狂ってしまいますから」
三人とも、まるで当然のことのように言いました。
この三人は、距離感という言葉を学園に置いてきたのでしょうか。いえ、学園に入る前から置いてきたのかもしれません。ユリナとミアティーネの姉妹の近さは初日から理解していたつもりですが、サリナまであまりにも自然にそこへ混ざっているのを見ると、わたくしの中の礼法が、扇で額を押さえながら倒れそうになります。
「ユリナは、恥ずかしくありませんの? 人に身支度を見られることが」
「漢ですから、別に」
「漢とは、羞恥心を置き去りにする称号でしたの?」
「違いますわ!」
ユリナの猫耳がぴんと立ちました。ミアティーネはその横で、実技服を抱えたまま首を傾げています。サリナはおっとりと微笑んでいましたが、その口元が、なぜか少しだけ誇らしげに見えました。
ユリナが言うところの、どや顔、というものでしょうか。いえ、きっとそれは、わたくしの浅ましさが生み出した幻覚に違いありません。
「お姉さま、おくれる、ですの」
「あ、はい。アリアンドラ、いつも朝のお支度も三人でしていますので、ご心配には及びませんわ」
「べ、別に心配などしておりません。ただ、学園の更衣室には学園の作法があると申し上げているだけですわ」
「なるほど。更衣室にも礼法があるのですね」
「ありますわ!」
この方は本当に、どこまでも素直です。だからこそ、こちらの調子が狂うのです。
とりあえず、ロッカーの前で堂々と着替え始めるという惨事を防いだだけでも良しとしましょう。三人で一つの仕切りに入ることについては、もう、深く考えると負けのような気がいたしました。
「一番奥をお使いなさいませ。周囲の視線が届きにくい位置ですわ」
「ありがとうございます、アリアンドラ」
「お礼など不要でしてよ。秩序を守っただけですもの」
ユリナ、ミアティーネ、サリナの三人が一番奥の仕切りへ入っていきました。すると、わたくしは自然な流れで、その隣の仕切りへ入りました。ええ、自然な流れです。誰かが隣を確保しなければ、またヨシアーナ嬢やアキミリア嬢が妙な好奇心で近づきかねませんから。
わたくしの判断は、礼法上、極めて正しいのです。
カーテンを閉めると、布一枚隔てた向こうから、衣擦れの音と、ミアティーネの小さな声が聞こえてきました。
「お姉さま、これ、こっち、ですの?」
「そうですわ。腕を通して……あ、待って、ミア、逆ですわ」
「ユリナ様、帯はこちらでございますわ」
「ありがとう、サリナ。ミア、動かないで。お姉ちゃんが直しますから」
……いけません。
これは、何か、とてもいけない場所にいる気がいたします。
見ているわけではありません。見えてもおりません。もちろん、聞き耳を立てているわけでもありません。ただ、隣の仕切りから聞こえてくる声が、あまりにも家庭の朝の支度そのものなので、わたくしの想像力が勝手に余計な絵を描こうとしているだけです。
わたくしは手早く実技服へ着替えました。手袋を外し、袖を通し、髪が乱れていないかを確かめ、しっぽが不自然に膨らんでいないかも確認します。ディーテ家の令嬢たるもの、実技服であっても身支度に隙は許されません。
けれど、着替え終えた瞬間、わたくしは一つの結論に至りました。
この隣の位置は、他の誰にも譲ってはなりません。
理由は分かりません。いえ、分かっております。ユリナたちの無防備さを、周囲の妙な好奇心から守るためです。そう、守るため。断じて、隣から聞こえる声が気になるからではありません。
カーテンを開けて外に出ると、少し遅れて一番奥の仕切りからサリナが出てきました。彼女はいつも通り穏やかな表情で、実技服の襟元も袖口もきちんと整っております。その後ろから、ユリナがミアティーネの袖を直しながら出てきました。
「ミア、これで大丈夫ですわ」
「うん、ですの」
「ユリナ様も、後ろの結び目が少し曲がっておりますわ」
「えっ、本当ですの?」
サリナが何事もない顔でユリナの背後に回り、手早く結び目を整えます。その所作はあまりにも自然で、周囲の生徒たちも、見てはいけないものを見たような、けれど見事な連携を見たような、なんとも言えない顔をしておりました。
サリナがこちらを見ました。
ほんの少しだけ、口元が上がっていた気がいたします。
それは、わたくしの浅ましさが生み出した幻覚に違いありません。以下同文ですわ。
「アリアンドラ、どうかしましたの?」
「何でもありませんわ。ただ、あなた方には更衣室の礼法から教える必要があると、深く理解しただけですわ」
「ありがとうございます。学べることが増えましたわ」
「感謝の前に常識を身につけなさいまし!」
ユリナは少し楽しそうに笑いました。ミアティーネはユリナの袖を掴み、サリナはいつの間にか小さな紙片へ何かを書きつけています。記録帳を持っていなくても記録するのですか、この方は。
実技場へ向かう扉の前で、先生が手を叩きました。
「皆さん、支度は整いましたか。今日は基礎体力と姿勢の確認から始めます」
基礎体力と、姿勢。
わたくしはその言葉を聞いて、少しだけ気持ちを切り替えました。更衣室でどれほど常識を揺さぶられようとも、授業が始まれば勝負です。座学も礼法も実技も、わたくしはユリナに負けるつもりはございません。
「ユリナ」
「はい、アリアンドラ」
「更衣室ではあなたに礼法を教えましたけれど、実技では遠慮なく勝たせていただきますわ」
「望むところですわ」
ユリナの銀色の猫耳が、楽しそうにぴんと立ちました。
その横で、ミアティーネが小さく言います。
「お姉さま、がんばる、ですの」
「ええ。ミア、見ていてくださいね」
……ええ、よろしいでしょう。
更衣室では、わたくしが勝ちました。実技場でも勝ってみせます。
ただし、この時のわたくしはまだ知りませんでした。ユリナティーネ・ソーマという方は、礼法では時々とんでもなく無防備なのに、身体を動かすとさらに凶悪になることを……。




