第22話 肩を貸しただけですわ
王立加護学園の前期一年が始まって、数日が過ぎた頃のことです。
初日の大広間でユリナティーネ・ソーマに勝負を申し込んだわたくしは、座学、礼法、加護学、実技、そして朝の挨拶に至るまで、何かにつけて勝負を仕掛けるようになっておりました。もちろん、すべてはディーテ家の令嬢として、母カトリーナの期待に応えるためであり、ユリナと毎日言葉を交わす理由が欲しかったからではありません。えぇ、決してそのようなことではありませんわ。
ありませんったら、ありません。
その日のお昼休み、わたくしは食堂へ向かう廊下でユリナを見つけました。隣にはミアティーネがいて、少し後ろにはサリナが記録帳を抱えております。ユリナはお昼ごはんが楽しみらしく、銀色の猫耳がほんの少しだけ前を向いておりました。
「ユリナ」
呼ぶと、ユリナは素直にこちらを振り向きました。
「あら、アリアンドラ。早食い競争のお誘いかしら?」
「そんな勝負はいたしませんわ!」
「冗談ですのに……では、お昼をご一緒するお誘いですわね。喜んで」
「そ、そう。分かっていればよろしいのですわ」
わたくしは平静を装って頷きましたが、返事があまりにも早かったせいで、しっぽが一瞬だけ跳ねそうになりました。危ないところです。勝負相手を昼食に誘うなど、貴族の社交としては当然のこと。少しも特別な意味はございません。
ちなみに、ヨシアーナ嬢とアキミリア嬢にも声をかけるつもりでしたが、二人はユリナの姿を見るなり、そろって首を横に振りました。
「恐れ多いですわ、アリアンドラ様」
「わたくしたちは、遠くから見守らせていただきますわ」
何を見守るつもりなのですか。わたくしは昼食をとるだけです。けれど、二人の頬が妙に赤かったので、それ以上は追及しませんでした。もしわたくしがお母様に厳しく躾けられていなければ、ユリナに対してあの二人と同じような顔をしていたかもしれないなどと、そんな恐ろしい可能性は考えないことにいたしました。
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学園の食堂は、前期課程の生徒が昼食をとるための広い部屋です。家から弁当を持ってくる生徒もいれば、学園で用意された食事を取る生徒もいて、席順は厳密には決まっていません。けれど、実際には家格、派閥、友人関係が自然と座る場所を決めており、食堂もまた小さな社交界でした。
わたくしはユリナたちを、窓際の席へ案内しました。外の庭が見える場所で、会話を聞かれにくく、それでいて孤立して見えない絶妙な位置です。こういう席を自然に選べるかどうかも、令嬢の腕の見せどころでしてよ。
「まあ、良い席ですね」
ユリナがそう言ってくれたので、わたくしは扇を開きました。
「当然ですわ。席選びも礼法の一部ですもの」
「なるほど……席にも礼法があるのですね」
「ありますわ。あなた、そういうところは本当に素直ですわね」
「学べることは学びたいですもの」
そう言って微笑むユリナは、挑まれた勝負を楽しむ騎士のような顔をしておりました。それなのに、食事が運ばれてくると、その表情が一瞬でほどけます。
「おいしい……この柔らかくて甘みのあるお肉、贅沢ですわ……」
ユリナは小さく息を吐き、目を細めました。背筋は伸びています。ナイフとフォークの扱いも乱れていません。口に運ぶ量も、咀嚼の間も、音を立てない所作も、どれも見事です。それなのに、食べた瞬間だけ、まるで戦場から戻ってきた騎士が湯に浸かったような顔をするのです。
「ユリナは、いつもおいしそうに食べますのね」
「実際、おいしいんですもの。生きているって実感が湧きますわ」
「……その表情、少し反則ではなくて?」
「ん?」
ユリナが不思議そうに首を傾げました。ミアティーネは当然のようにユリナの皿を見つめ、サリナは穏やかに自分の食事を進めています。二人とも、ユリナの表情に動揺している様子はありません。
もしかして、わたくしだけですの。
この無防備な顔を見て、胸の奥が妙に落ち着かなくなっているのは、わたくしだけですの。
「いえ、なんでもありませんわ」
「そうですの?」
「ええ。食事中に勝負相手を観察していただけですわ」
「食事も勝負なのですわね」
「違いますわ」
違うはずなのに、ユリナは少し楽しそうでした。どうしてこの方は、わたくしが強めに言えば言うほど、嬉しそうに受け止めるのでしょうか。
サリナのテーブルマナーも、ユリナに負けず劣らず整っておりました。男爵家の令嬢とは思えないほど自然で、余計な力みがありません。母親であるリサがユリナの作法を叩き込んだ人だと聞けば、サリナが同じ水準でできるのも当然なのかもしれませんが、それにしても、ソーマ家の周りには油断ならない方ばかりです。
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昼食の後、わたくしたちは中庭の木陰へ出ました。午後の授業まで少し時間があり、学園の庭には同じように休憩する生徒たちが点々と座っています。風は柔らかく、芝生はよく手入れされ、木漏れ日が制服の袖に小さく揺れていました。
サリナは先生に呼ばれたそうで、少し席を外しております。残ったのは、わたくしとユリナとミアティーネの三人でした。
「お姉さま……ひざ、貸して、ですの」
「どうぞ」
ユリナは何のためらいもなく頷きました。ミアティーネはそのまま、こてん、とユリナの膝に頭を預けます。あまりにも自然な流れだったので、わたくしは一瞬、止める言葉を見失いました。
「……お茶会の時も、そんなふうでしたわね」
「そうでしたか?」
「ええ。ミアティーネは、あなたの隣を当然のように確保しておりましたわ」
「ミアですから」
ユリナは当たり前のように言いました。その声に誇らしさが混じっていて、胸が少しだけざわつきます。ミアティーネはもう目を閉じており、ユリナの膝の上で静かに寝息を立て始めていました。
うらやましい、などとは思っておりません。えぇ、思っておりませんわ。
思っておりませんが、姉妹とはいえ、距離が近すぎます。
「いつもは、私も一緒に眠ってしまうんですけどね……」
ユリナの声が少し眠たげに揺れました。昼食の満足感と、木陰の涼しさと、ミアティーネの重みが揃ってしまったのでしょう。銀色の猫耳が、ゆっくり力を抜いていきます。
わたくしはそこで、言わなければよかった一言を口にしました。
「肩をお貸ししましょうか?」
「ほんと? ふぁあぁ、ありがとう……」
こてん。
次の瞬間、ユリナの頭が、わたくしの肩に預けられていました。
ん? え? 本当に……?
ユリナはミアティーネの面倒を見ているから、距離感が普通ではないのです。そうです。これは姉妹の距離に引っ張られた事故です。わたくしが特別に近づいたわけではありませんし、ユリナがわたくしに特別な意味で寄りかかったわけでもございません。
それなのに、長いまつげが肩越しに見えます。呼吸の音が、布越しに伝わります。ほんのりとした体温が近くにあり、わたくしの心臓は、舞踏の授業のどんな速い曲よりも忙しく鳴り始めました。
聞こえてしまったらどうしましょう。
この鼓動が、ユリナに聞こえてしまったら。それに……
(いい匂い……肩越しに伝わってくるユリナの香りが、なんとも懐かしい……ずっと求めていたような、そんな匂いですわ……なぜかしら、九歳のあの日のユリナの姿が、思い浮かびます……)
……ちょっとだけ。ちょっとだけ、確かめても許されるはずですわ。勝負の相手がどのような香りをまとっているのか、把握しておくことも重要ですもの。えぇ、重要です。
わたくしは、ユリナの髪にそっと鼻を近づけ……
「ただいま戻りました」
「ひゃいっ!」
思わず、淑女らしからぬ声が出ました。
サリナが少しだけ目を丸くしています。記録帳を胸に抱えたまま、いつものおっとりした顔で立っているのに、その視線はわたくしの肩とユリナの寝顔を正確に捉えておりました。
「申し訳ございません。驚かせるつもりはなかったのですが」
「ち、違いますの。その、少し、油断していただけですわ」
ユリナに対して何かいけないことをしているような気分になっていたなど、口が裂けても言えません。
サリナはにこりと微笑みました。
「油断なさっているのは、ユリナ様ですわ」
「ユリナが?」
「はい。ユリナ様は、ミアティーネ様がそばにいらっしゃる時ほど、周囲に気を配っていらっしゃいます。けれど今は、ゆるみ切った寝顔ですわ」
「……そう見えますの?」
「ええ。ですから、これほど気を許していただけるアリアンドラさんは、特別なのかもしれませんわね」
特別。その二文字が、頭の中で鐘のように鳴りました。
と、特別。わたくしが、ユリナにとって、特別。
顔がにやけないよう、口元にきりりと力を入れました。
「そろそろ午後の授業が始まりますわ」
「そ、そうですわね。ユリナ、そろそろ起きてくださいまし」
優しく起こして差し上げます。なにせ、わたくしは、ユリナにとって特別なのかもしれませんし。肩を貸した者として、ここは穏やかに、上品に、完璧な令嬢として。
「ん……サリナ、あと五分……」
プチンッ。何かが、わたくしの中で切れました。このわたくしが肩を貸しておりますのに、他の姫の名前を……
「どなたとお間違えですの? ユリナティーネ嬢。ご・ご・の・授・業・に、お・く・れ・ま・す・わ・よ」
思ったより大きな声が出てしまいました。
ユリナの猫耳がぴんと立ち、ミアティーネはまだ眠っておりました。サリナは記録帳を開きかけて、何事もなかったように閉じます。閉じたところで、もう記録する気だったのは分かっております。
「えっ、あれ、アリアンドラ。私、なんで……」
「なんでって、あなたが寝そうにしていたから、肩を貸してさしあげたのですわ。お忘れ?」
「あ、そう、ですわね。ありがとう」
ユリナはほんの少し頬を赤くしました。寝起きで目元がゆるんでいるせいか、上目遣いのような角度でこちらを見てきます。
「……なぜ、あなたが照れておりますの」
「だって、アリアンドラのように可愛い人に肩を貸していただいていたなんて、さすがに少し照れますわ」
「か、かわ……」
ユリナが、わたくしのことを。
わたくしの耳が熱くなり、しっぽが動きそうになりました。いつか、ユリナに認めさせたいとは思っておりました。思っておりましたけれど、実際に言われると、どう受け取ればよいのか分かりません。
けれど、すぐに冷静になりました。
とても可愛い方に可愛いと言われても、それは鏡が鏡を褒めているようなものではありませんか。
「可愛いのは、あなたでしょう。ユリナ」
わたくしは真顔で答えました。まったく、何を言っているのでしょうか、この方は。
「えっ」
「えっ、ではありませんわ」
「ユリナ様、アリアンドラさん。じゃれ合うのはそのくらいになさって。午後の授業に遅れますわ」
「じゃれ合っていませんわ!」
「じゃれ合っておりません!」
声が揃ったのが、また恥ずかしいですわ。
結局、ミアティーネは最後まで起ききらず、ユリナが背負って教室まで運ぶことになりました。前期一年の廊下を、眠たげな妹を背負った銀色の令嬢が歩き、その横でサリナが記録帳を抱え、わたくしが何事もなかった顔で付き添う。そんな光景を見た同級生たちの猫耳が、また一斉にぴくりと立ちました。
この日、わたくしは学びました。
ユリナティーネ・ソーマとミアティーネ・ソーマの常識外れは、授業中だけでなく、昼休みにも平然と起きるのだと。
そして、サリナの記録帳にはきっと、こう書かれているのでしょう。
『アリアンドラさん、ユリナ様へ肩を貸す。とても距離感が近く、特別』
……違いますわ。あれは、ユリナとミアティーネの距離感に巻き込まれただけで、別に、と、特別だとかでは……
顔が火照ってしまいますわ……




